「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第3回 「教授」以前の彼(その2)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第3回の公開です!

1 4週間続いた新宿高校でのストライキ

 新宿高校時代の有名なエピソードに、坂本龍一が中心となって行なった「ストライキ」がある。

 3年生の秋ごろ、新宿高校でストライキをやりました。69年の秋ですから、当時としては遅い方なんですが、安保条約とかベトナム戦争とか、そういう一般的な問題ではなくて、ローカルな、学校の個別課題に関しての運動でした。たしか具体的な要求を7項目、学校に突きつけました。制服制帽の廃止、すべての試験の廃止、通信簿の廃止、等々。(『音楽は自由にする』)

 このときのことは、「3バカトリオ」の塩崎恭久と馬場憲治の対談「革命同志・坂本龍一を偲ぶ」(『文藝春秋』2023年6月号)でも語られている。二人によれば、彼らは校長室に押しかけて占拠し、校長に要求書を手渡した(書いたのは馬場だった)。高校生の「運動」の真似事かと思いきや、「ヘルメットに覆面姿」だったというから、実際にはそれなりに不穏だったはずである。坂本龍一は寝坊して遅刻してきたが、「事態が膠着したので、打開するために校庭でデモをした。その指揮をとったのが坂本君ですよ。それも当然で、彼は理屈を言わせると優れていて、弁が立つから」(馬場)。「非常に頭が良かったよな」(塩崎)。

 「人が人を評価できるはずがない。ましてや人を数字で評価してはならない」というのが主張の中心でした。それは、試験で生徒をランク付けして大学に送り出していく、という教育の仕組み自体を否定することになります。学校制度の解体ですね。(同)

 対談で馬場は2022年の10月に「坂本君から「あのときの項目要求書の内容を覚えている?」とメールがきたので手元にあるのを送」ったと語っている。『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』の鈴木正文による最後のインタビューが行われたのは2022年10月12日だが、同書にはこの件についての言及は特にない(馬場に送られたメールとの前後関係は不明)。別の理由であったか、あるいは純粋にノスタルジーに駆られてのことだったのかもしれない。

 ストライキは4週間も続いたという。坂本龍一は前掲書で、「授業は自分たちでやりました。今起きていることこそが世界史だ、と言って、ベトナムやパリで起きていることについて討論をしたり、フッサールを読んで現象学的還元をかじったり」と回想している。

 馬場はこう言っている。「このとき「ヘルメットをかぶった坂本君が、音楽室のピアノでドビュッシーを弾いていた」という「伝説」があるのですが、あれは嘘です。絶対やっていない。彼がそんな格好悪いことをするわけがない」。この点にかんしては『音楽は自由にする』でも言及されているが、本人は「よく覚えていません。もし、そんなことをしたとすれば間違いなく、モテようと思ってのことでしょうね」とのこと。 真実がどうだったのかはもはや知る術もないが、想像してみただけでも絵になる光景ではある。

 ここで二つのことが言えるのではないかと思う。ひとつは、まだ少年と呼んでよかった坂本龍一にとって、何かしらのアクションを伴う「運動」とは、安保やベトナムといった「一般的な問題」であるよりも前に、まずは「ローカル」で「個別」の課題にかかわるものだったということである。もちろん彼は、世界が、日本が抱える、幾つもの重大な問題について真摯に考えてもいただろう。むしろそのためにこそ、自分の手の届く身近なところに視線を向け、そこから具体的に、地道に、確実に変えていかなければならない。それは「今起きていること」を、遠くと近くの両方のレンズで見るということである。

 ここにはすでに、後年のアクティヴィスト=坂本龍一の基本姿勢が現れている。世界を変えるためには日本を変えなくてはならない。日本を変えるためには社会を変えなくてはならない。社会を変えるためには、まずは自分の居る場所を、つまり学校を変えなくてはならない。大きな問題を解決するためには「今ここ」を変えようとすることから始めなくてはならない。

 もうひとつは「解体」への志向である。馬場は塩崎との対談の中で、自分たちが要求したのは制服の「廃止」ではなく「自由化」だったと訂正しているが、おそらく坂本龍一は敢えて「廃止」や「否定」そして「解体」という言葉を使っている。実際は彼も制服の自由化に賛成だったのだろうが、まず第一に学校に要求するのは「廃止」であるべきだった。旧態依然たる保守的な制度に対して突きつけるのは、あくまでも「解体」でなければならなかった。だがこれは破壊へのやみくも(で無責任)な欲望とは違う。解体は再構築、いや、まったく新たな構築の前提として希求されているのだ。マイナーチェンジには自ずと限界がある。もはや微修正では理想は実現できない。既存のシステムをキャンセルし、新しいシステムをいちから作り出すこと。それは政治的な運動に限らず、60年代という時代の空気だったが、坂本少年にとっては「音楽」の問題でもあった。

2 ジョン・ケージ・ショック

 彼は「高1か高2のころ」にジョン・ケージに「出合ってしまった」。「それまでの現代音楽が、非常に複雑な理論に基づいて曲を構築していくものだったのに対し、ケージは偶然性を大胆に取り入れた。サイコロを振って、その目に従って曲を作ってしまったりもする。それはヨーロッパ音楽の系譜からは大きく外れたものでした。ぼくが作曲の先生のところで毎週勉強していた音楽とも、もちろん相容れない。そういうものに出会ったインパクトは本当に大きかったし、それは現在も続いています」(『音楽は自由にする』)。

 坂本龍一が生まれた1952年は、ジョン・ケージが「4分33秒」を発表した年である。ニューヨーク留学中にケージに学んだ一柳慧が帰国したのが1961年、日本の現代音楽シーンに「ジョン・ケージ・ショック」が吹き荒れた。坂本龍一が高校生だった60年代後半にはスティーヴ・ライヒなどのミニマル・ミュージックも紹介されていた。ある意味で「音楽」はとうの昔に「解体」されていた。坂本少年は、小中高のあいだに、数世紀ぶんの近・現代音楽史の変化と進化を早回しで習得したのだと言ってもいい。彼の耳は構築と解体と再構築と再解体(……)の往復運動を、敏感に、繊細に、貪欲に聴き取っていった。

 小学校のときに夢中になったバッハから始まって、ベートーヴェン、ドビュッシー、そしていわゆる現代音楽と時代を遂うように聴いてきた西洋音楽は、60年代末の時点で、自分にとって同時代の音楽になっていました。西洋音楽史と個人史がクロスして、気がつけば作曲の現場と同じ時間の中にいた。それは、音楽家たちの問題意識が、自分自身の問題意識と重なりあうようになったということでもあります。

 このころは高校生活の終盤で、ぼくは学校や社会の制度を解体するような運動に身を投じていたわけですが、同時代の作曲家たちも、既存の音楽の制度や構造を極端な形で解体しようとしていた。西洋音楽はもう行き詰まってしまった。われわれは、従来の音楽でブロックされた耳を解放しなければいけない、そんなことをぼくは考えていました。「解体の時代」でした。(同)

 もっとも、それから半世紀以上が経過した最晩年になると、坂本龍一の「解体」観は、当然ながら大きく変化している。

 60年代後半に演劇、映画、文学、そして音楽の各ジャンルで起きていた前衛運動ーー要するに、古い価値観を壊して斬新なものを作ろうとしたムーブメントは、今日ではもう全然新しいものではない。(中略)みんなで共有している一直線の歴史上の決まりごとが、現在は存在しませんからね。そしてぼくには政治方面はともかく、芸術文化面で今後、何か壊すべき強力な価値観が生まれるとは思えないのです。(『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』)

 言うまでもなく、この認識はあまりにも正しい。だが、これを達観と見るか諦念と見るかは人それぞれだろう。だが、60年代末の日本にはまだ「ポストモダン」さえ到来していない。話を戻そう。

3 「音楽活動」と「社会活動」

 1970年、坂本龍一は東京藝術大学音楽学部作曲科に現役で合格した。池辺晋一郎の「予言」は当たったわけである。「高校ではバリケードを張って教育制度の解体を叫んでいたくせに、結局ふつうに入試を受けて、大学に入った。理屈としては「解体するために」入学したんですが」(『音楽は自由にする』)。本人もそこに矛盾を感じないではなかっただろう。「ストライキ」のせいで処分を受けることも覚悟していたというが、蓋を開けてみると「3バカトリオ」で自分だけがストレートで大学に受かっていたのだから(塩崎と馬場は浪人した)。だが、そうして通い始めた芸大は退屈だった。「音楽を勉強するには小さいころからかなりお金がかかるので、お金持ちのお嬢さんが多い。男子も、どちらかというとお坊ちゃんぽいやつが多い」。そんな中、坂本龍一は「長髪でジーパンをはいて、なんだか怖い顔をして、大学なんて壊すために入ったんだ、とか言っているわけですから、完全に浮いていました」(前掲書)。坂本家もけっして貧しかったわけではないので、これは家庭環境というより本人が選択したスタンス、もしくは一種のポーズだったということだろう。彼は自分が所属する音楽学部よりも、変わったタイプの人間が多かった美術学部によく出入りするようになり、ライブやコンサートにも高校時代にも増して頻繁に出かけていった。相変わらず「運動」にも積極的に参加していた。

 大学に入って、運動をしなくなったというわけではありません。ぼくが入学した70年は、赤軍派によるハイジャックがあった年で、70年安保をめぐって大きな集会もあった。ぼくは美術学部の学生を引き連れてよくデモに行きました。入学してすぐにリーダー格になって、デモを指揮した。生意気で元気がよかったんです。(同)

 だが、「芸大での運動は、なにか具体的な課題があってのものではありませんでした。舞踏をやっている友人に、そのままヘルメットをかぶせて連れてくる、というような調子でしたから、デモに行くことは芸術運動の延長みたいな感じだった」(前掲書)。

 彼に限らず、60年代から70年代初めにかけて全世界に吹き荒れた、若者、特に学生を中心とする政治運動には、本人たちの意識はどうあれ、一種の「芸術運動」すなわち「(自己)表現」という側面があったことは否定できないのではないかと思う。一見まったく異なるものに思われる「政治ー運動」と「芸術ー表現」は、必ずしも喫緊の「なすべきこと」が何かあったわけではない者たちの内で分かち難く結びついており、その峻別は彼ら自身にもおそらくついていなかった。もちろん世界には深刻で火急の具体的現実的な問題に直面して自分の意志や欲望とは別に否応なしに運動に身を投じていった者も無数にいたわけだが、そこまで差し迫った現実に対峙しているわけではない、相対的に平和な国の青年たちは、自分らとは境遇がまるで異なる、明確な理由があって「運動」している人々への共感や連帯の意識だけではなく、要するに若さゆえのあり余るエネルギーや情熱、現在の言葉でいうなら承認欲求、つまり得体の知れない「自己表現」への衝動に突き動かされるようにして、デモや集会、あるいはもっと過激な行動へと向かっていったのだ。

 そしてこのこと自体は、何ら批判されるべきことではない。それがなければ、あの時代の沸騰と熱狂はありえなかったのだから。

 坂本龍一も例外ではなかった。のちに彼は「音楽活動」と「社会運動」は別々の営み/試みだとする態度を意識的に取るようになるが、二つは根元の部分では一体だったのだと私は思う。むしろだからこそ、両者は切り分けられなければならなかったのだ。音楽を運動の道具にはしない、運動を音楽の燃料にはしない、或る時期以降の彼が身に纏うようになった、そのような態度は、坂本龍一という存在の(他人の目には矛盾にも映りかねない)二重性を表している。それはまた、彼の「無名性」への志向ともかかわっているだろう。それだけではない。このことはおそらく「坂本龍一にとって音楽とは何だったのか?」という、より本質的な問いとも深く関係している。だが、そこに向かうのはまだ早い。

4 ジョン・ケージとロックと民族音楽と電子音楽

 芸大生坂本龍一は、「いわゆる現代音楽的なものは必ず聴きに行っていたし、ロックのコンサートにもしょっちゅう行っていた」。日比谷野外音楽堂の思い出話は興味深い。「当時、日比谷の野音ではほとんど毎週のように無料のコンサートをやっていて、フラワー・トラベリン・バンドなんかが出ていた。70年当時の「人民の音楽」であったロックを、無料で聴かせるコンサート。それはまさに、人民に音楽を解放する試みとも言えます。まずそのことに、ぼくはとても共感していました」(『音楽は自由にする』)。

「人民」というワードには強い意味が込められている。アカデミックでハイブロウな、それゆえに象牙の塔に閉じている「現代音楽」と、野外ステージで無料で提供される開放的で解放的な「人民の音楽」、これもまた二重性である。

 それから、ロック・コンサートの音というのは、曲として聴くと、現代音楽の耳にはかなり単純なものですが、音響として聴くととても面白かったんです。アンプというテクノロジーを使って、小さな音がすごく大きな音に拡大されている。聴衆は、いわば顕微鏡的な空間に入っていくわけです。これはとてもジョン・ケージ的な音響空間です。ロックは音楽にノイズを持ち込んだというのも重要な点です。これも、ロックのジョン・ケージ的な側面です。ロックが持っていた、顕微鏡的な性質とノイズの導入、それは後にエレクトロニカに受け継がれ、今に至っている。(同)

 これは2009年1月刊行の著作における記述であり(坂本龍一が「エレクトロニカ」に最も接近したアルバム『out of noise』がリリースされたのは2009年3月である)、大学生のときに野音で爆音を浴びながら彼がこのような語彙で考えていたわけではないだろう。顕微鏡的=マイクロスコピックという形容詞も、90年代後半以後のエレクトロニカのタームである。だがしかし、坂本青年がこのとき、ジョン・ケージとロックの共通性を体感したことは確かだっただろう。ニューヨークでケージの近傍にいたロック・ミュージシャンたちにとって、それはごく当たり前のことであったのかもしれないが、日本でそのことをいちはやく理解していた者はまだ数少なかった。坂本龍一は、その二重性ゆえに、直感的に「ロックのジョン・ケージ的な側面」と「ケージのロック的な側面」に気づくことができたのだ。

 坂本龍一にとって芸大は退屈な場所だった。とはいえ、大学院まで進んだのだから、完全に疎かにしていたわけではない。彼は芸大に入るよりも前に西洋音楽の理論と歴史の大方をすでに学んでしまっていた。それに実践と実験はキャンパスの外でいくらでも体験できた。となると、それ以外とは何か?

 大学に入ったときにはっきり心に決めていたのは、「とにかく民族音楽と電子音楽は学び倒してやろう」ということでした。ぼくは不遜な小僧でしたから「西洋音楽はもうデッドエンドだ、この先に発展はない」と思っていた。発展があるのなら勉強して進んでいけばいいけれど、もう袋小路だとしたら、西洋音楽以外のものに目を向けるしかない。外側を見ていかなくてはいけない。(同)

 坂本龍一は、小泉文夫が担当する民族音楽学の講義には熱心に出席した。前に触れたように15歳の時点で著書は読んでおり、それ以来、小泉は彼のアイドルのひとりだった。小泉に憧れるあまり作曲専攻から音楽学者に転向することを真剣に考えてみたりもしたという(そうならなくてよかったが)。のちに見るように、「西洋音楽」の対立項としての「民族音楽」は、坂本龍一の音楽の重要な発想源のひとつとなる。

 「電子音楽」については、特にヤニス・クセナキスの音楽に強く惹かれたという。第二次世界大戦ではナチスへのレジスタンスとして戦い、ル・コルビュジエを師に持つ建築家から作曲に転向したこのギリシャ人は「作曲に数学的な手法、群論や統計学などを取り入れ、コンピューターを使って複雑な計算をしながら曲を作って」いた。だが、坂本龍一が電子音楽=コンピューター音楽に関心を抱いたのは、クセナキスのような高度な演算処理による作曲技法に可能性を見出したからだけではなかった。

 電子音楽に興味を持っていたのは、「西洋音楽は袋小路に入ってしまった」ということのほかに、「人民のための音楽」というようなことも考えていたからなんです。つまり、特別な音楽教育を受けた人でなくても音楽的な喜びが得られるような、一種のゲーム理論的な作曲はできないものかと思っていた。作曲は誰でもできるはずだ、誰でもできるものでなくてはいけないはずだ、と思っていました。(同)

 こうして若き坂本龍一の脳内で、ジョン・ケージとロックと民族音楽と電子音楽は、デッドエンドに陥った西洋音楽へのブレイクスルーと、「人民」という概念=キーワードとによって一本の線に結ばれる。作曲や演奏を専門知やプロフェッショナリズムや秘儀性から解き放ち、技術や知識を持たないが音楽をしたいと望むあらゆる人々(人民)に押し開こうとする夢は、テクノの時代に入っていっそう鮮やかに花開くことになるだろう。80年代、YMOによって一躍スターダムに押し上げられた坂本龍一は、メディアの表舞台では先端的なセンス・エリーティズムの代表として華麗に振る舞いながらも、その裏に常に「人民」への共感と友愛に満ちた視線を隠していた。テクノロジーの最たるものであるコンピューターが、音楽を(「芸術」を、と言い換えても同じことだ)アマチュアに受け渡し、多くの人民の共有財とすることーー「誰でもできる」とはそういうことであるーーにこそ貢献するという「思想」は、時代的に見ても非常に早かったと言ってよい。

5 「芸大作曲科在学中のピアノ弾き」

 最初の結婚によってお金が必要になったこともあり、坂本龍一は芸大在学中からピアノの腕を活かしたアルバイトを始めた。銀座の「銀巴里」ではシャンソン、他のバーでも映画音楽やポピュラー音楽の伴奏をして日銭を得た。仕事で弾いた曲のメロディが頭に残ってしまい閉口したという。

 酔客相手にピアノを弾く仕事ばかりではなくて、美術学部の友人が関わっている劇団のために曲を書いたりすることも、大学当初からたびたびありました。そして、ロックやフォークのミュージシャンたちのレコーディングやライブの手伝いをしたり、やがて友部正人さんの全国ツアーに同行したりと、ミュージシャンとしての仕事が増えていきました。音楽が自分の本質だというような自覚は相変わらずまったくないまま、音楽の仕事は生活の中心になっていきました。(同)

 坂本龍一という、ちょっと変わった「芸大作曲科在学中のピアノ弾き」の存在は音楽業界に次第に知れ渡っていった。彼は黒テントや自由劇場といったアングラ演劇の音響/音楽も手伝うようになった。次章で述べるが、黒テント主宰の佐藤信がYMOの「散開」コンサートを素材とするドキュメンタリー映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』(1984年)の監督を務めることになるのは、この頃からの繋がりによるものだったのかもしれない。坂本龍一はフォークにかんしてはほぼ無知だったが、演劇関係者と行った新宿ゴールデン街の店でたまたま隣り合わせになった友部正人と意気投合して、誘われるままレコーディングに参加し、友部のツアーにも随行した。まだ学生の身であるにもかかわらず「どうせ暇だからいいよ」と言って「半年ぐらい日本中のライブハウスを回った」(『音楽は自由にする』)。

 友部さんとのツアーのときには、もう大学院生でした。大学院に進んだのは、社会の中で何かに所属するということが想像できず、いいかげんな学生の身分のままでいたかったから。作曲の理想に燃えて勉強を続けたかったからではありません。(中略)大学時代も学校にほとんど行きませんでしたが、大学院の授業には本当に全く出なかった。(同)

 要するに留年を続けていたということである。本人の希望はどうであれ、こんな体たらくで大学にいつまでも留まれるはずがない。坂本龍一は指導教授に懇願されて(「何もやっていない大学院生を置いておくのは大学にとっても無駄だし負担」ということだったらしい)、4年まではいられることになっていた大学院を3年で修了した。とはいえ中退や除籍ではなかった。「何か作品を提出すれば修了できるということだったので、1曲書いて、大学院を出ることになりました」(同)。現役合格で早期修了、大学ではほとんど何も学ばなかったが、坂本龍一は入る時も出る時も「優等生」だった。1977年、彼は25歳になっていた。

6 芸大在籍時の作品群

 修了作品「反復と旋」を含む東京芸大在籍時の作曲作品や同時期の参加楽曲などは、CD3枚組のコンピレーション『Year Book 1971-1979』で聴くことができる。譜面のみで実際には演奏されなかったり、初演の録音が残っていない曲もあったが、YMOで有名になったことで、80年代以降、初演や再演の機会がたびたび訪れた。『Year Book 1971-1979』には、そうした録音が集成されている。

 収録楽曲は年代順に並んでいるが、最も古い作品は1970年、坂本龍一が大学1年生の時に作曲し、翌年に初演された「ヴァイオリン・ソナタ」である。ヴァイオリンとピアノの二重奏曲で、初演では作曲者自身がピアノを弾いたというが、録音は1984年末に神奈川県立音楽堂で開催された坂本龍一の作曲作品の演奏会でのもので、ヴァイオリンは漆原啓子、ピアノは高橋悠治、坂本龍一は譜めくりを担当した。芸大教授でもあった作曲家の三善晃と、三善経由でフランスの作曲家アンリ・デュティユーに影響されたと本人は語っている。デュティユーのひとつ前の世代に当たる「フランス6人組」やエリック・サティ的な要素も感じられる佳曲。

 「弦楽四重奏曲 エチュード I, II」(1971年作曲初演)は、ハンガリーの作曲家バルトークからの影響が色濃いが、曲名にもあるように続く「弦楽四重奏曲」のための「エチュード=習作」であり、2015年にニューヨークでミヴォス・カルテットによって演奏された録音は3分余りとごく短い。本人は「保守的な芸大の課題としては適していたんでしょう」と『Year Book 1971-1979』の付属ブックレットで語っているが、確かに「リゲティやシュトックハウゼン、クセナキスが大活躍していた時代」にしては控えめな作風で、アカデミックな発想を逸脱してはいないが、彼がまだ10代だったことを思えば早熟さは歴然としている。

 「ヴァイオリン・ソナタ」と同じ日に録音された「弦楽四重奏曲」(1971年作曲、1972年初演)は、バルトーク、三善晃に加え、ウェーベルンと高橋悠治を坂本龍一は影響源として挙げている。四楽章から成る作品だが、次の楽章に移るとまったく異なる曲調に変化する折衷主義的な曲であり、「ひとつのスタイルできれいにまとめるなんてクソくらえ!」という「八方破りな気持ち」によるものだったというが、「学校の課題としての点数は低かった」。

 しかしあらためてこの3曲を聴いてみると、わずか2年足らずのあいだの成長と変化は凄まじい。まるで「このタイプの作曲はもうやったので、さっさと次に向かおう」とでも言いたげな感じである。それだけに独創性に欠けるきらいもあるのだが、このごく短い期間に、坂本龍一は、先行する偉大な作曲家たちの方法や技法、メチエやテクネーを、ある程度以上、自在に参照/引用可能なものとして習得していったということだろう。それは鋭敏で聡明なひとりの「遅れてきた青年」として、現在にたどり着く豊穣で複雑な音楽の歴史を早回しで学習してきた彼としては、ほとんど必然的な姿勢だった。

7 「色彩」「音色」という問題意識

 学部生時代の「習作」の全てに影響が刻印されている三善晃のことを、坂本龍一は「日本の作曲家の中で、武満徹さんと並んでとくにすごい人だと尊敬していた」が、芸大入学以前から師事していた松本民之助のゼミにそのまま所属したため、三善の授業には一度しか出席できなかった。だが、その一度は彼に重要な示唆を与えた。三善に言われたことを坂本龍一は何度か語っている。

 先生は「君は、形というものはどうやって認識できると思う?」と実存主義のような質問をしました。ぼくが埴谷雄高や吉本隆明で読んだようなことを答えると、「色彩がないと、認識できないんだ」という。色彩があって初めてフォルムが認識できると。つまり、婉曲なかたちでぼくの曲には色彩がないといわれたんですが、先生のおっしゃることには説得力があって、なるほどなあと思った。ぼくはすでにアカデミックな現代音楽とは別のものに魅力を感じていたけれど、三善先生が経てきたような厳密で論理的な鍛錬の向こう側には、それに見合う自由な世界があるのだろう、とも想像していました。(同)

 「色があることによって形が成立する。音楽で言うと音色の変化があって初めて音楽の形が見える」と坂本龍一は『Year Book 1971-1979』のブックレットでも述べている。三善晃が言わんとしたことは必ずしも定かではないが、この「色彩」「音色」という問題意識は、坂本龍一の音楽の底流をその後も流れ続けることになる。

8 フーコーへのオマージュ

 『Year Book 1971-1979』で聴くことのできるクラシカルな編成の作品には他に、高橋アキ(高橋悠治の実妹)のピアノ・リサイタルのために書かれた「分散・境界・砂」(1975年作曲、1976年初演/録音)と、芸大修了作品「反復と旋」(1976年作曲、1984年のテレビ番組「題名のない音楽会」で初演。録音もこの時のもの)がある。坂本龍一は大学院に進んでいたが、雇われミュージシャンとしてあちこちの「現場」に出向く忙しい日々を送っていた。曲名からして学部生時代とは一変しており、作風も大きく変化している。「分散・境界・砂」というタイトルはミシェル・フーコーへのオマージュである。「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ(中略)賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと」( 渡辺一民、佐々木明訳)という名高い末尾を持つ『言葉と物』の邦訳は1974年に出版されていた。坂本の「分散・境界・砂」は、ピアノの内部奏法を多用し、ピアニスト自身によるテクストの朗読が交錯する前衛的な作品である。楽譜に書かれてあると思しきテクストを録音から聞き取って以下に書き起こしてみる。

坂本龍一作曲「分散・境界・砂」

収斂させるのでなく たとえば一つの歌

分散 分割すること

作品が虚構の時間だとすれば、時間を表す言葉のさまざまなずれ

時代背景は明確に提示されていながらも、数量化する時間の符牒が比較的少ないので ああいったい時間はどうなってるんだろう?

1秒の単位が本来のものと少しずれている時計があるとして、それは何を示してるんだろう?

スミスさんとは誰ですか?

Bはタバコを吸ったかしら?

私がここでこうしてピアノを弾いてるということは、どう成立しているのだろう?

私がたとえばピアノの音はつまらない、と言うとき、私は何を、どういう基準で知覚しているのか?

作者とは誰?

 やはりフーコーやロラン・バルトなどーー『季刊パイデイア』(1968−73年)や『エピステーメー』(1975年創刊)などフランス現代思想を積極的に紹介する雑誌はすでに存在していたーーからの影響を感じさせる。疑問形が多いのも特徴である。坂本龍一も、「ちょうど読んでいたミシェル・フーコーなどの影響で現代の音楽はどうあるべきかという問題意識を持っていた最中なので、むしろ悩まずにスラスラ書けてしまった」「そのとき思っていることをどんどん音符にして、自分の中から自然にあふれるものを音にしていった感じですね」などと語っている。だが、「同時にこの頃はもうピアノは完成されてどんな演奏もやり尽くされた楽器だという思いが強くなって」もいた(『Year Book 1971-1979』ブックレット)。

 確かにジョン・ケージの「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」(1946ー48年)から四半世紀が過ぎていたし、ピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンの超絶技巧を要するピアノ曲、高橋悠治が弾くクセナキスの超高難易度のピアノ曲も存在していた。むしろ前衛的であろうとすればするほど、自分が「遅れてきた青年」であるという端的な事実を意識せざるを得なかった。そしてそれは坂本龍一の才能の不足によるものではなかった。それこそが、彼が芸大入学時に抱いていた「西洋音楽はもうデッドエンドだ、この先に発展はない」という認識の正しさの証明だったからだ。しかしそれでも、この時点での坂本龍一はまだ、ロックやフォークやその他の仕事はあくまでもアルバイトであって、自分の本当の居場所は「現代音楽」ーーそれが東京芸大を意味するのかどうかはともかくーーだと考えていた。

 だがしかし、すでに述べたように坂本龍一は「反復と旋」を修了作品として提出して東京芸大を出ることになった。「いま聴くと大した音楽ではないんだけど、もうプロの仕事もしていたので気分は学生じゃなかったし、いわゆる現代音楽の内輪のサークルからは身を引いていた。そのときの現代音楽の流行を取り入れようというような意識もありませんでした」。「分散・境界・砂」の録音は、番組の放送時間の都合で中間部32小節がカットされており完全版ではないのだが、けっしてつまらない曲ではない。

 タイトルにある“反復”というのはリズム的な要素で、“旋”は“旋法”や“旋律”の“旋”。実際、リズム的な要素と旋律的な要素が交代で出てきている。ただその旋律は西洋音楽的な旋律ではなくて、ぼくが参考にしたのはネイティヴ・アメリカンのチャントなんです。その歌い方を参照しました。もう現代音楽の流行とかは関係なくなってますね。当時、こういうことをやっている人は現代音楽の世界にはいなかったと思う。

 自分なりの技法で作っていて、この姿勢で作曲を続けていけば、ひょっとしてそれなりの変わった作曲家になっていたのかもしれない。そういう意味ではわりと面白い曲だと思います。(『Year Book 1971-1979』ブックレット)

9 「大学」的なるものとの距離

 1952年1月25日、坂本龍一から8日遅れて生まれたアメリカの作曲家ピーター・ガーランドは、ミニマル・ミュージックとネイティヴ・アメリカンの音楽を要素として併せ持つユニークな作風で知られているが、「ひょっとして」坂本龍一もガーランドのような作曲家になっていたのかもしれない。

 だが、そうはならなかった。この時期を回想した幾つかの発言や記述から透けて見えてくるのは、若き坂本龍一が、おそらくは「西洋音楽=現代音楽」に幻滅していたのだろうということである。繰り返すが、それは彼自身の才能の問題でもなければ、かといって「現代音楽」の「デッドエンド」のせいばかりでもなかった。要するにそれは「坂本龍一」と「現代音楽」のマッチングの不具合、お互いにとって不幸なすれ違いによるものだったのだ。そしてそこには、ロックが、フォークが、ポップスが、ますます活況を呈し、才能溢れるミュージシャンが続々と出現していた70年代という時代の空気も当然ながら関係していた。

 坂本龍一は、確かに東京藝術大学大学院を修了した。だが本人もはっきりと認めているように、彼はおそらくただの一度も「大学」という組織から何かを得ることはなかった。もちろん三善晃や小泉文夫のような例外もいる。彼らへの尊敬の念を彼は繰り返し語っている。だがそれでもやはり、こう言わねばならない。彼は芸大に「解体」するために入学し、しかし「解体」よりも有意義で愉快でスリリングなことが大学の外に溢れかえっていることにすぐさま気づき、やがて「解体」など綺麗さっぱりと忘れて颯爽とアカデミズムから立ち去ったのだと。そして彼は生涯、「大学」的なるものからは一定以上の距離を置いていた。明らかにそれは意識的な選択だったのだと私は思う。

 だから彼がのちに、いや、もうまもなく「教授」と呼ばれることになるのは、まったくもって運命の悪戯というか、ほとんど皮肉というべきである。このニックネームをつけられた時、本人は内心苦笑いだったのではないか。しかし、その時はすぐにやってくる。

学位は、なんでしょうね。なんとか修士のはずですが、証書もどこへいったかわからないし、何の修士なのかもわかりません。25歳のときですから、もうバリバリに仕事をしていたころです。世間的にはまだ無名でしたが、ミュージシャンの仲間内ではだいぶ知られるようになっていたと思います。

 そしてその翌年、78年に、YMOに参加することになります。(『音楽は自由にする』)

 

 

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