◆いたずら者の神々【トリックスター】/男神
リビアから来た神と思われる。鰐(わに)と河馬(かば)の姿として崇拝された。天空の女神ヌトの第三子として、オシリス、イシス、ネフティスとともに生まれ、妹のネフティスと結婚した。セトは母の子宮から自身を引きちぎって、母の脇腹を破って生まれたともされた。
このような異常出生は他の地域の神話にも見られる。ギリシアのアテナ女神はゼウスの額から生まれた。インドのインドラ神は母の胎内に千日留まり、脇腹から誕生した。仏陀は母マーヤーの右脇から生まれた。いずれにせよ英雄神や英雄的女神の偉大さをその出生に遡って物語っているものと思われる。
◆兄神オシリスとの争い
ギリシア人のプルタルコスが著した『イシスとオシリスについて』という作品に、オシリスとセトの争いについて語られている。セトは、支配者として地上に平和をもたらした兄オシリスが憎かった。そこで大勢の仲間を呼び集め、兄の身体にぴったりあうサイズの棺を用意した。棺というとわれわれ日本人は地味で不吉な印象を持つが、エジプトではそうではなく、来世の存在を信じる彼らにとって、美しく彩色がほどこされた立派な棺に入ることが望まれた。
セトは兄を呼び出すと、その中に彼を入らせ、蓋を閉じてナイル川へ投げ込んだ。オシリスの妻イシスがこの棺を探して長い旅をすることになった。身体にぴったり合う棺ということでは、「シンデレラ」の話が想起される。シンデレラの落とした、彼女にしか合わないサイズの靴が、彼女がシンデレラであることを証明したのだった。
セトは兄であるオシリスを殺害したあと、支配者の地位をめぐってオシリスの息子であるホルスとおよそ八十年にわたる激しい争いを繰り広げた。セトはホルスの眼を抉り出したが、ホルスはセトの睾丸を抜いた。このため睾丸はセトのシンボルとなった。長い戦いの末、ホルスはセトに勝利し、彼を鎖でつないで母イシスのもとへ行った。イシスはやさしくセトを解放してやったが、ホルスはこれに怒り、母イシスが頭につけている神の印をもぎ取った。
◆悪しきことのシンボル
セトはあらゆる悪しきことと結び付けられる。社会問題や異民族の侵入、犯罪、病気など、現代にいたるまで、これらの悪しきことはみなセトと結び付けられた。ギリシア人は彼を、ゼウスを殺害しようとして生み出された怪物のテュポンと同一視した。
彼は混沌の蛇、常に太陽神ラーを害しようとする蛇アペプと同一視されることがあったが、その同じ蛇から太陽神を守る役割も持っていた。両義的な神であったのだ。
セトは有害であるばかりではない。彼は金属の主として、その持ち物である錫杖(しゃくじょう)は四千五百貫もの重さがあるとされた。
儀礼においてはセトを表わす赤い雄牛が屠殺された。また、王が河馬を狩る儀礼が行われていたが、これはセトに対するホルスの勝利を表わしていた。
◆蛇が恐れられる理由
20世紀以降、H・P・ラヴクラフトをはじめとする多くの作家たちによって創作された「クトゥルー神話」にセト神が出てくる。毒蛇の神であり、サタン、イグという蛇の暗黒神、ナイアルラトホテプというトリックスター的な悪神と同一視されている。
セトは蛇アペプと同一視されることがあるが、蛇は、人類が祖先の猿だった時代から、人類にとってほぼ唯一の捕食者であったようだ。したがって人類は本能のレベルで蛇を恐れる。悪神セトが蛇の姿でもあることには、彼の「悪」の側面が、彼の性質にとって根源的なものであったことが表わされている。
(参考文献;ヴェロニカ・イオンズ著、酒井傳六訳『エジプト神話』青土社、1991年。
リチャード・ウィルキンソン著、内田杉彦訳『古代エジプト神々大百科』東洋書林、2004年。
矢島文夫『エジプトの神話』ちくま文庫、1997年)