「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第4回 「教授」以前の彼(その3)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第4回の公開です! 

1 山下達郎、細野晴臣、矢野顕子らとの出会い

 1977年3月、坂本龍一は東京藝大大学院修士課程を修了した。イエロー・マジック・オーケストラのファースト・アルバムがリリースされるのは1978年11月25日なので、このあと二年足らずで彼の人生は激変することになる。だが、そこに至るまでも、濃密な日々がめまぐるしく展開していた。

 YMOの『イエロー・マジック・オーケストラ』の発売1カ月前に当たる1978年10月25日、坂本龍一は『千のナイフ』をリリースした。記念すべきファースト・ソロ・アルバムだが、必ずしも「満を持して」というわけではなかった。このアルバムは何度か再発売されているが、2016年に最新リマスターSACDとしてリイシューされた際、坂本龍一はそのブックレットに談話を寄せている。

『千のナイフ』という最初のソロアルバムを作ろうと思った1978年頃は、 それまでの2年間をスタジオ・ミュージシャンとしての仕事に忙殺され続けて、精神的に非常に消耗していた時期です。

 毎日深夜まであちこちのスタジオをかけもちし、それから朝までお酒を飲む。

 そんな毎日を続けているうちに、このあたりで自分自身の音楽をちゃんと作ろうという思いが強くなっていった。(「『千のナイフ』という乱暴」)

 実際、この頃の坂本龍一は多忙を極めていた。少し時間を巻き戻すと、彼が「スタジオ・ミュージシャン」となるきっかけを作った友部正人との新宿ゴールデン街での出会いが1974年の11月、21歳、大学4年生の時だった。レコーディングに参加した友部のアルバム『誰もぼくの絵を描けないだろう』のリリースが1975年3月。坂本龍一はピアニストとして全面的に参加している(初のスタジオでの仕事だった)が、そのうちの一曲「ひとり部屋に居て」は『Year Book 1971-1979』にも収録されている。本人曰く「いまこのアルバムを聴き直すとピアノが下手で、どれも曲に合ってない。恥ずかしい。その中でこの曲はなんとか許せるかなと選びました(笑)」とのことだが(『Year Book 1971-1979』ブックレット)、彼のピアノは友部には好評だった。坂本龍一は友部のツアーに随行して全国を回った。

 その年の春に大学院に進学したが、スタジオとライブの両方でミュージシャン仕事は増えるばかりだった。高田渡や山本コータローらによる武蔵野タンポポ団、あとで触れる六文銭の及川恒平などフォーク系のひとびと、長い付き合いとなる大貫妙子と山下達郎がいたシュガーベイブとは同世代ということもあってすぐに親しくなった。山下の紹介で大瀧詠一とも知り合い、大瀧・山下・伊藤銀次の三名による『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』のレコーディングに参加、全10曲中9曲でピアノ他を演奏している。『Year Book 1971-1979』には山下作の「Parade」が再録されている。のちに「DOWN TOWN」とのカップリングで山下名義のシングルとしてリリースされており、更に1994年には人気テレビ番組『ポンキッキーズ』の主題歌として再リリースされて大ヒットした山下達郎の代表曲である。「山下達郎からなにかイントロに弾いてよと言われて、即興的にこう弾いたんだと思います。よく指が回っていますね、いまはとてもこんな弾き方はできない」(『Year Book 1971-1979』ブックレット)。この時、やはりプレイヤーとしてレコーディングに参加していた細野晴臣と出会った。大瀧、細野と同じく元はっぴいえんど(坂本龍一がその存在を知ったのは解散後だったという)の鈴木茂とは、それ以前から付き合いがあり、ブラック・ミュージックなどを教わっていた。

 坂本龍一は、山下達郎や細野晴臣の非凡で洗練された音楽センスがアカデミックな音楽教育と無関係だということに驚きを禁じ得なかった。

 山下くんの音楽は、ぼくが日比谷の野音などで聴いていたロックやブルースとはぜんぜん違うもので、とても驚きました。言ってみれば、ものすごく洗練されていて複雑なんです。ハーモニーも、リズムの組み合わせも、アレンジも。とくにハーモニーという面では、ぼくの音楽のルーツになっているドビュッシーやラヴェルなんかのフランス音楽とも通じるところがある。

 こっちは一応音大に、実際にはほとんど行ってないですけど、まあとにかく行って、 何年もかけて勉強したのに、ロックやらポップスやらをやっているやつが、どこでこんな高度なハーモニーを覚えたんだ、どういうことだ、と思いました。

 それはもちろん独学で、耳と記憶で習得したわけです。山下くんの場合はアメリカン・ポップスから、音楽理論的なものの大半を吸収していたんだと思います。そして、 そうやって身についたものが、理論的にも非常に正確なんですよ。彼がもし違う道を選んで、仮に現代音楽をやったりしていたら、かなり面白い作曲家になっていたんじゃないかと思います。

      ***

 細野さんと出会った時に感じたことは、山下くんの時とよく似ています。ぼくは細野さんの音楽を聴いて「この人は当然、ぼくが昔から聴いて影響を受けてきた、ドビュッシーやラヴェルやストラヴィンスキーのような音楽を全部わかった上で、こういう音楽をやっているんだろう」と思っていたんです。影響と思われる要素が、随所に見られましたから。でも、実際に会って訊いてみたら、そんなものはほとんど知らないという。たとえばラヴェルだったら、ボレロなら聴いたことがあるけど、という程度。

 ぼくがやったようなやり方で、系統立てて勉強することで音楽の知識や感覚を身につけていくというのは、まあ簡単というか、わかりやすい。階段を登っていけばいいわけですから。でも細野さんは、そういう勉強をしてきたわけでもないのに、ちゃんとその核心をわがものにしている。いったいどうなっているのか、わかりませんでした。耳がいいとしか言いようがないわけですけれど。(『音楽は自由にする』)

 1976年にはシュガーベイブ解散後にソロとなった大貫妙子のファースト・アルバム『Grey Skies』に演奏と編曲で参加(その後の作品にも継続的にかかわっていく)、同年5月には細野晴臣が横浜中華街の同發新館で行ったライヴに出演し、矢野顕子と初共演している。

 もう一人、同じような驚きを感じたのが矢野顕子さんです。 彼女の音楽を聴 いたときも、高度な理論を知った上でああいう音楽をやっているんだろうと思ったの に、訊いてみると、やっぱり理論なんて全然知らない。

 つまり、ぼくが系統立ててつかんできた言語と、彼らが独学で得た言語というのは ほとんど同じ言葉だったんです。勉強の仕方は違っていても。だから、ぼくらは出会ったときには、もう最初から、同じ言葉でしゃべることができた。これはすごいぞと思いました。(同)

2 自らを「秀才」だと思い込んでいる「天才」

 坂本龍一が次々と出会った天才肌のミュージシャンたちは、彼に一種の天啓を与えた。自分が長い時間をかけて蓄えてきた、アカデミックな音楽教育に基づく理論や教養、音楽の創造と実践のための「言語=言葉」を、山下達郎や細野晴臣や矢野顕子が生身の「耳」を通して体験的に習得しているさまを目の当たりにして、彼はショックを受けた。彼らに較べたら自分は単なる秀才に過ぎない、そう思ったかもしれない。だが、だとしたらそれは間違っていた。坂本龍一は自分のことを「秀才」だと思い込んでいる「天才」だったのだ。ある意味でアカデミズムは彼の才能が自由に羽ばたくことを妨げる錘として機能していたとさえ考えられる。その錘はこの後、彼自身も気づかないうちにいつのまにか取り外され、どこかに消えてしまうことになる。だが彼が、ある種の学究肌というか、非常に好奇心旺盛で、音楽のみならず、何ごとかにひとたび関心を抱くと、それについて全てを知り何もかも理解しようとひたすら没頭するタイプであったことは確かだと思う。それは「大学」と関係なくはないだろう。

 「教授」と呼ばれる前の坂本龍一のあだ名は「アブ」だった。『Year Book 1971-1979』のブックレットに、細野晴臣が「ぼくが知っている、 坂本龍一の1970年代。 若き“アブ”から“教授”への変身を追って」という談話を寄せている。細野はこう語っている。「記録によると大瀧詠一のスタジオでの録音の『ナイアガラ・トライアングル Vol.1』 (76) に入っている 「FUSSA STRUT Part-1」が初めての共演だったらしいが、そのときの印象はなによりも当時の坂本くんの風貌だ。 ぼさぼさの長髪で無精ヒゲの、まさに中央線沿線にいそうな感じ」。

 初めてちゃんと彼の音楽面が印象に残ったのは、彼がアレンジを担当した大貫妙子のファースト・アルバム「グレイ・スカイズ』 (76) にぼくが参加したときのこと。あの頃もうすでにニューヨーク的なフュージョンの要素があって、すごく際立ったアレンジだった。

 このアレンジはなかなかすごいなと感じて、それから彼の存在を意識しはじめた。 中華街でのぼくのコンサートの演奏に参加してもらったのも、そのことがあったから。

 そして坂本くんのことをさらにすごいなと認識したのは、 あんなむさ苦しい格好をしているにもかかわらず、彼が非常に女性から人気があったこと。 こんなに汚いのにどこが魅力なんだろうと女の人に訊くと「眼がいい」と言う。そうか、ならばぼくもちょっと一目置いておこうと思った(笑)。 みんなが “アブ”と呼んでいたので、ぼくもそう呼んでいた頃です。(「ぼくが知っている、 坂本龍一の1970年代。 若き“アブ”から“教授”への変身を追って」)

 “アブ”の由来については、吉村栄一『坂本龍一 音楽の歴史』に次のように述べられている。「当時の坂本龍一の外見はむさ苦しい長髪に、無精髭、煮染めたようなジーンズに冬でも素足にゴムサンダル」「水島新司の野球漫画『あぶさん』の主人公も(初期の頃は)同じくむさ苦しいキャラクターで、いつの間にか坂本龍一のあだ名はアブになっていた」(酒の「アブサン」という説もある)。YMO以前、「教授」以前の彼は、風貌もまったく違っていたのだ。だが、細野と出会ってたった2年後、坂本龍一はデザイナーズブランドに身を包んだ、クールでスタイリッシュな「教授」になっている。この華麗なる変身の立役者は高橋幸宏なのだが、その話はもう少し後ですることにしたい。

 ドラマー兼シンガーとして当時引っ張りだこだったつのだ☆ひろにも気に入られ、幾つものレコーディングやライヴに参加、そのうちの一枚だった浅川マキのアルバム『灯ともし頃』がきっかけとなって、浅川のプロデューサーだった寺本幸司が同時期に手がけていた「私は泣いています」で大ヒットを放って間もないりりィのバック・バンド、バイバイ・セッション・バンドに加入し(これがYMOに先立つ坂本龍一の最初の「バンド」である)、プレイヤーとしてのみならずアレンジャーとしても才能を発揮し、そこからまた仕事が広がっていった。演劇関連の仕事も続けており、NHK-FMのラジオドラマの音楽も担当するようになっていた。大学に行く暇などあるわけがなかった。

3 アヴァンギャルドという第三項

 1970年代半ばは日本のポップスが本格的に芽吹いた時期である。1973年10月に始まったオイル・ショックから脱し、時代は高度経済成長期から安定成長期に入っていた。世相は明るさを増し、若者の生活も豊かになっていった。風呂なし四畳半一間での同棲を歌ったかぐや姫の「神田川」「赤ちょうちん」と、今で言うシティポップの嚆矢というべきシュガー・ベイブの「DOWN TOWN」は1年ほどしか離れていない。フォークソングから日本語ロックへ、そしてより多種多様なポップ・ミュージックへと、社会状況の急激な変化とともに音楽も「進化のビッグバン」を迎えつつあった。坂本龍一はその「爆発」の渦中を生きていた。彼のピアノはジャンルを超えたさまざまなサウンドの中で変幻自在に鳴り響いていった。

 このこと自体は、同時代を生きた坂本龍一と近い世代のミュージシャンにとっても同じ条件であったかもしれない。だが彼にはアカデミズムという、余人にはないバックボーンがあった。それだけではない。ポピュラー、アカデミックに加え、坂本龍一にはアヴァンギャルドという第三項が存在していた。

 友部正人と知り合った新宿ゴールデン街で、坂本龍一はもうひとり、友部とはまったく異なるタイプの知己を得ていた。竹田賢一である。竹田は1948年生まれなので、坂本龍一より4歳年上、前衛音楽や実験音楽、即興演奏の評論家、紹介者、オーガナイザーとして登場し、フリー・インプロヴィゼーションのバイブル、デレク・ベイリーの著書『インプロヴィゼーション:即興演奏の彼方へ』の翻訳者に名を連ね、アンプリファイされた大正琴を手にして自ら演奏を行い、反ポップ・バンドA-Musikを結成、現在も真の意味で闘争的というべき音楽活動を継続している。坂本龍一は竹田賢一と音楽的・思想的に共鳴し、竹田を通じて知り合った先鋭的なジャズ評論家の間章(彼は1978年12月に32歳の若さで急逝する)らも加えて「学習団」という運動体を結成、1974年から76年にかけて数回のイヴェントを行っている。間章が企画したライヴにも坂本龍一は何度か出演しており、間が世を去る3カ月前の1978年9月9日には29歳で夭折した天才サックス奏者の阿部薫とも共演している(だが今のところ録音は発見されていない)。

 竹田賢一の著作集『地表に蠢く音楽ども』(2013年)に「〈学習団〉1.20総括」と題された二つのテクストが再録されているが、それらを読むと「学習団」の活動は音楽や芸術に留まらない、文化と政治の交点を理論的かつ実践的(実戦的)に追求する極めてラディカルなものであったことがわかる。だが彼らにとって、それはあくまでも「音楽」を革新するための運動であった。

 竹田は「〈学習団〉1.20総括(その一)」の冒頭で「この〈総括〉は学習団として討議されたものではなく、一応竹田賢一の私的な備忘録という建て前をとる」と断っているが、「一応」「建て前」とあるように、そこで示される理念は坂本龍一も共有していたものと思われる。「学習団」というネーミングの由来について、竹田は毛沢東の次の文章を引用する。

 書物を読むことは学習であるが、使うことも学習であり、しかも、それはいっそう重要な学習である。音楽によって音楽を学ぶーーこれがわれわれの主要な方法である。学校にゆく機会のなかった人でも、やはり音楽を学ぶことができる、つまり音楽のなかで学ぶのである。音楽の革命は民衆のやることであって、 先に学んでからやるのではなく、やり始めてから学ぶのが常であり、やることが学ぶことである。(『中国革命戦争の戦略問題』〔翻訳者記載なし〕)

 その上で、竹田は次のように記す。

 ぼくたちの行動あるいは漠然とした組織を〈学習団〉と名づけたのは、文字どおり、ぼくたちの音楽の変革に、そして音楽を透視して把握しようとする社会(世界)の変革に要求される理論を学ぶためである。 しかし、それはぼくたちの耳や目や手や、いうなれば六感すべてによって実際に確かめるところから始められなければならない、という認識も前提として存在していた。革命がマルクスの文献の上にあるのではなく、銃を取った大衆の喜びや苦しみの中にあるように、音楽の変革も楽典やグラフィック・スコアの上にではなく、音を出したりその音を聞く人間の営為の裡にあるのだから。(『地表に蠢く音楽ども』)

 坂本龍一は東京藝大に在籍してクラシック、現代音楽の作曲理論/技法を修め、プロのミュージシャンとしてジャンルを超えた数々の現場で腕をふるいつつ、並行して竹田賢一らとこのようなアンダーグラウンドな活動も行っていた。全方位という形容では到底収まらないほどの多面ぶりである。異常なエネルギーと言ってもいいだろう。あるいはそこには商業的な音楽業界(音楽の商業性)に染まっていくことへの意識的/無意識的な抵抗や、一種のバランス感覚が宿っていたと見ることもできるかもしれない。だが、ここで言っておきたいのは、坂本龍一がこれらの活動すべてにおいて、後に繋がるポジティヴな結果を出していったということである。彼は決して、いわゆる器用貧乏ではなかった。彼の過剰とも思える多面性は、彼の旺盛なる好奇心と、それに見合う、しばしばそれを超えるほどの才覚と能力の結果だった。いうなれば坂本龍一は「あれもこれも」の人ではなく、常に「あれやこれ、だけではない」と言外に述べているような音楽家だった。そしてそれはその後も半世紀にわたって継続したのである。

 「学習団」について、坂本龍一はこう語っている。「すごくいっぱい話をしました。毛沢東語録について議論したり、音楽を弁証法的に止揚するということで、音楽を消費の対象じゃなくて人民の元に返そうとか。そのために実際に工場に行って労働者のための演奏をしようとか。まあ、志は大きいのですが大したことはしなかった」(吉村栄一『坂本龍一 音楽の歴史』)。「学習団」は1975年4月28日に西荻窪ロフトで「音と映像と朗読の儀式空間〝君が代〟」という最初の大規模な「学習会」を開催した。そこで坂本龍一は「君が代」をピアノで弾いた。彼はその後もこの「日本国歌」を、さまざまな機会に演奏、いや、批判的に変奏していくことになる。

 実は坂本龍一の名前が冠されたレコード作品は『千のナイフ』が最初ではない。「学習団」の活動の一環として、彼は「音と映像と朗読の儀式空間〝君が代〟」にも出演していたパーカッショニストの土取利行とのデュオ・アルバム『ディスアポイントメント - ハテルマ(Disappointment-Hateruma)』を、竹田賢一とリリース元でもあるコジマ録音のエンジニア小島幸雄プロデュースでリリースしている。1976年1月のことである(レコーディングは1975年の夏)。500枚の限定プレスのLPだったが、その後CDでリイシューされている。全4曲、トータル45分強のアルバムで、全編が鍵盤と打楽器と声による(ほぼ)即興演奏である。『地表に蠢く音楽ども』に再録されている竹田賢一のライナーノートによると、タイトルの「ディスアポイントメント」とはオーストラリアのギブソン砂漠にある「湖とはいえ雨季を除いて水はなく白い塩が視界を埋める「絶望の湖」」のことであり、「ハテルマ」とは波照間島、「沖縄がアメリカの占領統治から日本に返還されて以来、人が住む日本の最南端の島」である。

 なんとなく明るい印象を与える名前の波照間島の、赤道を挟んでほぼ対称の位置に、まるで、対照的なディスアポイントメント湖。

 北回帰線から南回帰線まで、希望から絶望まで、汗が飛び散る生音の応酬から飛び交う電子が微熱を発する合成音まで。土取利行と坂本龍一という、性格や資質はまったく違いながら、才能と意思がまさに開花しようとして一瞬交差した総延長が、『ディスアポイントメント - ハテルマ』の距離。(『地表に蠢く音楽ども』)

 沖縄がアメリカから日本に返還されたのは1972年5月、レコーディングの約3年前である。『ディスアポイントメント - ハテルマ』の録音は新宿の御苑スタジオで行われたので、ディスアポイントメント湖も波照間島も、いわば仮想上のトポスでしかない(竹田賢一はこの作品のモチベーションは「南へ」の関心だったと述べている)。竹田にとって、そして坂本龍一と土取利行にとって重要だったのは、両者のあいだに置かれた「 - 」という記号が孕み持つ「距離」であったのかもしれない。このアルバムには坂本龍一もライナーを寄せているが、そこにはこうある。「音楽という語が、現在それの周りに遍在させている様々な機能の再検討。個の同一性を前提としながら、自己のイメージを組織しているということを対象化していくのでなく、現実という制度が自己のアプローチを組織しているということを対象化していく様々なアプローチが、新たに〈制作〉と呼ばれるものになり変る」。この後にミシェル・フーコーの『知の考古学』からの引用が(またもや!)置かれている。

4 「坂本龍一」最初のアルバム、『千のナイフ』の誕生

 ひとりの人間とは到底思えない八面六臂の活躍、だがそれは明らかに過剰労働であった。いくら若かったとはいえ、体力的にも相当きつかったはずである。大学には行っていなかった。「学習団」とは主義主張のレヴェルで共振していた。辛かったのは、やはりミュージシャン仕事だった。

 大学を離れてYMOが始まるまでは、今で言うフリーター生活みたいなものでした。当時はそんな言葉はなかったので、日雇いって言っていたんですが。ちょっとした仕事に呼ばれて、出かけて行って、適当にこなす。まさに日雇い労働者みたいなものでした。そんなふうに、日々頼まれて書いたり弾いたりする音楽と、小さいころから少しずつ身につけてきた、クラシックを軸にした自分の音楽の世界との間には、やはり断絶というか、矛盾がありました。

 そういう矛盾を抱えたままで、いろんなジャンルの音楽やミュージシャンとの身体 的なレベルでの接触があったことは、良かったと思うんです。日本中で数百人しかいない現代音楽の聴衆を相手にしていてもしょうがない、と思っていたし、ポップ・ミ ュージックの中にはすばらしいものがあった。でも一方では、やっぱり音楽的ビジョ ンみたいなものが心の中にあって、もっと自分のやるべき音楽に打ち込むべきなんじ ゃないか、と思ったりもしていました。(『音楽は自由にする』)

 このあたりの葛藤を、彼はこの時期、ずっと感じていたのだろう。現代音楽の作曲家としての、たとえ「日本中で数百人しかいない」聴衆を相手にするものだとしても、それはそれなりにやり甲斐のある人生と、ギャランティ以外にもたくさんの得るものがあるが、しかし若き日の時間をどんどん食いつぶされていく日雇いミュージシャンの生活とのあいだで、引き裂かれていたのだ。

 それでもすでに、音楽は手っ取り早くお金を稼げる手段でもあったので、こまごまとした音楽の仕事は、当然そのまま続けていた。YMO結成前の2年ぐらいは、そんなふうにニヒリスティックに、半ば自暴自棄になって、かなり忙しく働いていました。 そうやって自分を未決定な状態に、宙づりにしておいたのは、何かの予感があってのことだったかもしれません。とにかく不遜でしたから、そのうちに何か自分にふさわしい生き方が見つかる、天啓みたいなものがある、そんな気がしていたのかもしれません。(同前)

 「音楽の日雇い仕事で夜中まで働いて、そのあと明け方まで、自分の機材を持ち込んでコロムビア・レコードの小部屋でちょこちょことレコーディングをする、というネズミのような暮らしを何カ月も続けて世に出した作品でした。そういう過酷な環境での創作活動を支えたのは何だったのかと振り返ってみると、それはやはり「ニヒルな日雇い労働者」の消耗からの回復を希求していたということだと思います」。こうして「坂本龍一」の最初のアルバム『千のナイフ』が誕生した。

 『千のナイフ』2016年版のブックレットには、リリース元の日本コロンビアの担当ディレクターだった斎藤有弘による回想録が掲載されている(聞き手と構成は吉村栄一)。それによると、斎藤と坂本龍一との出会いは、日本コロムビアのクラシック部門からリリースされた高橋悠治の『ぼくは12歳』(1977年リリース。12歳で自死した少年、岡昌史が遺した詩に高橋がメロディをつけ、中山千夏が歌ったアルバム)のレコーディングを見学に来た時だったという。当時、斎藤はイギリスのヴァージン・レーベルを担当していた。ヴァージンは1972年に設立された新興レーベルで、世界的に大ヒットしたマイク・オールドフィールドのデビュー作『チューブラー・ベルズ』(1973年)をはじめ、ドイツのファウストやタンジェリン・ドリーム、英国のヘンリー・カウなど、先鋭的・前衛的なバンドのアルバムを続々とリリースしており、それらは日本コロンビアからその国内盤が発売されていた。斎藤はヴァージンのリリースを坂本龍一が聴き込んでいることを知り、この知識豊富な青年にヴァージンのレコードの解説を依頼した。

5 「第三世界」への志向、「社会の悪」への批判意識

 坂本龍一が執筆したタンジェリン・ドリームのキーボード奏者ピーター・バウマンの『ロマンス'76』(日本盤リリースは1977年。バウマンのファースト・ソロ・アルバムで、この直後にバンドを脱退する。J・ディラ(Jay Dee)が度々サンプリングしたことでも有名)のライナーノートの書き出しは、以下のようなものである。

 音楽とは常に日常とは異なる時間空間への旅 (トリップ) ではないだろうか。さらにいってみればトリップとはトリップする個の志向的感性ではないだろうか。 そしてその感性とは、 いわゆる知的作業をも含んだうえでの知性のことではないだろうか。

 そのような知性は、かつて例えば内奥のアマゾンのインディオや迫害され同化を余儀なくされる以前のアイヌや、その他の静かで優しく摂理に同化して生きることを学びとっていたであろう民族の共同体的知の中には確かに存在していたであろうと思われる。 それがいつしか忘れられ、或いは忘れさせられ、それにとって代わるものとして、ものをひたすら分解し、個々の事象を可能な限りバラバラにして理解しようとする西洋近代的 (デカルトにより始まる)な 「知的」な方法論が、たんに方法という身分を越えて一つの世界観にまでのし上ってきてしまった。 そのような世界観がつくりだした社会というのがどのようなものであるかは、例えばコンピューターによる国民総背番号的な全体主義的管理社会の実現可能性と、もう一方でその裏に醜悪な毒物たれ流し公害や、 全地球的な自然破壊といった、人間を含めた生物の存続を奪うような社会である。

 音楽やその他の文化 (人間の知恵) がそのような社会の悪から逃避し、目をそらさせるものとしてしか役割をもっていないのであれば、あまりにも悲しいことであろう。(『ロマンス'76』解説)

 かなり気合いの入った、そしていささか硬い文章ではあるが、いわんとしていることは明確である。アルバムについての解説はこの後半に書かれてある。「この様にプログレッシヴ・ ロックと呼ばれるものの中の1部の音楽が第三世界の文化的な要素にも相通じるものとなってきているのは、やはり冒頭に述べた非西洋近代的な知性を志向するという側面と切り離すことができないのではないか。そしてロックが第三世界的なものと浸透していくという側面はやはりあの60年代のハード・ロックがインド音楽等に触発された時期に発するし、もっとさかのぼれば、ロックン・ロール自体、白人的なものと、 ラテン的なもののアメリカ的融合であるといえるかもしれない」。これは坂本龍一自身の当時の関心の所在と問題意識を示すものだろう。坂本龍一はロクに行かなかった東京藝大で小泉文夫の講義にだけは熱心に出席していた。「非西洋近代」と「第三世界」への志向には小泉からの影響が窺える。「社会の悪」への強い批判意識がはっきりと刻まれているのも印象的だ。

6 傑作『海や山の神様たち』への参加

 注目すべきは「迫害され同化を余儀なくされる以前のアイヌ」という記述である。これに先立つ1975年、坂本龍一は六文銭の及川恒平が構成を手がけた企画盤『海や山の神様たち -ここでも今でもない話-』に参加している。このアルバムは、北海道出身の及川がアイヌ文化をテーマに制作したもので、全曲の作詞を及川が、作曲を坂本龍一が、編曲を山下達郎が手がけている。歌は少年少女合唱団みずうみ、シュガー・ベイブもコーラスで参加している。坂本龍一は及川と面識があったが、坂本が起用されたのは、藝大で小泉文夫に学んでいることも関係していたかもしれない。『Year Book 1971-1979』には「星のある川(リコップオマナイ)」が収録されている。「当時はまだアイヌ音楽のレコードはほぼ無いにひとしくて、それを参照はできなかった。それよりも、こどもが歌うというならメロディーがきれいなものがいい。スタイリスティック的な曲にしようと思って書いた憶えがあります。この前の年くらいに鈴木茂にブラック・ミュージックをいろいろ紹介してもらって、こんな世界があるんだ! おもしろいなあと、勉強と趣味をかねてソウルやファンクにどっぷりとつかっていました。いまだったらアイヌ音楽の知識もあるので、ずいぶん違ったものを作るでしょうね」(『Year Book 1971-1979』ブックレット)。確かにアイヌ音楽の要素は皆無と言っていいが、このアルバムは傑作である。スタイリスティック的と言われるとなるほどと思う、ソウルやゴスペルからの影響を、あからさまにではなく感じさせる魅力的なメロディ・ラインは、坂本龍一がのちに手掛ける歌謡曲~Jポップの楽曲を予告している。山下達郎の流麗なアレンジも素晴らしい。時期的に言ってアイヌの音楽を参照できなかったことは致し方なかったのかもしれないが、しかし坂本龍一は、一方でその時の自分の音楽的関心に即した、取りようによっては音楽家の身勝手なエゴとも謗られかねないーー実際にそのような批判の声がこの時期の彼の仕事に向けられることもあったーー仕事をしつつも、もう一方でアイヌの人々に対する共感の意識はしかと持ち合わせていた。ピーター・バウマンのアルバムの解説文にアイヌへの言及がいささか唐突に記されるのは、この時のことが記憶にあったからなのかもしれない。

 『海や山の神様たち』はビクター音楽産業の学芸部からリリースされたが、この仕事が縁となって、坂本龍一は翌年(1976年)にビクターの同じ部署から出た富岡多恵子のアルバム『物語のようにふるさとは遠い』でも全曲の作曲と編曲を手掛け、ピアノ、キーボード、ドラム、パーカッション、ヴィブラフォンなど多数の楽器を演奏している(作詞はもちろん富岡自身)。偶然にも富岡は、坂本龍一の母、敬子の大阪女子大の同窓生で、友人関係にあった。だが、このアルバムの制作時点では、富岡も彼も、そのことをまったく知らなかったという。詩人で小説家の富岡にとって唯一の歌唱アルバムとなった同作からは「中折帽子をかむったお父さん」が『Year Book 1971-1979』に再録されている。プロのシンガーとはまったく違う富岡の情念に満ちた歌唱が強烈な印象を与えるが、瀟洒で華麗なバック・サウンドとブルース的な旋律が独自のバランス感覚で融合しており、音楽的なクオリティは極めて高い。ちなみに富岡多恵子は坂本龍一の死が公表されて間もない今年の4月8日に亡くなっている。

 同年、坂本龍一は『物語のようにふるさとは遠い』とはまた異なるタイプの、だが同じくらい異色作と言うべきアルバムにも参加している。フォークシンガーの三上寛がプロデュース(中島貞夫と共同)した『ピラニア軍団』である。ピラニア軍団は東映京都撮影所で、脇役、端役、特に悪役を演じていた無名の大部屋俳優たちーー川谷拓三、小林稔侍、室田日出男などーーが結成した集団で、三上は彼らにシンパシーを抱いてアルバムを制作した。作詞作曲は三上だが、坂本龍一は約半数の曲でアレンジを担当、そのうちの一曲で志賀勝が歌う「役者稼業」を『Year Book 1971-1979』で聴くことができる。アルバムのレコーディングには、林立夫やかしぶち哲郎、伊藤銀次、村上ポンタ秀一、浜口茂戸也など、そうそうたる顔ぶれが参加している。三上が書いたメロディはそれだけ聴けば演歌のように思えるところもあるが、坂本龍一の編曲はジャジーで洒脱、小気味好くも音楽的アイデアに富んだもので、演奏メンバーのソロも聴きどころが多い。

 『海や山の神様たち』『物語のようにふるさとは遠い』『ピラニア軍団』と、ごく短い期間に坂本龍一が参加したアルバムはいずれも秀抜な仕上がりであり、いま聴き直しても多くの発見に満ちているが、先にも述べたように、雇われ仕事に乗じて自分の好き勝手をやっているという反応もなくはなかった。本人も『Year Book 1971-1979』のブックレットでこう述べている。「当時は“ピラニア軍団” という名前も存在も知らなかったし、こわそうな人たちだし、どう編曲していいのかわからなかった気もしますけ ど、でも、聴くとやはり悩んでないですね(笑)。富岡さんの ときとも似て、 基本的に歌や歌詞のことはまったく考えてないことがよくわかります。 大貫妙子さんや矢野顕子さんのアレンジをやるようになってから、 いつもいつも 「歌を本当に聴いてないわね』 と怒られることになるんですけど(笑)、 これもそう。 歌を完全に無視して、ソウルなサウンドを作りたいからこうしましたっていうのがわかります」。その作品が前提として求めている方向性をほとんど無視して、とにかく自分自身の音楽性の変容と拡張を実験し追究しようとする、発注元からすればいささか困りものであったろうこのようなスタンスは、なかば無意識のものだったのだろうが、時には多少の問題を惹き起こしながらも、結果としてできあがった音楽の斬新さによって、ことごとく「あり」になっていったのだった。

7 『千のナイフ』に注ぎ込んだ339時間

 ここでようやく話を『千のナイフ』への道程に戻そう。その後、斎藤有弘が制作した渡辺香津美のアルバム『オリーブス・ステップ』のレコーディングに参加していたつのだ☆ひろの推薦で、坂本龍一がキーボード奏者としてやってきた。斎藤はこう述べている。「『オリーブス・ステップ』での彼の演奏はすばらしく、渡辺香津美というギタリストのこれまでの成果と、未来を切り開く両側面を十分にアピールし、 その後の音楽シーンを予兆させるものになったと思います。 そして、後の「坂本龍一 + 渡辺香津美」のコラボレーションの先駆けになったという意味でも意義が大きかったのではないでしょうか?」(『千のナイフ』2016年版ブックレット)。周知の通り、渡辺香津美はYMOに重大な貢献を果たすことになる。

 このレコーディングの時、坂本龍一は斎藤にソロ・アルバムを作ってみたいと漏らした。乗り気になった斎藤は会社に掛け合って、昼間はトラックダウンに使われているコロンビアの第4スタジオという小さなブースを、夜の間だけ、若きミュージシャンのアルバム作りのために自由に使わせることにした。「しかし、この後、第4スタジオが大変な時間を坂本龍一に占有されてしまうことになるとは露ほどにも予感していませんでした(笑)」(同前)。結果としてレコーディングは1978年の4月から7月までの丸3カ月以上、なんと339時間を費やした。坂本龍一は日中は「日雇い」をしていたのだから、作業が出来るのは夜だけである。一体いつ寝ていたのだろうか?

 その時点では、ではどういう音楽を作りたいのかという明確なヴィジョンというものはなかった。

 ただ、なんとなく「ダス・ノイエ・ヤパニッシュ・エレクトロニッシェ・フォルクスリート」 のような方向性は考えていたと思います。

 当時すでにクラフトワークが好きで、ああいう音楽とぼくのルーツである現代音楽な どを融合することができないかと考えていたんじゃないかな。

 いまでもそうですが、ぼくはいつもいろいろなジャンルの音楽を同時並行的に聴いているし、好きなので、その時点で興味のある音楽の要素をそのときどきに作るものにすべて注ぎ込む傾向があります。

 このときは、レゲエ的、あるいは日本的な田植え歌のような腰が落ちているリズムに、コンピューターによる打ち込みのリズムとシンセサイザーのオーケストレーションを融合させたらおもしろいものができるんじゃないかと考えていたと思う。

 なので統一されたコンセプチャルな音楽というよりも、自分が興味を持ついろいろな音楽の要素をときに20%ずつ、あるいはこの要素が10%で、あの要素が17%ずつといったふうに入れ込んでいったんでしょう。(「『千のナイフ』という乱暴」)

 「ダス・ノイエ・ヤパニッシュ・エレクトロニッシェ・フォルクスリート=DAS NEUE JAPANISCHE ELEKTRONISCHE VOLKSLIED(新日本電子的民謡 )」とは『千のナイフ』B面1曲目の曲名である。ここで語られている一種の折衷主義――ポストモダン的手法と呼んでもいい――は、のちのアルバムでより一層過激に展開されていくことになるのだが、すでに『千のナイフ』にはその萌芽がはっきりと現れている。

 それではそろそろ『千のナイフ』を聴いてみよう。