「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第5回 「教授」以前の彼(その4)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第5回の公開です! 

1 「THOUSAND KNIVES」と「ISLAND OF WOODS」

 それではいよいよ『千のナイフ』を聴いてみよう。

 1曲目はアルバム・タイトル曲「THOUSAND KNIVES」。曲名はベルギーの画家・詩人アンリ・ミショーの詩集『みじめな奇蹟』の冒頭の一節より。曲の始まりは毛沢東の詩を収録したレコードの(今で言う)サンプリングで、「水調歌頭 重上井岡山(水調歌頭・ふたたび井岡山に登る)」という詩の朗読をヴォコーダーに通したもの。1927年10月、毛沢東は自ら率いる蜂起軍(ゲリラ)とともに井岡山に辿り着き、農村革命の根拠地を立ち上げた(このことから井岡山は「武装闘争発祥の地」と呼ばれる)。それから38年後の1965年、文化大革命を目前に毛は井岡山を再び登り、この詩を著した。変調されて何を言っているのかよくわからなくなっているが、「学習団」といい、この頃の坂本龍一の毛沢東思想へのシンパシーは非常に強いものがあったということだろう。続いて電子ドラムの軽快なリズムが現れ、大正琴(!)を模したシンセサイザーによる、中国風と言ってもよいオリエンタルな旋律が流れ出す。「坂本龍一の音楽」はこの時点ですでに完成していたと思えるキャッチーでオリジナリティ溢れる曲である。後半の主役は渡辺香津美の長いギター・ソロで、渡辺氏愛用のALEMBICのギターを弾きまくっており、ディレクター斎藤有弘は喝采したことだろう。この曲について坂本龍一は、レゲエ、賛美歌、そしてハービー・ハンコックの「スピーク・ライク・ア・チャイルド」に影響されたと語っている。彼は2018年にニューヨークのバー「HALL」の店内BGMのために選曲した全89曲のプレイリストでも、1曲目のマイルス・デイビス「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に続きハンコックの「スピーク・ライク・ア・チャイルド」と「ライオット」(共にアルバム『スピーク・ライク・ア・チャイルド』に収録)を選んでおり、オールタイム・フェイバリットだったのだろう(どちらかといえば「ライオット」の方が「THOUSAND KNIVES」に近い気もする)。この曲はYMOのアルバム『BGM』(1981年)でセルフ・カヴァーされているほか、その後もさまざまなアレンジで繰り返し演奏されてゆくことになる。

 2曲目「ISLAND OF WOODS」は、「擬似フィールド・レコーディング」あるいは「ヴァーチャル南島音楽」の実験である。「THOUSAND KNIVES」ではシン・ドラムを叩いていた浜口茂外也によるブラジリアン・バード・ホイッスルの他は坂本龍一が全ての音作りを行っている。鳥の囀りや猿の鳴き声など熱帯林的な音響を電子楽器でシミュレートしており、どこか強迫的で荘厳なメロディがシンセサイザーで奏でられる。自然音・具体音への強い関心が窺える楽曲だが、実際にはフィールド・レコーディングは使用されておらず、あらゆるサウンドが電子音によって人工的に再現されている。

 言及しておくべきは、細野晴臣の「トロピカル三部作」との関係だろう。時間軸に沿って整理すると、前回触れたように坂本龍一は、細野晴臣が1976年5月8日に横浜中華街の同發新館で「ハリー細野&ティン・パン・アレー」名義で行ったコンベンション・ライブ「ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン」に演奏メンバーのひとりとして参加している(この時のメンバーには浜口茂外也もいた)。ティン・パン・アレーは、1973年に解散したはっぴいえんどの後継バンドとして、細野、鈴木茂(ギター)、林立夫(ドラムス)、松任谷正隆(キーボード)によって、まずはキャラメル・ママ名義で結成され、1974年に同じメンバーのままティン・パン・アレーと改名、1975年11月に(紛らわしいが)アルバム『キャラメル・ママ』をリリースしていた。この日は、細野、鈴木、林を中心とする再始動の意味合いがあったと思われる。

 「トロピカル三部作」とは、『トロピカル・ダンディー』(1975年6月リリース)、『泰安洋行』(1976年7月リリース)、細野晴臣&イエロー・マジック・バンド名義の『はらいそ』(1978年4月リリース)の3枚である。同發新館のライヴの頃、細野は『泰安洋行』のレコーディング中であり、この日は『トロピカル・ダンディー』と完成前の『泰安洋行』の曲がメインで演奏された(YMOのファースト・アルバムに収録されるマーティン・デニーの「Fire Cracker」も演奏されている)。「トロピカル三部作」にも電子音楽的な要素がなくはないが(『はらいそ』ではシンセサイザーも使用されている)、この時点では従来のバンド編成の延長線上にあり、トロピカルなサウンドはもっぱら従来の楽器によって演奏されていた。坂本龍一もその一員だったわけである。次章でも述べるように、坂本龍一と高橋幸宏と細野の三人で録音した『はらいそ』中の一曲「ファム・ファタール~妖婦/FEMME FATALE」がイエロー・マジック・バンドならぬイエロー・マジック・オーケストラ誕生に繋がるのだが、この曲のレコーディングは1978年の2月に行われている。『はらいそ』がリリースされた時、坂本龍一はすでに『千のナイフ』のレコーディングに入っていた。YMOとしてのレコーディングは『千のナイフ』の録音が終了する10日前に始まっていた(『千のナイフ』2016年版ブックレットの年表による)。アルバム中では異色と言ってよい「ISLAND OF WOODS」は、いわば坂本龍一による「ハリー細野のトロピカル音楽」への返答なのだ。細野晴臣が生楽器で再現した「熱帯」を彼は電子的に再現しようとした。だが共通しているのは、二人とも実際に南の島に赴いたわけではなかった、ということである。そしてそれは細野が参照したマーティン・デニーなどの「エキゾチカ」も同じだった。この点については追って詳述する。

2 高橋悠治とのデュオ、「GRASSHOPPERS」

 3曲目の「GRASSHOPPERS」は高橋悠治とのデュオによるピアノとシンセサイザーのみの曲。ここで坂本龍一と高橋悠治の関係について触れておこう。後藤繁雄が聞き手となって、skmtこと坂本龍一の発言を断章形式で編んだユニークなエッセイ集『skmt』(1999年)の中に「096 高橋悠治の手」という章がある。短いものなので全文を引く。

 小学校5年の時だった。母は、青山通りにある草月会館で行なわれた高橋悠治のコンサートにskmtを連れて行った。そんな場所に行くのも、高橋悠治という人を聴くのも全く初めてだった。彼は真ん中あたりの席に座って、ずっと高橋悠治がピアノを弾く手ばかり見ていた。コンサートが終わり、高橋悠治のファンになっているのに気がついたけれど、ロビーに出てきた高橋悠治に、ドキドキして、何も言えずに終わった。(『skmt』)

 坂本龍一が小学校5年ということは1962年である。このコンサートは「草月コンテンポラリーシリーズ」の一環として開催された「高橋悠治ピアノリサイタル」で、このとき高橋はジョン・ケージの「ウィンター・ミュージック」、武満徹の「ピアノ・ディスタンス」、難曲として名高いヤニス・クセナキスの「ヘルマ」などを弾いた。10歳の彼は、それを目の当たりにしたのである。坂本龍一と両親との関係については、有名編集者だった父親のことばかりが語られがちだが、彼を音楽家にしたのは母親であったのは間違いない。考えてみれば、これは相当な英才教育である。

 高橋悠治は1938年9月21日生まれ。坂本龍一の13歳年上である。草月のコンサートの時、高橋はまだ20代前半だった。ある意味で坂本龍一以上に早熟なタイプであり、この時点ですでに、卓越したテクニックを持つピアニストとして、最先端の実験的技法を自家薬籠中のものとした作曲家として注目を浴びていた。坂本龍一は高橋に私淑し、数年後には親しく接するようになる。彼が藝大の学部時代に作曲した「分散・境界・砂」は、著名なピアノ調律師の原田力男が主催する高橋アキ(高橋悠治の実妹)のピアノ・リサイタルで初演する曲を選ぶべく、現代音楽の若き作曲家たちに原田が委嘱したコンクールに提出されたものだったが、高橋悠治はその審査にかかわっていた。高橋の最初のエッセイ集『ことばをもって音をたちきれ』は1974年、高橋が翻訳したクセナキスの『音楽と建築』は翌75年に出版されている。坂本龍一は当然それらを読んだだろう。1976年、坂本龍一は高橋悠治らが編集していた雑誌『トランソニック』に「反権力の音楽生産 環螺旋体経営?」を寄稿、高橋と冨樫雅彦のデュオ・アルバム『トゥワイライト』にシンセサイザーで参加している。『千のナイフ』がリリースされた1978年に高橋は、アジアや南米の民衆音楽や抵抗歌を奏でる「非専門家的音楽集団」水牛楽団を組織、より政治的・先鋭的な活動に向かった。YMOの結成と同じ年である。「学習団」の同志、竹田賢一との関係もそうだが、YMOの大成功によって彼が日本中の人気者となって以後も高橋との親交は続き、前にも触れたように1984年に坂本龍一が大学1年生の時に作曲した「ヴァイオリン・ソナタ」の演奏に高橋はピアニストとして参加、同年にはホテルの内線電話での二人の会話をまとめた対談本『長電話』も出版されている。音楽論や芸術論の他にプライベートなことも語られており、近しい関係が読み取れる。坂本龍一にとって高橋悠治は、まさに畏兄と呼ぶにふさわしい存在だった。「GRASSHOPPERS」は、スティーヴ・ライヒ的なピアノのミニマルなフレーズの反復に音色豊かなシンセが重なるイントロが印象的だが、まったく雰囲気が変わる中間部も面白い。ジャジーともブルージーとも形容できるだろうパートを経て、始まりのメロディに回帰し、旋律の繰り返しが微妙に緊迫感を高めていって、鮮やかに曲は終わる。

3 「新日本電子的民謡」と「プラスチックの竹」

 4曲目「DAS NEUE JAPANISCHE ELEKTRONISCHE VOLKSLIE」は、曲名の通り「新日本電子的民謡」を志向して作曲されたものだが、のちに坂本龍一はこの曲は「完全な西洋音楽」だと語っている。本人曰く「レゲエ的、あるいは日本的な田植え歌のような腰が落ちているリズムに、コンピューターによる打ち込みのリズムとシンセサイザーのオーケストレーションを融合」(『千のナイフ』2016年版ブックレット)させたもので、民謡というより音頭というべき四拍子のビートと、オリエンタル(に聞こえる)メロディ。彼の発言の真意は不明だが、むしろ「西洋音楽的手法で作られているにもかかわらず、なぜこれが日本的=アジア的に聞こえるのか?」を考えるべきだろう。おそらくここには「世界のサカモト」の秘密が隠されている。それはあとで触れる細野晴臣の「イエロウ・マジック」とも無関係ではない。この曲はYMOの初期のライヴでも演奏されている。アルバム収録時にたまたまスタジオで見学していた山下達郎がカスタネットで参加している。

 5曲目「PLASTIC BAMBOO」も、初期のYMOがライヴでたびたび取り上げた曲である。16ビートだが、低音を強調するとハウス・ミュージックのようにも聞こえる。シンセサイザーのうねるフレーズと背景のスペーシーなサウンドのバランスが面白い。4曲目以上に「完全な西洋音楽」だが、曲名の「プラスチックの竹」も、どこかアジア的イメージを喚起させる。

4 極東、そしてアジアの終焉

 アルバムの最後を飾るのは「THE END OF ASIA」。この曲もYMOの人気レパートリーとなり、アルバム『増殖 - X∞ Multiplies』(1980年)でカヴァーされることになる。アルバムB面の前2曲と同じく東洋的な絢爛豪華さを感じさせるシンセサイザーのフレーズに、野太いシンセ・ベースが裏メロ的に爪弾かれる。曲の終わりには渡辺香津美のALEMBICギターがスタジオ・セッション風に重なってきて、エンディングは、中国共産党と毛沢東を讃えた曲で文革期に国歌同様に歌われた「東方紅」が、アルバムの冒頭と同じように厳かに奏でられる。

 『Year Book 1971-1979』には、1979年10月16日、イエロー・マジック・オーケストラにとって初のヨーロッパ公演だったイギリス、ロンドンでのコンサートにおける「THE END OF ASIA」の演奏が収録されている。高橋幸宏の力強いドラムから始まる端正だが瑞々しいプレイで、楽曲の良さをより魅力的に聴かせている。原曲よりほんの僅かテンポアップしていることによってライヴ感が増している。そしてここでも渡辺香津美のギター・プレイが光っている。

 この“ジ・エンド・オブ・エイジア”という曲タイトルには二重の意味を引っかけてあって、 極東~アジアの端という地理的な意味と、アジア的なものの終りという、いまでいうグローバリゼーションが地球を覆ってしまうという意味での文化的な終りの意味。ぼくは日本人もうやめた!ってすっぱり割り切ってコスモポリタンになれるわけでもなく、日本のことはいつも気になっているし、日本の文化のユニークなところはこのまま廃れないで残ってほしい。と同時に、日本的な閉鎖性に対しても強い違和感を持つっていう両面が昔からいままでずっとあります。

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 いまこの演奏を聴き直してみても、みんな若くてパワフルな演奏をしている。 幸宏のドラムも若いゆえの力強さがある。乱暴と言ってもいい。当時、高橋幸宏というドラマーはむしろ繊細で都会的、お洒落でタイトなドラマーというイメージだったのに、乱暴なまでの若さの力強さがありますよね。幸宏に限らずみんながそう。若いってすごいなあと思います。(『Year Book 1971-1979』)

5 「この形でいいんだ」という認識

 極東そしてアジアの終焉、坂本龍一の最初のアルバムの最後の曲にこんなタイトルが付けられていたことは実に興味深い。だが『千のナイフ』の完成からYMOとしてのロンドン・ライヴまでのわずか1年で、この言葉の意味するところはおそらくかなり変質していた。話が先走ってしまうが、このとき坂本龍一は、こんなことを思ったという。

(…)何曲か演奏したあと、ぼくのソロ・アルバムからの曲、「ジ・エンド・オブ・エイジア」をやりました。そのとき、ステージのすぐ前のダンスフロアのようなスペースでカップルが踊りだしたんです。ニューウェーブ風のファションの、カッコいい男女でした。

 それを見ていたら、ああ、俺たち、なんてカッコいいんだろう、と思えてきた。「俺たち」っていうか、「俺」でしょうか、自分の曲ですから。こんなカッコいいカップルを踊らせているんだから、俺たちって、俺ってすごいぜ、みたいな、そんな恍惚感を演奏しながら覚えた。電気が走るような感じ。そして「そうだ、これでいいんだ」と思った。

 ぼくはそれまでずっと、自分はこういう方向性で生きて行くんだ、と思い定めるようなことはなるべく避けていました。できるだけ可能性を残しておく方がいいと思ってもいた。でもそのときロンドンで、「この形でいいんだ」と思った。自分の進むべき方向を、そうやって自分で確かに選び取ったのは、実はそれが初めてのことだったかもしれません。(『音楽は自由にする』)

 ここで言われている「これでいい」の「これ」、「この形でいいんだ」の「この形」という直観的な認識は非常に重要なものだと思う。本人も述べているように、それはYMOというよりも、他ならぬ「坂本龍一」にとっての「これ」「この形」であった。あるいはこう言ってもいいかもしれない。坂本龍一がこのとき感じた「これ」と、細野晴臣が編み出した「イエロウ・マジック=YMO」というコンセプトの、微妙な、だがおそらくは本質的で決定的な違いは、この時すでに胚胎していたのだと。

6 坂本龍一を「変身」させた高橋幸宏

 『千のナイフ』は1978年10月25日にリリースされた。レコードのタスキには次の文言が記されていた。

そして今、

すべては透明になった。

滅亡の時を前にして。

 

現在最も進んだセッションプレイヤー、

アレンジャーとして活躍する鬼才

坂本龍一が、11台のシンセサイザーと

コンピューターを駆使して織りなす壮大な

リューイチ・サウンド。今ここにベールをぬぐ。

 アルバムのジャケット写真には、高橋幸宏のスタイリングにより、長髪とヒゲをバッサリと切り、ヘアスタイルは「ニューウェーブ風」に刈り上げ、ジョルジオ・アルマーニのスーツに身を包んだ坂本龍一が颯爽と写っている。この華麗なる変身ぶりは周囲を大いに驚かせたらしい。

 坂本龍一と高橋幸宏の出会いは、1977年の日比谷野外音楽堂だった。そのとき彼は山下達郎のバンド・メンバーとして、高橋はサディスティック・ミカ・バンドの一員として出演していた。

 山下くんに紹介されて、野音の楽屋で初めて対面したときには、山下くんや細野さんと会った時とはまったく違う驚きがありました。とにかく、ものすごくファッショナブルなんですよ。上から下までKENZOなんかを着ていて、スカーフを巻いたりしている。

 「こんな野郎がロックなんかやってんのかよ!」と思って呆然として、つま先から頭のてっぺんまでまじまじと眺めてしまいました。ロックっていうのは長髪で、汚いジーパンで、ボロボロの格好でやるもんだと思っていましたから。そういう意味では、 固定観念があったというか、ぼくの方がむしろ保守的だったのかも知れない。

 幸宏以外のミカバンドのメンバーも、加藤和彦さんをはじめ、みんなものすごくファッショナブルでした。 なんか変わってるけど、これはこれで面白そうだ、なかなかのもんだな、とは思いましたが、ぜんぜん別の人種が音楽をやっていることに、 とにかく驚いた。(『音楽は自由にする』)

 高橋幸宏とその人脈のミュージシャンたちとの出会いは、坂本龍一にカルチャー・ショックを与えた。高橋とは数々のライブやレコーディングで一緒になり、プライベートでも仲良くなった。『千のナイフ』に先立つこと4カ月の1978年6月にリリースされた高橋のファースト・ソロ・アルバム『サラヴァ!』にも坂本龍一は、細野晴臣ともども参加している。

 高橋幸宏は自分が坂本龍一を「変身」させたことをインタビューでたびたび語っている。たとえばスティーヴン・ノムラ・シブル監督のドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto:CODA』のBlu-rayデラックス・エディションのボーナス映像(映画のアウトテイク)のインタビューで当時を振り返る高橋は悪戯っぽくも誇らしく見える。これはおそらく高橋が「教授」について語った最後のインタビューだろう。

 そう、高橋幸宏こそ彼に「教授」というあだ名を付けた張本人だった。知り合ってまもない頃、坂本龍一が東京藝大の現役大学院生であることを知って面白がった高橋が「じゃあ、大学教授にでもなるの?」などと尋ねたことから「教授」というニックネームが周囲に浸透していったものらしい。YMOが始まった時、彼は藝大を出ており、もちろん教授ではなかったが、その呼び名はすでに行き渡っていた。こうして「教授」が誕生した。

7 音響合成者、音響想像者としてのアルバム

 『千のナイフ』リリース元の日本コロンビアの担当ディレクター、斎藤有弘の回想によると(『千のナイフ』2016年版ブックレット)、このアルバムは「まったく売れませんでした。 そもそも初回のプレス枚数が400枚。 しかもその400枚を出荷したらすぐに200枚が返品で戻ってきてしまいました」。

 坂本龍一のデビュー・アルバムをそのときに買った人は日本中に200人しかいなかったわけです。

 これでは、さすがに「アーティストは3枚目までに成功すればいい」と言っていた上層部にも、 坂本龍一と専属契約を結んで次のアルバムも作らせたいとは言いだせませんでした。 この音楽は日本ではなく海外で受けるのではないかと海外のいろいろなレコード会社にテープを送っても反応がない。(「1978年、『千のナイフ』が誕生するまで」)

 このときコンタクトした海外レーベルの中には斎藤が国内リリースを担当していた、そして坂本龍一がピーター・バウマンのアルバムの解説を書いたヴァージン・レコードもあった。今のところは特に興味がない、という返事があったそうである。だが、巡り巡って坂本龍一は、のちにヴァージン・アメリカと契約を結ぶことになる。『千のナイフ』という作品の斬新さ、完成度の高さは斎藤も大いに認めていたので、反応の薄さと売れ行き不振には内心忸怩たるものがあっただろう。ところが、「皮肉なことにその頃からYMOブームが到来して坂本龍一も時代の寵児に。あれほど売れなかった「千のナイフ」にも大量の注文が入り、「なんで坂本龍一と専属契約しなかった!」と、後々まで上から言われました(笑)」(同前)。四十年近くを経て、斎藤はこう述懐している。

 ピーター・バウマンのソロ・アルバム『ロマンス'76』に寄せた坂本龍一のライナーノートに、以下の一節がある。

 このアルバムは単に一キーボード奏者としてではなく、 将に1人の音響合成者として、音響想像者としてのアルバムになっている。 又、録音や多重録音の投術、 トラックダウン時の効果的処理なども一聴に価するできであると思う。それら一切が唯のテクニックではなく、ピーター・バウマンの想像性とコンセプトと一体なものであり、 テクノロジーは容易に全体主義的、管理的な発想と結びつく要素をもっている訳であるから、 あくまでテクノロジーを駆使して溺れず、テクノロジーの「ひとり歩き」 を常に監視しながら、 柔軟でいられる、という強靱な感性が養われなければならない。 そしてその様な感性は、音楽をつくる側と共に、 享受する側により装備されていなければならない。 (『ロマンス'76』解説)

 これはまるで『千のナイフ』のことを先取りして述べているようではないか? アルバム・レコーディングよりも前に書かれたこの文章は、彼自身のことを言っているように読める。「単に一キーボード奏者としてではなく、 将に1人の音響合成者として、音響想像者としてのアルバム」「あくまでテクノロジーを駆使して溺れず、テクノロジーの「ひとり歩き」 を常に監視しながら、 柔軟でいられる、という強靱な感性」とは、まさに『千のナイフ』と坂本龍一にそのまま当てはまる。

 ただそれでも、アルバムができた当時に、うれしくて行きつけのカフェバーのようなところでかけてもらったら、店内がものすごく微妙な空気になってしまった。 自分も音楽をやっているという仲の良いウェイターから「坂本さん、 この音楽じゃモテないですよ」と言われて大変なショックを受けた記憶は鮮明です(笑)。

 女性にモテるために音楽を作るという発想はありませんでしたし、なによりも売り上げとか聴き手のこともまったく考えずに作っていました。 ディレクターの斎藤さんは途中、どう思っていたんでしょう? 頼むからもっとポップなものにしてくれよと思っていたんじゃないかな。

 今回、その斎藤さんのお話(先のインタビュー参照)で発売当初の売り上げ枚数が200枚だったということを初めて知りましたが、まるっきり無名の若者のこういうレコードなんだから当然ですよね (笑)。

 そういう音楽的興味だけを追求して作ったこのソロ・アルバムですが、いま聴き直すと至らないところが多すぎて恥ずかしい。 ただ、よくもわるくも若いエネルギーにあふれている。こんなに乱暴でわがままで自分勝手な勢いは、いまはもう当然出せない。

 当時はなぜこういう音楽なのかをいろんな理屈をこねて解説したり、あるいは斜に構えてみたりもしたけど、なによりも若さの暴走でした。 恥ずかしいけれど、 若いうちにこういうことをやっておいてよかったと思います。(『千のナイフ』2016年版ブックレット)

 デビュー作にはその作家の全てが存在しているという紋切型があるが、近現代西欧音楽史の豊かな達成を背景としつつ、売れっ子キーボーディストとしてスタジオやライブで体得した同時代のジャズやロック、ポップスからの影響、民族/民俗音楽、具体音/環境音への関心、そしてもちろんテクノロジー(電子音)への志向など、その後さまざまに進化発展させてゆく多種多様な音楽=音響的要素の多くがここにはすでに聴き取れる。本人は「乱暴」「若さの暴走」などと言っているが、これはけっして初期衝動だけで創れる音楽ではない。

8 青臭さと老成、絶望と達観の同居

 『千のナイフ』のオリジナル版には坂本龍一自身によるライナーノートが付されている。無題で「R.S.」とのみ署名されたその自己解説は、極めてスタイリッシュな文体で書かれている。

 身を汚すことの快美。 男娼願望。

 その最高の段階は、ファシストの少年、というところかな。 この世の一切の栄光と快楽を与えられている訳だから。しかも危険この上ない。 B-3(「THE END OF ASIA」:引用者注)のcodaの弦楽斉奏はその暗示。

 例えば、免許とるとか、酒の飲み方覚えるとかって全部そうなのです。だから、これは社会学である訳。無希望の社会学。

 日本はヘンな国だ。日本の文化はオカシイ。 純粋培養。

 いつもこの世の悪を意識してなくてはだめだと思う、生き方として。 だから、私は瞑想したいのだけれど、しない訳です。悪を思考できなくなるのが嫌なのです。

 私はアンチ・ロマンでもないし、反心理主義でもないし、 機能主義者でもない。 だって目的は無いのだから。

 誰かのためになるなんて思って音楽作っている訳ではない。(現在どんどんつくられている音楽のほとんどがそうなのだけれど。) ただ、自分のため、 なのですね。 社会的な自分のため。社会に登録されるというだけのため。 小権力が分配される訳でしょう。 何もしなければただ雇用されてるだけだから。 要するに、使用人が小さな店をもたせていただいたのね、だんな様に。 そうすると、こんどは自分が使用人の3人を雇って店を維持していく訳です。みんながやっていることと同じ。 それだけ。

 ずいぶんとひねくれた文章だと思うかもしれない。シニカルで超然とした、それでいて読み手(聴き手)に共感と理解を暗に求めてくるようなどこか甘えた雰囲気は、80年代的とも言える(まだ1978年だったが)。そこには「ニヒルな日雇い労働者」(前回参照)という意識も影を落としていただろう。彼はこうも書いている。「このままいって、音楽の世界にsynthesizer がもっと普及して、音楽のつくり方が、私なんかが今やっているようなデジタル的な方法に変化していくと、耳が変ってしまう。 決していい方にではなくて。そうなると伝統的な感性の文化的拘束力が勝つか、テクノロジーが勝つかの戦いになる」。これも重要な論点だが、坂本龍一のテクノロジー観は常に両義的だった。彼はシンセサイザーなどの電子楽器が、学習と努力を必要とするプロの聖域から「音楽」を解放し、原理的には誰にでもやれるようになるということには一貫して肯定的だったが、その一方で「耳が変ってしまう」ことに対しては警戒感を持っていた。これは前に触れた「音色」へのこだわりとともに、坂本龍一の音楽において、これ以後の数十年にわたって、彼の最期まで形を変えて問われ続けることになる。

 『千のナイフ』のセルフ・ライナーの末尾は、このようなものである。

(…)音楽で人を救うなんて絶対できっこない。 救われないと思っている奴らの嘆き節なんだから。 かくいう私の音楽もまさにこれですね。立派に嘆きたいと思っていますよ。 どうせ落っこってくるのだから。

 嘆いて、救われないということすら忘れている、 救われない人たちに、その救われなさを一緒に歌ってほしいと思っている。 ホントは。

 一緒に死んで下さい。

 これを書いた時、彼は26歳だった。青臭さと老成が、絶望と達観が、ここには奇妙な姿で同居している。だが、こんな風にうそぶきながら、彼は自分の運命が一年後にどうなっているのかを、もちろん知らなかった。

9 『千のナイフ』の姉妹編ともいうべき「個展」

 ところで、実は『千のナイフ』というアルバムには、一種の姉妹編ともいうべき「作品」が存在していた。細野晴臣はこう語っている。

 『個展』についても強く印象に残っています。 『はらいそ』 のレコーディングのときかな、中央線沿線のどこかのライヴ・ハウスでやったコンサートのカセットテープだということで渡されて、聴いてみたら非常にノイジーな電子音楽の演奏が入っていた。 そうか坂本くんの音楽の本体はこれなのかとあらためて認識しました。(「ぼくが知っている、 坂本龍一の1970年代。 若き“アブ”から“教授”への変身を追って」)

 「個展」とは、1977年から78年にかけて、現在は作曲家・指揮者として知られる森本恭正が、現代音楽に特化した企画会社EX HOUSEで企画・制作していた連続コンサートの名称である。森本は東京藝大中退だが、年度上は一年先輩の坂本龍一の現代音楽方面での活動はまったく知らず、たまたまテレビで観たコマーシャル(日立カラーテレビ「日本の伝統美」)の音楽に感心し、CM会社に問い合わせをして、電話で直接、坂本龍一に依頼した。彼は快諾し、ソロ・アルバムの作業と並行して、コンサートの準備を始めた。

 坂本龍一の「個展」は、1978年1月30日、31日、2月1日の3日間、荻窪の新星堂地下ホールで開催された。ちょうど、日本コロンビア第4スタジオでの『千のナイフ』のプリプロダクションが終わった直後であり、当然ながらアルバムの準備とともにライブに向けての作業も行われていたのだろう。当初は高橋悠治とのデュオ・コンサートも模索したが、結局ソロになった。このとき坂本龍一はシンセサイザーを多重録音したテープを流しながら、即興演奏でよく共演していた四人囃子の茂木由多加と二人で更にシンセを重ねる「非夢の装置 或いは反共同体関数としての音楽」と題された曲を披露した(細野晴臣が聴いたのはこの時のテープである)。「個展」はかなりの好評で、森本は早くも同年5月に再演を企画する。場所はルーテル市ヶ谷に変わった。「今度は女性演奏家3人を呼ぶことにしました。みんな若いけれどちゃんと弾ける子たちで、ぼくはシンセサイザーのみ」(『Year Book 1971-1979』ブックレット)。この再演ヴァージョンは「ナスカの記憶」と改題されたが、この時のライブ録音が、坂本龍一自身のエディットを施された上で『Year Book 1971-1979』に収録されている。

 「ナスカの記憶」も基本的にはシンセサイザ-の多重演奏による作品で、タンジェリン・ドリームや『アウトバーン』以前のクラフトワーク(クラフトヴェルク)、頭文字がKだった時のクラスター、タンジェリン・ドリームとアシュラ・テンペルのメンバーだったクラウス・シュルツ、タンジェリン・ドリームとクラスターのメンバーだったコンラッド・シュニッツラーなどのいわゆる初期クラウト・ロックを彷彿とさせるサイケデリックでノイジーな電子音楽だが、三人の女性プレイヤーによるヴァイオリン、パーカッション、ヴォイス、シロフォンなどのアコースティックな音が彩りを添えている。全体としてコンポジションというよりもフリーフォームの即興的要素が強い(少なくともそう聴こえる)。映像が残っていないのが残念だが、いったいどのようなステージだったのだろうか。残された音源を聴く限りでは、『千のナイフ』収録曲との明確な関連性は特に感じられない。シンセサイザーが多用されている点を除けば、ほとんど対照的な音楽であるとさえ言える。もっとも大きな違いは、『千のナイフ』の曲にはリズム=ビートへの関心が存在するが、「個展」ないし「ナスカの記憶」にはほぼそれがないということだろう。だが、同じ機材を使用しながら、こんなにも異なった音楽を、しかも同時並行で作り上げていった坂本龍一の才気は、やはりおそるべきものとしか言いようがない。

10 細野晴臣の「イエロウ・マジック」

 『千のナイフ』オリジナル版には、坂本龍一の他に林光と細野晴臣がライナーノートを寄せている。「全6曲は、ひとつながりの〈交響〉曲として聴かれる」という林の解説も興味深いが、重要なのはやはり細野の文章だろう。「坂本龍一のソロ・アルバムに寄せる惜しみない讃辞。」と題されたテクストは、こんな風に始まる。「もう、このままではこの世界はどうしようもない。音楽は、そんな状況を素直に表わしてしまう。 私は現在の音楽を含めた人類の煮詰りかたにがまんできない者の一人である」。まるで示し合わせたかのように坂本龍一のライナーのペシミズム、ニヒリズムと共通する現状認識が述べられている。この時すでにYMOのデビュー作のレコーディングは始まっていた。二人には同志愛あるいは共犯意識のようなものが芽生えていたのかもしれない。

 細野晴臣の文体は、坂本龍一とはまた違った意味でかなり個性的なものだが、ここで必ず引用しておかなくてはならないのは、『千のナイフ』への「惜しみない讃辞」の後半部分である。

 現在、音楽はくさる程つくられているが、3拍子そろったものは余りない。 その3拍子とは、 ①下半身モヤモヤ ②みぞおちワクワク ③頭クラクラである。 ①②はざらにある。 ①は端的にいえばリズムであり、②は和音、メロディーということだが、 ③はクラクラさせるようなコンセプトである。これはアイディアの領域を越えた内からつきあげてくる衝動のようなものであり、私の最も大事とするもので、これを感じたものには、シャッポを脱いで敬礼する事にしている。

 教授(彼は本当の教授である) の表わした自分の音楽に初めて接触したのは、レコードではなく "個展”と銘打ったコンサートのテープである。 その時感じたのは「ムム、これはデキル。しかも理力の暗黒面を利用しているナ!」ということだった。 これ程のものに触れるといやでも戦慄を覚える。これはきっと未知の暗黒に挑む時の戦慄につながっているのだろう。

(中略)

 ところで、最後にもうひとつ不思議な因縁を言っておきたい。 B-3の曲の主旋律の話しだが、このメロディーは僕も使ったのだ。 こう言うとおかしいかもしれないが、あのメロディーは確に私も創ったし、坂本龍一も創ったのだが、それは同時に使ったともいい直せるのだ。 理力のエネルギー場は宇宙全体に拡がり、誰しも自由に、海の塩を取るように利用できる。 その力がブラックであろうとホワイトであろうと、はたまたイエロウであってもエネルギーはひとつである。 要はそのエネルギーを引き出し、 利用し、操る力があるかないかの問題であり、彼は音楽をとおしてその秘密を探っているのだろう。かくいう私もイエロウ・マジックを身につけるべく、日夜戦いつづけているのだ。(「坂本龍一のソロ・アルバムに寄せる惜しみない讃辞。」)

 イエロウ・マジック。すでに細野晴臣は自身のソロ・アルバム『はらいそ』(細野が書いている「THE END OF ASIA」と同じメロディーの曲は同アルバム収録の「ウォリー・ビーズ」。確かにサビの裏で聴こえる旋律が酷似している)を「細野晴臣&イエロー・マジック・バンド」名義で発表していた。ブラックでもホワイトでもない、黄色の魔術。

 『千のナイフ』発売1カ月後の1978年11月25日、YMOのファースト・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』がリリースされる。

 怒涛の日々が始まる。

 

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