◆時に慈しみ、時に躍動する【女神】/女神
天界の王であったクロノスと妃レアの長女にして、ゼウスの姉妹であり妃でもある。詩人ホメロスなどは彼女の陰湿な嫉妬深さについて語るが、もとは独立した大女神であった。
ジューンブライドという言葉がある。六月の花嫁は幸せになれるのだという。それで結婚式は現代の日本でも六月に集中する。なぜ幸せになれるのかというと、その季節が春のいい気候だということなどではなくて、六月がヘラの守護する月だからである。英語の六月・Juneとはユノのこと、ユノとはローマにおけるヘラの名である。そしてヘラは家庭の主であり、女性の結婚の守り手であるのだ。
◆凄まじいまでの嫉妬深さ
ヘラに関してはやはり嫉妬の話が多い。ゼウスの愛を得たアルゴスの乙女イノの姿を牝牛に変え、さらに苦しめるために虻(あぶ)を送ったのだという。
ゼウスが人間の女セメレを愛した時には、人間に変身して彼女に近づき、「ゼウス様の本当の姿を見せてもらいなさい」と唆(そそのか)す。セメレは真に受けて、ゼウスに願い事を何でもかなえてくれるよう約束させた上で「あなたの本当の姿を見せてください」と言う。ゼウスは約束した以上、違えることはできない。それで真の姿を顕わす。ゼウスは雷の神であるので、セメレはその瞬間ゼウスの雷に打たれて命を落とした。このときセメレが孕んでいた子をゼウスは胎から取り出して自らの太ももで養育し、時が来て生まれたその子が葡萄酒の神・ディオニュソスである。
また「パリスの審判」において、ヘラとアテナとアプロディテは「最も美しい女神へ」と書かれたリンゴをめぐって争うが、最終的に審判者パリスが選んだのはアプロディテであった。
ヘラはこれを怨み、パリスがトロイの王子であったことから、トロイ戦争でトロイを激しく憎んでギリシア方に加勢した。戦争のさなか、ギリシア勢が苦戦しているのを見ると、ヘラは美しく身を装い、アプロディテから借りた「愛の帯」を懐の奥深くに忍ばせ、ゼウスのもとにやって来る。ゼウスが愛欲にかられて妃を抱き、眠りの神によって深い眠りに落ちている間に、海の神ポセイドンがギリシア方に加勢し形勢を逆転させる。やがて目覚めたゼウスは状況を知るや激怒したが、ヘラはポセイドンの仕業と言って怒りの矛先をそらしたのだった。
ヘラの嫉妬はギリシア最大の英雄ヘラクレスにも向けられた。ヘラクレスはゼウスと人間のアルクメネの子であるが、彼が八か月くらいの赤子の時に、そのゆりかごに二匹の毒蛇を送り付けた。しかし赤子にしてすでに怪力であったヘラクレスは、その蛇を絞め殺してしまった。ヘラのヘラクレスへの憎しみはどこまでも深まり、彼が結婚して幸福に暮しているのが許せず、「狂気」の女神を送り込み、これによりヘラクレスは妻子を皆殺しにしてしまった。
このように嫉妬の話が目立つ一方で、女性の結婚の守護神であり、出産分娩を司り、また夫を失った女の守護神でもあるとされるヘラは、ホメロスが描くような嫉妬深い一面を超えた、天界の女王にふさわしい風格を備えている。
◆反抗と懲罰
ヘラはゼウスから厳しい懲罰を受けたことがあるとされる。ホメロスによると、彼女はゼウスによって黄金の鎖で縛られて宙づりにされたのだという。安村典子によると、この罰は単なる見せしめ以上の意味があり、ヘラがゼウスの権力の転覆を画策したことへの罰であったと解釈できるのだという。ヘラはしばしばポセイドンと協同してゼウスの絶対的な権力に反抗を試みる。しかしゼウスの圧倒的な力の前には、それは無駄なあがきでしかなかったのだ。
(参考文献;安村典子『ゼウスの覇権 反逆のギリシア神話』京都大学学術出版会、2021年。
呉茂一『ギリシア神話〈新装版〉』新潮社、1994年)