「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第6回 「イエロー・マジック」との闘い(その1)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第6回の公開です! 

1 「伝説のこたつ集会」

 「かくいう私もイエロウ・マジックを身につけるべく、日夜戦いつづけているのだ」。細野晴臣が坂本龍一の『千のナイフ』のライナーノートにこう書きつけた時、イエロー・マジック・オーケストラのファースト・アルバムのレコーディングはすでに開始されていた。前にも触れたように、1978年4月にリリースされた「トロピカル三部作」の三作目、細野晴臣&イエロー・マジック・バンド名義の細野のソロ・アルバム『はらいそ』に収録されている「ファム・ファタール~妖婦/FEMME FATALE」の演奏は細野と坂本龍一、高橋幸宏の三人で行われており(このアルバムで三人の演奏はこの曲のみ)、この録音の際に細野が二人にYMOの構想を語ったというのが通説となっている。

 だが、歴史的瞬間というべき、この「伝説のこたつ集会」(『音楽は自由にする』)について、坂本龍一の記憶はあまりはっきりしていない。

 幸宏とぼくが細野さんからYMOの構想を聞かされたのは、1978年2月のことです。このときの様子は、YMO結成の瞬間として伝説のように有名になっているようですが、ぼくの記憶はけっこうあいまいです。でも確かに、細野さんの家に幸宏とぼくとが招かれて、3人でこたつに入って、こたつの上にはみかんがあって、おにぎりが出されました。

 そこで細野さんが、大学ノートみたいなものを出してきてパッと開くと、富士山が爆発している絵があって、「400万枚」とか書いてある。「イエロー・マジック・オーケストラ」という名前も書いてあったと思います。

 YMOの構想を聞いて、ぼくは驚くでもなく、「それはまあ、普通でしょう」みたいな反応をした。いいんじゃない?という感じ。心の中では細野さんのことをすごく尊敬していたんですが、なにしろそのころは不遜でとんがっていましたから、バンドに誘われたからといってワッと飛びついたりはしなかった。(略)

 幸宏のそのときの反応ははっきり覚えていませんが、もっと素直に「やりましょう」という感じだったと思います。幸宏は高校時代から細野さんと面識があって親しかったし、彼自身いろんなバンドを経験していたので、バンドに入るというのは自然なことだった。

 でもぼくにとっては、それが生まれて初めてのバンド経験でした。バンドに入るというのは何か特別なことで、入ったらもう逃げられない、みたいな感覚もあった。それまでは何にも所属せずに、いつも片足だけ突っ込んで逃げられるような態勢でやっていたのに。あ、いよいよ来ちゃったな、という感じがした。 (『音楽は自由にする』)

 厳密に言うと、りりぃのバイバイ・セッション・バンドでも一応メンバー扱いだったが、彼としては「片足だけ突っ込んで」いる気持ちだったのだろう。YMOの結成秘話は当然ながら細野晴臣も何度も語っているが、たとえば『Year Book 1971-1979』のブックレットに収録されている「ぼくが知っている、 坂本龍一の1970年代。 若き“アブ”から“教授”への変身を追って」では、細野はこう述べている。

 YMOは、最初は林立夫らと一緒にやろうと思っていたが白紙になった。ではドラムは幸宏かなと思いついて、 キーボードは誰にしようとなったときに、当時ぼくのマネージャーをやっていた (雅水) から “アブ”ちゃんが いいんじゃないというアイデアをもらった。

 YMOはシンセサイザーとMC-8 (シーケンサー)を使って新しい音楽をやろうという構想だったので、そういう場にはぴったりなミュージシャンだろうと思いました。

 それでYMO結成に誘って、OKはもらえたものの、同時に彼の中ではパンドに加入するということに対してかなり葛藤があるようにも見えた。 実際、その直後に幸宏から 「坂本くんがバンドに入るということに関して不安がっている」 という連絡が来て、ではちゃんと話して理解してもらおうと会いに行ったことが何回かあったかな。たしかにバンド活動というものは特殊なものなので、ずっとひとりで音楽をやってきた坂本くんには決意がいるものだったと思う。(「ぼくが知っている、 坂本龍一の1970年代。 若き“アブ”から“教授”への変身を追って」)

 日笠雅子(雅水)は、この時は細野晴臣のプライベート・アシスタントだったが、牧村憲一が設立したレーベル、アワ・ハウスにかつて細野が所属していた時から担当しており、元アワ・ハウスの生田朗は坂本龍一のマネージャー的な仕事をしていた。吉村栄一の『坂本龍一 音楽の歴史』によれば、1978年の正月に大貫妙子の家で、坂本龍一、日笠、生田、大貫の四人で鍋パーティーをしていた時、鍋の熱さに髪をかき上げた坂本龍一(この時、彼はまだ“アブ”だった)が実はかなりの美形であることに気づいた日笠は、メンバー選びが難航していた細野の新グループに坂本龍一を入れるのがいいのではないかと思いつき、その場で彼に細野の構想を話して打診し、確約ではないもののおおよその内諾を得た。その翌日、日笠は細野と会い、坂本龍一をメンバーにするべきだと直談判した、ということらしい。先に述べた「ファム・ファタール~妖婦/FEMME FATALE」のレコーディングはこの後のことである。細野はのちにイエロー・マジック・オーケストラと呼ばれることになる新バンドについて、かなり明確なヴィジョンを持っていたと思われるが、当初考えていたのは、まったく異なるメンバーだった。ドラマーは林立夫、キーボードは佐藤博というのが、細野のファースト・チョイスだったという。もしもこのメンバーになっていたら、YMOは全然別のバンドになっていただろう(それはそれで聴いてみたかった気もするが)。

2 YMO、誕生

 細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の三名から成るYMOの初レコーディングは1978年の7月10日にスタートした。坂本龍一の『千のナイフ』の完成が7月26日、10月25日のリリース日と翌26日に六本木ピットインで行われた発売記念ライヴの名義は「坂本龍一とイエロー・マジック・バンド」だった(メンバーには細野と高橋もいた)。それに先立つ10月18日にYMOは芝・郵便貯金ホールで初ライヴを披露している。そしてYMOのファースト・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』は、この年の11月25日にリリースされた(以上は『千のナイフ』2016年版ブックレットの年表による)。この間に、イエロウはイエローに、バンドはオーケストラに変化した。こうしてついにYMOは誕生した。

 細野晴臣がぶち上げた「400万枚」には根拠がないわけではなかった。この頃、細野がクラウンから移籍してプロデューサー契約を結んでいた新興レコード会社アルファレコード(『はらいそ』も同社からのリリース)は、アメリカのメジャー・レーベルA&Mとの間に双方向のライセンスの契約を結んでいた。A&Mのレコードをアルファが日本でライセンス・リリースする代わりにアルファのアーティストの世界デビューをA&Mが手がけるというものである。細野はYMOとしてマーティン・デニーの「ファイヤークラッカー」のカヴァー・シングルをアルファ~A&Mからリリースして大ヒットさせるという野心を抱いていた。400万枚とはいかなかったが、この狙いはある意味で確かに成功する。だがその「成功」のかたちは、細野が最初に思い描いていたものとはかなり異なるものになっていったのだが。

 実はYMOはまずはじめに「ファイヤークラッカー」を生演奏でやってみたという。だが満足のいくものにならず、シンセサイザーとコンピューターのプログラマー/オペレーターの松武秀樹を呼び寄せた。日本のシンセサイザー奏者の草分けである冨田勲のアシスタントからキャリアをスタートさせた松武は、YMOに先行して制作が始まっていた『千のナイフ』にも全面的にかかわっていたが、細野と横尾忠則のアルバム『COCHIN MOON(コチンの月)』(1978年9月リリース。坂本龍一と高橋幸宏も参加)にも参加していた。それだけでなく、1977年8月にリリースされた矢野顕子のアルバム『いろはにこんぺいとう』でもシンセサイザーのプログラミングを手がけていた。このアルバムには細野晴臣が林立夫、鈴木茂とともにティン・パン・アレーとして参加しており(坂本龍一は不参加)、細野も松武の存在をだいぶ前から知っていたことになる。いずれにせよ松武の貢献は決定的に重要である。のちに彼は「4人目のYMO」と呼ばれることになる。

3 それぞれの音楽性

 最初は及び腰だった坂本龍一だったが、YMOのレコーディングが進むにつれ、ソロとはまた違う面白みとやり甲斐に次第にのめり込んでいった。

 (前略)YMOでバリバリの現代音楽をやるわけにもいかないので、いちおうポップスの範疇に入るものを作ることになるのですが、それでも自分の好きなものはかなり取り入れられました。ぼくが好きで聴いていたジャーマン・ロックとか、そこから派生してきたテクノのクラフトワーク。そういう一般にはまだほとんど認知されていなかったものを持ち込んで、その知識や情報を料理することができるというのは、本当に面白かった。かなり生き生きとやっていた記憶があります。

       *   

 基本的に、幸宏や細野さんの場合は、音楽性のベースとしてポップスやロックがある。でも、ぼくにはそれがなかった。だから、2人が「あのバンドの、あの曲のあそこの感じ、あのベースとドラムね」とか言って通じ合っているときに、ぼくだけ全然わからないんです。バンドや曲の名前を覚えて、密かにレコードを買って聴いたりしていました。日々勉強という感じで。

 逆に、スティーヴ・ライヒがどうのとかジョン・ケージがどうのとか、2人が知らない材料をぼくの方から出すこともできる。結果として、細野さんだけでも、幸宏だけでも、ぼくだけでもできないものができる。それぞれの音楽を重ね合わせていく感じなんです。(『音楽は自由にする』)

 こうして『イエロー・マジック・オーケストラ』が完成した。本人たちの満足度は高かったが、リリース当初の評判は芳しくなかった。「あまり売れなかったですね、その一枚目は」と坂本龍一も語っている。

 社会的にも全然反応はなかったし、周りのミュージシャン仲間に聴かせても「こんな冷たい音楽は受けるわけがない」なんて言われた。でも、そう言われてがっかりするというわけでもなくて、「なるほど、これが冷たい感じに聴こえるのか、面白いな」と思ったりした。聴く人の先入観みたいなものが見えてくるような気がして。

 自分たちとしては、かなり満足のいくものができたという充実感もあったし、新しいスタイルの音楽を作っているんだという確信もありました。ここで得た何かを突き詰めて次に進もうという、そういう積極性に燃えていたように思います。(同)

 『イエロー・マジック・オーケストラ』はA面5曲、B面5曲の計10曲から成るアルバムで、当時大流行していたコンピューター・ゲーム「サーカス」と「スペースインベーダー」の音源を用いて作られた「コンピューター・ゲーム “サーカスのテーマ”」と「コンピューター・ゲーム “インベーダーのテーマ”」(いずれも作曲クレジットはイエロー・マジック・オーケストラ)、マーティン・デニーの「ファイヤークラッカー」を除いた7曲がオリジナル、「ブリッジ・オーバー・トラブルド・ミュージック」がYMO、「シムーン」「コズミック・サーフィン」「マッド・ピエロ」「アクロバット」の4曲を細野晴臣、「東風」を坂本龍一、「中国女」を高橋幸宏が作曲している。作詞は全曲、イギリス出身で京都在住の詩人、作詞家、作曲家のクリス・モズデル。ちなみに「東風」「マッド・ピエロ(=気狂いピエロ)」「中国女」はいずれもジャン=リュック・ゴダール監督の映画の題名であり(「東風」は正確にはゴダールを含むジガ・ヴェルトフ集団の作品)、大のゴダール・ファンだった坂本龍一に他の二人も合わせてタイトルを決めたらしい。

 冒頭に据えられた「コンピューター・ゲーム “サーカスのテーマ”」が、このアルバムの、そしてYMOのサウンド的な方向性を鮮やかに宣言している。私自身、よく覚えているが、今となってはいかにもチープに聴こえるピコピコと鳴る電子音は、当時の耳には実に奇妙に、新鮮に響いた。シンセサイザーなどの電子楽器はすでに一部のミュージシャンが導入していたが(もちろんYMOの三人も使用していた)、それをここまで全面的かつ大胆にポップ・ミュージックに導入してみせたのは、日本ではこのアルバムが最初だった。クラフトワークは『アウトバーン』(1974年)でポップ路線に変更後、『放射能』(1975年)、『ヨーロッパ特急』 (1977年)、『人間解体』(1978年)と意欲的な音作りを進めていたし、ジョルジオ・モロダーのプロデュースにより大ヒットしたドナ・サマーの「アイ・フィール・ラブ」(1977年)もすでに存在していた。だが細野晴臣の独創性は、電子音と彼がそれ以前に試みてきた「トロピカル」を融合させるという点にあった。実際、このアルバムの細野の曲は『はらいそ』の延長線上にあるように思われる。特に「シムーン」は従来の楽器で演奏されていてもおかしくない曲である。この時点での細野の音楽的なアイデアは、まずは既存のバンド演奏を電子楽器に差し替えることよって得られる音色のユニークさにあったと言うことができるだろう。

 これに対して他の二人は、YMOとしての楽曲を自分のソロ作から差異化することを、自らのなすべきことと最初から認識していたように思われる。高橋幸宏の「中国女」は、『イエロー・マジック・オーケストラ』の5カ月前にリリースされたファースト・ソロ・アルバム『サラヴァ!』(細野晴臣、坂本龍一も参加)とは似ても似つかない「テクノ」なサウンドになっているし(途中から出てくる高橋のヴォーカルは、これこそ「YMO」という感じだ)、そのことは『千のナイフ』を作っていた坂本龍一も同様だった。「東風」(当時、彼らの行きつけの中華料理店の店名でもあったという)は、『千のナイフ』収録の「THOUSAND KNIVES」や「THE END OF ASIA」と同じくYMOのライヴでの人気曲となるが、『千のナイフ』では叩いていない高橋幸宏のドラムスが重要な役割を演じており、やはり最初からYMOのための曲であることがわかる。

4 全米デビュー

 自信作だったファースト・アルバムは思ったほどの反応を得られなかったが、ここからYMOの運命は大きく転がっていく。『イエロー・マジック・オーケストラ』のリリースからまもない1978年の12月、A&Mのアーティスト、ニール・ラーセンが来日し、日米のミュージシャンが集う「フュージョン・フェスティバル」が開催された。YMOは大村憲司らとともにこれに出演していた。当時A&Mの重役で、傘下のホライゾン・レーベルのトップだったトミー・リピューマも、ラーセンと共に来日していた。ジョージ・ベンソンの大ヒット曲「ブリージン」をはじめ、ジャズ、フュージョン、ポップスなどジャンルを超えて数々の名曲、ヒット作を生み出した敏腕プロデューサーである。有名なエピソードだが、アルファのエグゼクティヴ・プロデューサーだった川添象郎は高級ワインを携えて、リピューマが泊まるホテルの部屋を訪ね、そこそこ酔ったところで会場に連れていき、YMOの演奏を見せた。するとリピューマはYMOを気に入り、A&Mホライゾンからの全米デビューを約束したのである。

 YMOのセカンド・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は1979年の3月にレコーディングが開始された。トミー・リピューマの約束通り、『イエロー・マジック・オーケストラ』のUS盤が5月末にA&Mから発売されている。世界デビューに当たって、アル・シュミットによって全曲リミックスが施され、収録曲も一部変更、アートワークも一新された。アルファ盤の最後に置かれていた細野作の「アクロバット」(2曲の「コンピューター・ゲームのテーマ」を下敷きにしたパッチワーク的な曲)がカットされ、これが一番大きな違いだが、坂本龍一作の「東風」に吉田美奈子(彼女が1973年にリリースしたファースト・ソロ・アルバム『扉の冬』は細野のプロデュースだった)のヴォーカルが加えられている(曲名も「Yellow Magic (Tong Poo)」に改題)。

 いざアメリカでのデビューが決まったはいいが、本国に戻って冷静になったトミー・リピューマはYMOの突飛な音楽性に頭を抱えたらしい。だが、打開策は意外なところから訪れた。この年にトッド・ラングレンのプロデュースで4枚目のアルバム『リモート・コントロール』を発表して人気がうなぎのぼりだったチューブスのマネージャーがYMOの音を聴いて興味を持ち、チューブスが夏に三夜連続で行うグリーク・シアター(ロサンゼルス)でのライヴの前座に抜擢してはどうかと提案したのである。この案はすぐに日本側にも伝えられたが、費用はアルファ持ちだった。だが川添象郎とアルファの社長だった村井邦彦は、このプランに社運を賭けた。

 川添象郎の著書『象の記憶』(2022年)には、次の記述がある。

 ライブ・ツアーの事前の打ち合わせで僕がメンバーに提案したのは、アメリカ人が日本人に対して抱いている典型的なイメージを逆手にとって日本のアイデンティティとして表現しようというものであった。日本人は無口で無表情だと思われているのだから「曲間に拍手をもらってもニコリともせず、お辞儀もせず、無表情のまま怒涛の如く演奏を続けよう」と言った。メンバーは「そりゃ楽でいいですね」などと言っていた。また、学生服やサラリーマンの画一的なユニフォーム姿に象徴されるように、制服を着用するイメージをもっているだろう、と考えたので、ファッションセンスのある高橋幸宏に相談してユニフォームを作ってもらうことにした。

 高橋幸宏がデザインしたのは、真っ赤な人民服のような衣装だった。サポートミュージシャンとして参加する渡辺香津美と矢野顕子、そしてステージ上の視覚効果も狙って設置したコンピューターのプログラマー・松武秀樹は、黒い制服のようなものを着て出演することになった。また、ファーストアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』の米国盤は、チューブスのコンサート開催前にリリースされることになった。(『象の記憶』)

 YMOのUSデビューは大成功した。川添によれば、「なんと一曲目から大喝采のスタンディングオベーション。会場の熱気は三曲目あたりでピークに達し、そのまま最後の曲まで盛り上がり続けた」(同前)。川添はA&Mの有名アーティストのインタビューを餌に、約10社の音楽専門誌の記者を日本から連れていったが、彼らもYMOの反響に驚き喜び、絶賛記事を執筆した。川添がライブの模様を急遽ビデオで撮影して日本に送ると、村井がNHKに売り込みをかけ、夕方の番組で特集された。ここから日本国内でも一気に火がついた。この時点で『イエロー・マジック・オーケストラ』米国盤も日本でリリースされていた。デビュー当初は無反応に近かったYMOは、いきなり売れ始めた。タイミング良くセカンド・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が9月にリリースされ、10月からはロンドンを皮切りにワールド・ツアーが始まった。こうしてYMOはスターダムを駆け上がっていくことになる。

5 ポップ・ミュージックという共通言語

 私は1964年7月生まれなので、YMOの特集がNHKで放映された時は15歳だったはずだが、この時のことはよく覚えている。中学校から帰ってくると、父親が店先でテレビを見ていた(私の実家は洋品店を営んでいて、両親は自宅と繋がった店舗にいつもいた)。当時の私は普通の中学生程度の音楽への関心しか持ち合わせていなかったが、ブラウン管に映った奇妙な格好の男たちと彼らが奏でる奇妙な音楽に「何だこれは?」と思った。たぶんすぐにYMOのレコードを買いに走ったのではなかったか。日本の音楽が世界で話題になっているということも大きかっただろう。こういう子どもは多かったのではないかと思う。日本の高度経済成長を分析して日本型経営を高く評価したエズラ・ヴォーゲルの著書『ジャパンアズナンバーワン――アメリカへの教訓』の出版は同じ1979年である。80年代を目前に、日本企業は続々と海外進出を果たしていた。「ジ・エンド・オブ・エイジア」=極東の島国は、世界の経済大国の仲間入りをした。いや、その頂点を窺うまでになっていた。

 チューブスの前座を終えた後、YMOはアメリカ各地のライブハウスでプロモーション・ツアーを行った。そして日本に帰国してみると、状況は一変していた。成田空港には多数のマスコミが待ち受けていて、YMOにフラッシュを浴びせた。そのまま記者会見、まるで凱旋ツアーのようだった。だが、この時点では日本国内でのYMOの人気はまだ限定的なものだった。それが社会現象とも呼ぶべきブームとなるのは、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』発売後のことである。このアルバムはオリコン・チャートで1位を獲得した。そして10月から、イギリス、フランス、アメリカを回って日本に戻ってくる「トランス・アトランティック・ツアー」が始まった。こうして空前のYMOフィーバーが訪れる。

 ロンドンのライヴで「THE END OF ASIA」を演奏した際にフロアのカップルが踊り出し、そのとき坂本龍一が感じた天啓のごとき確信のことは前に述べたが(前回参照)、『音楽は自由にする』の続きには冷静な分析も綴られている。

 あのとき彼らロンドンの若者の耳には、「ジ・エンド・オブ・エイジア」はどんなふうに聴こえていたのか。推測するしかありませんが、キテレツで日本的な、何か異質な音楽として聴こえていたんじゃないかとぼくは思います。しかし、それにもかかわらず、ぼくらの音楽に反応して踊り出したということは、YMOの音楽が何らかの形で彼らに「わかった」ということです。

 音楽が「わかる」とか「わからない」とかいうのはどういうことか。それは民族音楽を考えるうえでも面白いところなんですが、簡単に言ってしまうと、文化的な背景がまったく違うところの音楽は、聴いてもほとんどわからない。

 ロンドンの彼らがおそらくはYMOの曲を異質な音楽として受け止めながらも、それを「わかった」、何か心や体を揺さぶるものとして感じたということは、ぼくらと彼らとの間にポップ・ミュージックという共通の基盤があったからだと思います。 YMOの音楽の源流の一つは、イギリスやアメリカのポップスです。とくに細野さんと幸宏の2人には、50~60年代を中心とした膨大な量のポップ・ミュージックが、 音楽データベースとして入っている。そういうものが、ロンドンの観客がぼくらの音楽に共鳴する土台になっていたのだと思います。

 もしリズム・セクションの2人の中にポップ・ミュージックがあれほどしっかりと染み込んでいなかったなら、YMOの音楽が世界中の聴衆の耳に届くことはなかっただろうと思います。(『音楽は自由にする』)

 

 その時点ですでに一種のユニバーサル・ランゲージとなっていたポップ・ミュージックが基盤になっているからこそ、YMOの音楽は、奇妙でありながらも親しみやすいものとして西欧の耳にも受け入れられた、ということである。だが興味深いのは、それがまだポップ・ミュージックなど碌に知らなかった15歳の私の耳にも、奇妙なのに親しみやすい音楽に聴こえたということである。だからここにはおそらく、音楽データベースの共有やポップ・ミュージックの汎用性を超えた普遍性のようなものが存在している。

6 微妙な反感の芽生え

とはいえ、彼の考察は実感に基づいたものであり、と同時にそこにはすでに微妙な反感も芽吹いていた。

 欧米のポップ・ミュージックは、ラジオやレコードを通じて、世界中に行き渡りました。もともとは欧米のものだったわけですが、それが資本主義的な商品として世界中にばらまかれ、ロンドンの聴衆も細野さんや幸宏も同じものを聴いて育つ、という状況が生まれていた。ポップスはもう、欧米だけのものでなくなっていたわけです。(同)

 「文化の違う人にも「わかる」音楽というのはつまり、どこの市場でも理解される商品だということですから、資本主義の仕組みに乗っかれば、世界中で受け入れられる可能性がある、ということになります」(同前)。実際にYMOは、そして坂本龍一は、そうなっていくわけだが、この時の彼は、自分の音楽が「市場」で売り買いされる「資本主義的」な「商品」であるという意識はまだ希薄だった。“アブ”時代の彼は自分の労働の対価として報酬を得ていただけだったし(それも資本主義的な行為ではあるが)、彼自身の初めての「商品」だった『千のナイフ』もほとんど売れなかったのだから。そして彼は、さしあたりそれでいいと思っていたのだ。だが、YMOの商業的な、資本主義的な成功が、すべてを変えてしまった。

 ご存じのとおり、自動車やテレビに関しても、そのころ同じようなことが起こっていました。日本から自動車が来て、テレビが来た、次はソフトウェアを、という日本文化待望論のようなものが、西側にはあったんだと思います。一方日本側にも、自国のものが世界で評価されることへの、ナショナリスティックな待望があったと思う。

 ぼくは、自分たちがその流れに乗って、役割を演じているように感じ始めていました。ささやかな規模ではあるけれど、日本を背負っているみたいな感じすらした。 そして、それがすごくいやだった。ロンドンの聴衆に訴えかけることができたという喜びの反面には、そういう違和感があった。

 ロンドンで、夏目漱石のことを考えたりもしました。 日本を代表してロンドンに来て英語の勉強をして、2年ほど悶々として帰って行った漱石はどんな気持ちだったのだろう、と。漱石と自分を重ね合わせるのは大げさですが、国を背負っているような息苦しさを、ぼくも確かに感じていた。

 使命感みたいなものはなかったと思います。もちろん、自分に対する使命感、YMOや音楽に対する使命感はありますが、日本に対する使命感は感じなかった。いや、 実際たぶん感じていたんでしょうが、できるだけ感じないように努めていた。精神的に複雑な調節をしていたんだと思います。(『音楽は自由にする』)

7 大ヒットの戸惑い

 YMOのセカンド・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は日本国内でのセールスが100万枚を超える大ヒットとなった。だが、なんとA&Mホライゾンが倒産してしまったため、海外リリースはその時点ではなされなかった(のちにイギリスとアメリカで発売)。「テクノポリス」と「ライディーン」という超有名曲を含む、YMOの代表作である。全8曲収録で、「テクノポリス」「キャスタリア」「ビハインド・ザ・マスク」が坂本龍一、「アブソリュート・エゴ・ダンス」「インソムニア」が細野晴臣、「ライディーン」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が高橋幸宏の作曲、加えてビートルズの「デイ・トリッパー」のカヴァーも入っている。

 「テクノポリス」は坂本龍一がとにかく売れる曲を、と狙って書いた曲で、実際に大ヒットした。当時、人気絶頂だったピンクレディーの「ウォンテッド」(作曲は都倉俊一)をYMOはライブでカヴァーしていたが、ピンクレディーや筒美京平などの流行歌、歌謡曲をYMO的に解釈、再構成する企図もあったという。軽快なテンポのシンプルな曲ながら、凝ったベースラインと無機質なヴォコーダーの組み合わせが、きらびやかなシンセの音色と見事なコントラストをなしている。「T・E・C・H・N・O・P・O・L・I・S TOKIO」の繰り返しは印象的だ。「TOKYO」ではなく「TOKIO」というフレーズ(私は外国人が「TOKYO」をそう発音しているということだと思っていたのだが、駅のアナウンスで「トーキョー」が「トキオ」に聞こえるということだったらしい)は、1980年1月1日にリリースされる沢田研二のシングル「TOKIO」(作詞は糸井重里)に引き継がれることになる。東京は、世界で最も豊かで進んだ都市のひとつになりつつあった。

 「キャスタリア」は、「テクノポリス」とは打って変わってスローテンポのダークな曲。坂本龍一はアコースティック・ピアノを弾いている。もともとの曲名は「サスペリア」(ダリオ・アルジェント監督の1977年公開の映画タイトル)だったそうだが、シンセサイザーの扱い方に同作で音楽を担当したイタリアのプログレッシヴ・ロック・バンド、ゴブリンの影響が感じられなくもない。確かに、どこか不穏な、ホラー的な空気の感じられる曲である。

 「ビハインド・ザ・マスク」は、YMOの最初のライヴから演奏されていた曲である(もともとはセイコーのCM用に坂本龍一が作った曲を発展させたもの)。作詞はクリス・モズデル。シンセサイザーのリフレインとヴォコーダーの淡々とした歌が交互に出てくる、雄大だがどこか憂いの感じられる曲で、坂本龍一はアメリカでの受けが非常に良かったと語っている。のちにマイケル・ジャクソンがアルバム『スリラー』(1982年)のために歌詞とメロディに一部改変を加えたカヴァー・ヴァージョンを録音したが、契約上のトラブルで収録されず、当時マイケルのサポート・キーボーディストを務めていたグレッグ・フィリンゲインズのアルバム『パルス』(1984年)に収録、やはりフィリンゲインズがサポート・メンバーだった関係で、エリック・クラプトンのアルバム『オーガスト』(1986年)にも同ヴァージョンが収録されることになる。数奇な運命を辿った曲である。

 「ライディーン」と「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」で、高橋幸宏のポップ・センスは全面開花した。雷神という曲名にふさわしくヒロイックでゴージャスな「ライディーン」は、突き抜けた明るさとスケールの大きさがアルバムの中でも際立っている。「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」には、前作にはほぼなかった同時代のニューウェーヴとの共振が感じられる。アメリカのオハイオ州アクロンで結成されたディーヴォ(DEVO)もそのひとつで、『イエロー・マジック・オーケストラ』発売の3カ月前、1978年8月にリリースされたディーヴォのファースト・アルバム『頽廃的美学論(Q:Are We Not Men? A:We Are Devo!)』に収録されているローリング・ストーンズの「サティスファクション」のカヴァーをYMOはライヴで再カヴァーしており、同様にニューウェーヴ的なスタイルで「デイ・トリッパー」をカヴァーした。「デイ・トリッパー」と「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」では高橋のヴォーカル・スタイルも明らかに変化している。この二曲には、YMOと同じアルファ・レコードに移籍してまもないシーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠がギターで参加している。

 ファースト・アルバムでは4曲を作曲していた細野晴臣は、このアルバムではプロデューサー的な役割が強い。「アブソリュート・エゴ・ダンス」はタイトル通りのダンサブルな曲だが、沖縄民謡風の合いの手が入るオリエンタルなメロディーが面白い。もう一曲の「インソムニア」では細野がヴォーカルも取っている。実際にこの時期、細野は不眠症=インソムニアだったという。この曲が持つ不安神経症的なアトモスフィアは、YMOの後のアルバム『BGM』『テクノデリック』(ともに1981年)の細野の曲や、YMO休止期間の1982年にリリースされる細野のソロ・アルバム『フィルハーモニー』に繋がっていく。

8 「イエロー・マジック」との闘い

 デビューから一年足らずにして、YMOは時代の寵児になった。それはメンバー全員にとって思いも寄らないことであったに違いない。特に坂本龍一の戸惑いは大きかった。喜びや嬉しさよりも、こんなはずではなかったという思いの方が強かった。だが、もうすでに後戻りはできなくなっていた。

 海外でウケたらしいということで、それまでYMOのことを知らなかったような人たちにも、一気に知られるようになった。社会現象とまで言われました。ぼくはそれまで「無名でいたい、前に出たくない」と思って生きてきたのに、気がついてみれば、道を歩いているだけで指を差されるような人間になっていた。それはまったく予想外のことで、本当に困りました。ほとんど部屋から出ず、人目を避けて閉じこもる生活になってしまった。食事のためにこそこそと外出すると、高校生に見つかって「あ、 坂本だ」なんて言われて、マンションに逃げ帰ったり。そういう状況を、ぼくは憎悪するようになりました。とにかくほっといてほしい、心からそう思いました。(『音楽は自由にする』)

 だが、世間はほっといてはくれなかった。YMOはメディアで引っ張りだこになり、テレビ番組やCMにも盛んに起用されるようになった。自分が望んでいたのは、こんな状態だったのか、という疑念が坂本龍一の内にむくむくと育っていったが、いきなり放り出してしまうわけにもいかず、もはや腹を括る以外はなかった。1980年2月にはグリーク・シアターでの海外初ライヴと「トランス・アトランティック・ツアー」での演奏から編集されたライヴ盤『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』が発売され、人気に拍車を掛けた。「誰が考えたタイトルかは覚えていないんですが、まさに当時のぼくのためにあるような言葉ですね」(同)と坂本龍一は述べている。

 状況への憎悪は、やがてYMOへの憎悪につながっていきました。「俺はこんなつもりじゃなかった、YMOが俺をこんなふうにした」と。(同)

 坂本龍一はYMOの3分の1でありながら、いうなれば「イエロー・マジック」と闘わなくてはならなくなった。外から求められることと、彼自身が進みたい方向の乖離は、あっという間に広がっていった。だが、ここにはもっと複雑な、ある意味では坂本龍一という一個人に留まらない重要な問題が顔を覗かせていると私には思われる。すなわちそれは「イエロー・マジックとは何か?」という問題である。「伝説のこたつ集会」で細野晴臣が坂本龍一と高橋幸宏にイエロー・マジック・オーケストラ構想を話した時、そこには「富士山が爆発している絵」が添えられていたという。それはいったい何なのか? 

 坂本龍一を苦しめた葛藤の本質とは何だったのか? 次回はこの点について考察してみることにしたい。

 

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