「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第7回 「イエロー・マジック」との闘い(その2)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第7回の公開です! 

1 フュージョンの洗礼

 まず、フュージョンについて考えてみなくてはならない。

 YMOの世界進出のきっかけとなったイベントの名称は「フュージョン・フェスティバル」だった。そこに出演するためにアメリカからやってきたニール・ラーセンはジャズ/フュージョン系のキーボーディストであり、ラーセンとともに来日したトミー・リピューマもフュージョンにカテゴライズされるアーティストを数多く手がけてきたプロデューサーだった。フュージョンとは「融合」という意味だが、ジャズをベースに、ロックやポップス、イージー・リスニング、ディスコ、ラテン、レゲエなど多彩な要素を融合させた、基本的にはライトな音楽で、当時はクロスオーバーとも呼ばれていた。私見では60年代にジャズがフリーという難解な方向へ突き進んでいったことへの一種の揺り戻しとして(こういうことがポピュラー音楽史ではしばしば起きる。たとえばプログレッシヴ・ロックに対するパンク・ロックもある意味ではそうだ)、1970年前後からアメリカで流行り始めた。どうしてもリスナーにある種の作法や経験値を要求してしまうジャズよりも大衆に受け入れられやすいジャンルであり、ヒット作や人気ミュージシャンが次々と現れ、70年代に入ると日本においてもフュージョン系のミュージシャンが登場してきた。坂本龍一はまさにその時期に売れっ子キーボード奏者だったわけで、フュージョンの洗礼を受けるのは自然な流れだった。

 吉村栄一の『坂本龍一 音楽の歴史』には、1977年から坂本龍一がクロスオーバー=フュージョンに関心を抱き、当時寄稿していた雑誌『音楽全書』の記事の中で「恥ずかしいんだけどね、クロスオーバーっていうかね、つい買っちゃうんだよ、好きでもないのに」と告白し、その感覚を「毒を浴びる感じ」と表現していたと記されている。かなりひねくれた言い方だが、事実、この頃から彼は高中正義や村上ポンタ秀一などフュージョン系のミュージシャンと盛んにセッションを重ねていった。『千のナイフ』のディレクター斎藤有弘との出会いをもたらした渡辺香津美のアルバム『オリーブス・ステップ』のレコーディングは1977年6月なので、この頃には坂本龍一はポップスやフォークのミュージシャンのレコーディングに参加し、即興演奏のライヴを行いつつ、フュージョンの現場でも大活躍していたわけである(しかもこの年の3月まで、彼は東京藝大の大学院生だった)。

 前述したように、渡辺香津美は『千のナイフ』収録の2曲でギターを弾いているが、1979年6月にリリースされた渡辺のリーダー・アルバム『KYLYN』では、坂本龍一が共同プロデューサーとして全面的に参加している。「Kは香津美、Lは当時龍一の英文表記をLiuichiにしていたためにL、Nは仲間。それらの間のYはスペインでYを&の意味で使うということで、香津美&龍一&仲間」(『坂本龍一 音楽の歴史』)。渡辺香津美と坂本龍一のこの時の「仲間」は、矢野顕子、村上ポンタ秀一、小原礼、高橋幸宏、ペッカー、向井滋春、本多俊之、清水靖晃など、そうそうたる顔ぶれである。アルバム発売に先立ち渡辺はKYLYN名義で全国ツアーも行い、スケジュールの許す限り坂本龍一も参加した。ツアーでの音源を元にしたライヴ盤『KYLYN LIVE』もリリースされている。

 『KYLYN』の坂本龍一は実に伸び伸びとキーボードを弾きまくっている。録音時期がYMOの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』と完全に重なっているが、印象はまったく違い、こちらはまさにフュージョン然としたプレイである。同時期に渡辺香津美がシングルとしてリリースした「東京ジョー」(ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーの「TOKYO JOE」のカヴァー)は、坂本龍一がプロデュースとキーボードを担当、高橋幸宏がヴォーカルを取っている。渡辺はYMOのワールド・ツアーにもギタリストとして同行したが、渡辺が当時所属していた事務所の意向で、彼のプレイはライブアルバム『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』からは全面的にカットされてしまった(代わりに坂本龍一のシンセサイザーが追加録音されている)。

2 カクトウギ・セッションから生まれた秀作

 KYLYNのこの時のツアーから「カクトウギ・セッション」が誕生した。KYLYNの多士済々な演奏メンバーが「格闘技」よろしく様々な組み合わせで「競演」するという試みである。ちょうどこの頃、坂本龍一はCBSソニーからボサノヴァのアルバムをプロデュースしないかというオファーを受けていた。彼はカクトウギ・セッション=KYLYNで、その企画をやろうと思いつく。だが出来上がったアルバムはボサノヴァではなく、レゲエをベースとする作品になっていた(この時期の坂本龍一はボサよりもレゲエに関心があったのだ)。坂本龍一&カクトウギ・セッション名義のアルバム『Summer Nerves』である。リリースは1979年6月で、『KYLYN』とほぼ同時(4日違い)だった。

 『Summer Nerves』は非常に興味深いアルバムで、確かにレゲエのリズムを基調としてはいるが、90年代のJポップ(この頃はまだこの言葉はないが)接近期を彷彿とさせるタイトル曲や、シック(CHIC)のナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズがプロデュース/作詞作曲したシスター・スレッジの「YOU'RE FRIEND TO ME」のカヴァー、矢野顕子の作詞作曲で、のちにアルバム『愛がなくちゃね。』(1982年)にも収録される「スリープ・オン・マイ・ベイビー」、全日本プロレスで実際に使用された「カクトウギのテーマ」、安井かずみ作詞で沖縄民謡的な旋律の「タイム・トリップ」、大村憲司の長いギター・ソロが映えるトロピカル・フュージョン「スウィート・イリュージョン」(坂本龍一はのちに『スウィート・リベンジ』(1994年)というアルバムを発表する)、録音には参加していない細野晴臣の提供曲で、ムーディーでマジカルな「ニューロティアン・ネットワーク」と、ヴァラエティに富んだ内容で、純粋(?)にレゲエと呼べる曲は「ゴナ・ゴー・トゥ・アイ・コロニー」のみとなっている。むしろ坂本龍一がレゲエをアリバイに「仲間」を集めて当時興味があった音楽スタイルをやりまくった印象が強い。

 特筆すべきは、多くの曲で彼自身がヴォコーダーを通して歌っていることである。オープニングを飾る「サマー・ナーヴス」は訥々としながらも実に良い味を出しており、『B-2ユニット』(1980年)の名曲「Thatness and Thereness」やアルバム『左うでの夢』(1981年)でのヴォーカルを先取りしている。素肌に白ジャケットを着て、なぜか青のコルセットを首に巻き、黒のサングラスをかけてこんがり日焼けした坂本龍一が口を開けて笑っているという、いかにも能天気なジャケットに騙されて(?)しまいがちだが、『Summer Nerves』は『音楽図鑑』(1984年)の予告編と呼べなくもない秀作であり、ジャンルとしてのクロスオーバーとはまた別の、字義通りにクロスオーバーな坂本龍一の音楽的アンテナを鮮やかに示すアルバムとなっている。しかしそれにしても『千のナイフ』『イエロー・マジック・オーケストラ』『KYLYN』『Summer Nerves』『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』の5枚は一年足らずの間にリリースされているのだ。あらためて驚嘆の念を禁じ得ない。

3 YMOをフュージョン枠に入れる、という戦略

 すでに明らかなように、坂本龍一は文字通り、多種多様な音楽性の融合(フュージョン)や交差(クロスオーバー)を過剰なまでに欲望するタイプの音楽家であり、と同時にジャンルとしてのフュージョン/クロスオーバーにも足を踏み入れていた。だがそのことと、彼にとってのイエロー・マジック・オーケストラは「フュージョン」だったのか、という問題はまた別である。彼はYMOが「フュージョン・フェスティバル」に出演すること、すなわち広義の「フュージョン」という枠に入れられることには違和感を抱いていたのではないか。「恥ずかしい」し「好きでもない」し「毒を浴びる感じ」とさえ形容してみせたクロスオーバー=フュージョンと彼の距離感は複雑で微妙な矛盾を孕んだものだが、少なくともYMOが異色のフュージョン・グループとして、日本国内で、そして海外で受け入れられていくことには警戒感を持っていたに違いない。だがファースト・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』にはフュージョンと呼ばれるようなところが確かにあった。それはYMOのような音楽が、その時点では他に存在していなかったということも作用していただろう。アルファの川添象郎と村井邦彦が彼らを「フュージョン・フェスティバル」にブッキングしたのは、他に収まりどころがなかったがゆえの苦肉の策だった。そして実際、それは正解だったのである。

 YMOとは、細野晴臣にとっては、このあと述べるように自らの「トロピカル三部作」の発展形であり、高橋幸宏にとっては、それまでのドラマーとしての音楽的キャリアから華麗なる変身(!)を遂げる契機であり、そして坂本龍一にとっては、他ではやれないことがやれる新たなる実験の場であり、はじめての「バンド」だった。このような前例のない多面体であるYMOが収まるジャンルは、その時点ではフュージョンしかなかったのだ。ジャンル分けなどどうでもいい、という考え方もあるだろう。とはいえフュージョンは当時勢いのあった新しいジャンルであり、YMOをそこに入れるのは賢明な戦略だった。だが、特に坂本龍一と高橋幸宏はYMOがフュージョンのバンドにされてしまうことには抵抗した。『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』はその結果である。他の何にも似ていないがゆえにフュージョンと呼ぶしかない、という状況があまり変わっていない(何しろまだデビューして1年も経っていなかった)なかで、YMOはむしろ、イギリスを中心に欧米の音楽シーンで勃興していたポストパンク~ニューウェーヴへのシンパシーを表明した。

 吉村栄一の『坂本龍一 音楽の歴史』によると、坂本龍一はファースト・アルバム発売後、YMOの音楽を「エレクトロニク・パンク」や「エレクトリック・パンク&ファンクのテクノポップ」と称していたという。パンクとフュージョンは、ほとんど相容れないと言えるほど異なった音楽である。YMOは、そのどちらにも向かえるような音楽性を備えていた。だが結局、彼らが選んだのは、そのどちらでもない「テクノポップ」という解だった。坂本龍一が言っていた「エレクトロニク・パンク」等は、実質的には「ニューウェーヴ」とほぼ同じ意味だと考えられる。実際、その後の日本においてテクノポップは、欧米におけるニューウェーヴの同義語として使用されていくことになる。

4 細野晴臣の「イエロー・マジック」、再考

 さて、ここでようやく「イエロー・マジック」を語ることができる。つまり、歴史の悪戯というか、たまたまフュージョンとパンク~ニューウェーヴが重なり合った時代(フュージョンからニューウェーヴへの転換期と言ってもよい)である70年代の終わりに、細野晴臣という天才肌の音楽家が、「白魔術(白人音楽)」でも「黒魔術(ブラック・ミュージック)」でもない「黄魔術(黄色人種=アジア人のポップ・ミュージック)」というコンセプトを実体化しようと考えた、ということである。『イエロー・マジック・オーケストラ』発売のちょうど3年前に当たる1975年11月25日にリリースされたティン・パン・アレーのアルバム『キャラメル・ママ』に「イエロー・マジック・カーニバル」という曲が収録されている。作詞作曲編曲は細野晴臣である。この時点で細野の頭には「イエロー・マジック」というアイデアが芽吹いていたと言えるだろう。それは「トロピカル三部作」を通して練り上げられてゆき、「富士山爆発」と「400万枚」とともに「イエロー・マジック」・オーケストラに結実する。

 では、それはいったい何なのか? 私は以前『ニッポンの音楽』(2014年/増補決定版2022年)でこの点を考察したことがある。詳しくは同書を参照してほしいが、以下、拙著の論述を適宜再利用&アップデートしつつ、細野の「黄色いマジック」についてあらためて考えてみることにしたい。

5 マーティン・デニーの「エキゾチカ」

 細野晴臣の「イエロー・マジック」の発想源(のひとつ)であり、そのカバー曲で「400万枚」を売り上げるという野望をかき立て、実際に『イエロー・マジック・オーケストラ』でカバー・ヴァージョンが収録された「ファイヤークラッカー」の作曲者であるマーティン・デニーは、「エキゾチカ」といわれる音楽の代表的存在である。デニーは作曲家・アレンジャー・バンドマスターとして、数々の「南国」的な音楽を作曲して一世を風靡した。エキゾチカというキーワードはデニーのファースト・アルバムのタイトルだが、デニーはもとより、そこに参加していたアーサー・ライマンやレス・バクスターなど、エキゾチカと総称された音楽家たちが活躍したのは1950年代のことである。つまり細野晴臣がマーティン・デニー的なエキゾチカ/トロピカルを自分なりにやってみようと思いついた時、そのジャンルの隆盛期からはすでに20年もの月日が経過していたのだ。

 この点については、北中正和との次のやりとりが興味深い。

――日本では戦後、主としてアメリカを経由していろんな音楽なり文化なりをたくさん吸収してきたわけでしょう。細野さんの場合、例えばハリウッドのエキゾチックな映画の影響であるとか、マーティン・デニーにしてもけっこう古いものですよね。それが消化されて出てくるまでに二十年近くかかってるわけですね。

細野 たまたま僕がやったにすぎないわけで、べつに誰もやらなくてもいいわけですよ、そっとしといても(笑)。でも、そうやって誰かを揺り動かしていく力がマーティン・デニーにはあったんでしょうね。(中略)そうやって僕がやらなかったら誰かがやってるだろうし。例えばもっと大きな単位になると、古典なんかもそうやって突然よみがえったりするわけですよね。エリック・サティのように。だから音楽というのはタイムマシンみたいなもので、ある時代に向けてのメッセージがあったりするんじゃないかなと思ったりね。その時代にべつに反響しなくたって全然構わないという気持になりますよね。(『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』)

 同じインタビューで、細野はある「精神的な危機」を告白している。いわゆるドラッグ体験・マリファナ体験である。それ以前にも試したことはあったが、さほどハマりはしなかった。だが、はっぴいえんどの解散後、あるミュージシャン(名前は伏せられている)のレコーディングやツアーに参加していた時、その人物が非常にドラッグ好きで、それをきっかけにまたやるようになってしまった。好奇心が強く、快楽主義者を自認していた細野は、そういう類いはまず試してみる人間だった。ある時、オーバードーズに近い状態になり、激しいパニックに陥った。その後は何もしなくてもフラッシュバックが生じるようになってしまった。

細野 (前略)そんなふうに混沌としていたのが、ある時期、急に克服できちゃったんです。三日おきぐらいに続いていた症状がなくなって、今度は突然ハイになっちゃったんです。チャイニーズ・エレガンスとかトロピカルとか、キーワードを見つけて、自分がやりたいことがわあっとふくらんだときにハイになっちゃった。そういうプロセスの中で、『TROPICAL DANDY』に入っていったんです。

――ある種、躁鬱症みたいなものですか。

細野 違いますね、神経症ですね。いまの自分の重要な節目なんです。あの日のショックというのは。それが治って、ナチュラル・ハイというのを、その後、一年以上経験して。(中略)聴く音楽が変わってきて、とんでもない音楽を聴き出すわけです。それがマーティン・デニーだったりするんです。(同)

6 「ここではないどこか」「今ではないいつか」の音楽

 マーティン・デニーの音楽を実際に耳にして思い出したのではなく、ドラッグの過剰摂取の後遺症から恢復する過程で、記憶の奥底からデニーがふと立ち現れてきた、というのである。そもそもエキゾチカと呼ばれる音楽は、南島・南国の音楽、具体的にはハワイなどをイメージしていたわけだが、アーサー・ライマンのようにハワイ出身の人もいるものの、マーティン・デニーはニューヨーク生まれであり、南国生まれでもなければ、長く住んだわけでも、現地の音楽を調査したわけでもなかった。要するにエキゾチカとは、本物の南の音楽ではなく、空想上のエキゾチックな風景のBGMとして人工的に仮構されたものだったのである。そのような音楽に細野晴臣はインスパイアされて「トロピカル三部作」を作ったのだった。

 これは実際に南の島に出向いて、生の演奏を聴いたり現地のミュージシャンと触れ合う、などといったワールドミュージック的アプローチとは全く違う。現地に行ったことはあったかもしれないが、細野の「トロピカル」は、エキゾチカと呼ばれた音楽がそうであったように、まず何よりも想像された音楽、夢見られた音楽なのであり、真に南国の音楽であるのかどうかはほとんど重要ではなかった。細野が志向したのは、空間的には「ここではないどこか」、時間的には「今ではないいつか」だったのである。「トロピカル三部作」にはマーティン・デニー的なエキゾチカの他にも、沖縄やカリブ海、中国、かつての古き良き日本など、非西欧音楽の要素が大量に投入されている。だがそれらはフィールドワークに基づいた民族学的・文化人類学的な観点に立ったものというより、いうなればファンタジー的な世界なのである。だから一曲の内に複数の場所性や時間軸を混在させることも自由自在となる。細野は実際、そういうことを「トロピカル三部作」で色々と実験している。

 エキゾチカは、ムード・ミュージック、ラウンジ・ミュージック、イージーリスニング等と呼ばれているジャンルの一種である。こうしたジャンルが登場した50年代には、エキゾチカと並行して「スペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージック(宇宙時代の独身貴族の音楽)」などと呼ばれる音楽も流行した。ペリー・アンド・キングスレー、ディック・ハイマン、エスキヴェルなどが有名だが、彼らは宇宙や未来をテーマとして、エキゾチカと同様、非常に聴きやすく心地良い音楽を創り出した。エキゾチカもスペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージックも、「ここではないどこか」「今ではないいつか」の音楽であることに変わりはない。50年代は、冷戦を背景にアメリカとソ連の宇宙開発競争が熾烈を極めていった時期である。エキゾチカとは、アメリカの一般大衆が、わざわざ海外旅行に行くことなく異境を疑似体験するための音楽だった。実際に訪れるのは大変だったり不可能だったりするが、想像することは可能な場所という意味で、南島と宇宙は似たようなものだったのである。

 細野晴臣は立教大学の社会学部観光学科卒であり、のちに中沢新一との共著『観光』も出すことになる。「観光」というキーワードは、音楽に対する細野の基本姿勢を端的に言い表している。たとえ現地に行けたとしても、調査や研究といった客観的なアプローチではなく、かといって没入や同化とも異なる、外からふらりとやってきて、興味の向くままにあちこち見聞して、また去っていく「観光客」としての視線で、その場所の音楽を取り入れること、あるいは一度も現地には行かず、想像力と妄想力だけを頼りに、視聴覚的なイメージを動員して、未知なる場所の音楽を創り上げること。細野晴臣のこのようなスタンスが、「トロピカル三部作」を経て、YMOに繋がることになる。

7 海の向こうから見たニッポン、という視角

 だが、そこで細野が考えたのは「トロピカル三部作」とは逆の戦略だった。つまり、日本から見た(想像した)異郷ではなく、海の向こうから見た(想像した)ニッポンをテーマにしようと思いついたのである。極東の島国である日本、小さな国土に1億人を超える黄色い肌(そもそも黄色人種の肌は「黄色」ではないのだが)人間がひしめいており、敗戦後30年でアメリカに迫るほどの経済大国に成長した、魔法のごときテクノロジーの国ニッポン。日本のことをほとんど何も知らない西欧世界の人間からしたら、そこは南島のパラダイスと同様、ほとんど神秘的な世界に映ることだろう。当然ながら、さまざまな誤解や誤認、思い込みや偏見なども生じているに違いない。もちろんインターネットはまだ影も形もなく、情報自体が極度に限られていた。西欧人の頭の中で、日本と日本人については紋切型のイメージしか存在していなかった。そう、フジヤマ、ゲイシャ、である(もうひとつは「ハラキリ」だが、ここでは関係がない)。

 こうして「富士山爆発」というコンセプトが登場する。富士山は活火山なので縁起でもない話なのだが、西欧人にとってのニッポンのイメージの象徴であるフジヤマを爆発させるということだろう。紋切型それ自体を起爆剤としてエクスプロージョンを起こしてみせようということだ。細野晴臣が最初の段階でどこまで考えていたのかわからないが、『象の記憶』の川添象郎が述べていた「アメリカ人が日本人に対して抱いている典型的なイメージを逆手にとって日本のアイデンティティとして表現しよう」ということである。ゲイシャについても同様で、彫刻家・造形作家の脇田愛二郎が手掛けたアルファ(オリジナル)版と違って、ルー・ビーチが描いたイラストレーションをあしらったUS版では、キモノを着て扇子を持ち、サングラスをかけて頭部が色とりどりのケーブルに散開したゲイシャ(しかもおそらく西欧人)、いわゆる「電線芸者」となっている。さすがに「富士山爆発」をアートワークにするわけにはいかなかったのだろうが、日本の外の、日本を知らない人々の「ニッポン」にかんする紋切型のイメージを修正するのではなく、むしろキッチュに誇張=増幅してみせることこそが、YMOの海外戦略の核心であった。

 この点で興味深いのが、初期のYMOのステージ衣装であり、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のアルバム・ジャケットでメンバー(と西欧人風のマネキン2体)が着ている、いわゆる「赤い人民服」である。それから頭髪の刈り上げ、いわゆる「テクノカット」。高橋幸宏のデザインによるコスチュームは、明治期のスキー服をイメージしたものだったというが、どう見ても中国の人民服に見える。すでに述べたように、そもそも坂本龍一は毛沢東と中国共産党へのシンパシーを以前から表明していた。刈り上げた短髪も、いかにも中国風である。だが、もちろん彼らは中国人ではなく、日本人である。これはどういうことなのか? 西欧世界から見たら、日本も中国もほとんど区別がつくまい、ということだろう(断っておくが、これは70年代の話である)。YMOは「中国人のふり」をしたのではなく、「アジア(人)」に対する極めてアバウトな西欧人のイメージを確信犯的に身にまとってみせたのだ。言うまでもなく、これは非常にアイロニカルな態度である。だが重要なポイントは、正確でもなければ差異化もできていない「ニッポン/アジア」のイメージが、単に異質で奇妙なだけでなく、オシャレなもの、カッコ良いものとして西欧の視線に捉えられつつあった、ということなのである。

 当時は、ファッションの世界でも、日本のデザイナーが海外に出て活躍するようになっていました。イッセイミヤケ、ケンゾー、コム・デ・ギャルソン、ヨウジヤマモト、カンサイ。日本文化の尖兵という感じですね。彼らもYMOと同じようなものを背負っていたのかもしれない。

 ツアーの時にどんな格好をしていたか、ぼくはあんまり覚えていないんですが、写真を見ると、あの赤い人民服を着ていたんですね。衣裳のことは幸宏にお任せという感じで、もう言われるがままでした。なにしろ、ぼくはずっとジーパンにゴム草履の人で、ファッションのことなんて全然わかりませんでしたから。(『音楽は自由にする』)

 日本で海外渡航が自由化されたのは1964年、70年代に入ると高度経済成長の波に乗って日本人はパック・ツアーで海外旅行に出かけるようになった。その時点の「日本人」のイメージは、いやイメージではなく実際にもそうだったのだろうが、地味なスーツ姿にネクタイ、眼鏡、首からコンパクトカメラを下げ、やたらとお辞儀をして、すぐに名刺を差し出す、といったものであった。だが、80年代を目前にして、それは急激にクールでスタイリッシュなものへと変化しつつあった。YMOは極めて絶妙なタイミングで登場したのである(YMOが80年代前半に出演した富士フイルムのカセットテープのCMでは、一時代前の「日本人」に扮していたが)。

8 テクノロジーの国ニッポンのポップ・ミュージック

 もうひとつのポイントは、言うまでもなくテクノロジーである。細野晴臣の「トロピカル三部作」とYMOの決定的な違いは、ここにある。「テクノ・ポップ」とは、「テクノロジーによるポップ」ということだ。あるいはそれは、テクノロジーそのものが持つポップネスを追求する音楽ということだったのかもしれない。70年代後半以降、シンセサイザーなどの電子楽器は、それまでの大型で重量感のあるものから、高性能かつダウンサイズされた機種へと変化していった。ローランド、AKAI、KORGなど、電子楽器メーカーは日本企業が多い。『イエロー・マジック・オーケストラ』制作時にはローランドのリズムマシンTR-808(いわゆる「やおや」)はまだ発売されていなかったが、前段階の機種がローランドから提供されていたし、当時最先端のシークエンサーの初期モデルも使用されていた。ライヴでは松武秀樹がプログラミングしたコンピュータで電子音と生演奏をシンクロさせることも行われていた。当時、シンセサイザーを操る音楽家は、松武の師匠だった冨田勲のほか、ヴァンゲリス、喜多郎などすでに何人も存在していたが、YMOのモデルとなったのは何よりもクラフトワークだろう。シンセの巨匠たちとクラフトワークの違いは、ビートの導入である(クラフトワークも最初期はビートレスだったが)。テクノ・ポップというキーワードを構成する二つの単語、テクノロジーとポップは、どちらが欠けてもいけない。これはYMOと『千のナイフ』の違いでもあるだろう。

 『イエロー・マジック・オーケストラ』には2曲の「コンピューター・ゲームのテーマ」が収録されていた。 「“サーカスのテーマ”」と「“インベーダーのテーマ”」である。サーカスは、アメリカのアーケード・ゲーム業界最大手のひとつだったエキシディ(Exidy)社が1977年に発売した、いわゆる「ブロック崩し」ゲーム、スペースインベーダーは、東京に本社があるタイトーが1978年6月に発表し、あっという間に世界的ブームとなった大ヒットゲームである。チープなピコピコ音が妙に耳に残るこれら人気ゲームのサウンドを、YMOは自分たちの機材で再現した(サンプリングではない)。音楽グループのデビュー作にコンピューター・ゲームの音のカヴァー(?)が入っているのは当然ながら前例のないことだった。それは日本でも海外でもユニークで斬新な試みとして受け止められたのである。

 テクノロジーの国ニッポンの最新テクノロジーによるニッポンの最新ポップ・ミュージック、それがYMOの音楽なのであり、それは「音楽」だけでなく、YMOというバンドをも海外に向けて戦略的に(つまり文化輸出的に、マーケティング的に、ということである)打ち出した意匠でもあった。

9 「イエロー・マジック」の正体

『ニッポンの音楽』ではそれを、テクノロジー=最新技術(繰り返すが、それは「音楽」の範疇に留まるものではないし、いわゆる科学/工業技術のことだけでもない)を搭載したジャポニズム=オリエンタリズムの逆利用、すなわち「テクノ・オリエンタリズム」と呼んでおいた。テクノ・オリエンタリズムこそ「イエロー・マジック」である。いうなればそれは、1970年代末から80年代初頭における、国際社会での日本のポジショニングを端的に表すワードだった。まずは経済的に、そして文化的に、日本人の「黄魔術」は現実に世界を席巻しつつあったのである。「イエロー・マジック」とは、自虐と自尊が複雑に絡み合ったパラドキシカルなワードだった。細野晴臣が考えたコンセプトは、はからずも(なのかどうかもわからないが)彼らのバンドを「日本」、正確に言えば「世界から見た日本」の象徴として機能させることになったのである。以下は『ニッポンの音楽』より(一部を編集、改稿した)。

 テクノ・オリエンタリズムは、YMOの音楽にも刻印されています。特に最初の2枚のアルバムで中心となっている曲、「東風」や「中国女」、それから「テクノポリス」と「ライディーン」、あるいは「Behind The Mask」といった名曲の数々は、サウンドは電子音が中心ですが、メロディラインは極めてオリエンタルです。それは日本的な旋律というよりも、もっと汎アジア的というか、大陸的な雰囲気を持っています。メンバー三人の作曲ごとにみると、こうした傾向が最も強く、おそらく最も意識的に行っているのは、明らかに坂本龍一です(逆に細野の曲には、実はあまりそういう要素はありません)。坂本のソロ作『千のナイフ』には、すでにこの路線の曲が入っていました。

 最新テクノロジーを駆使した電子的なサウンドに、西洋音楽とはかなり違ったオリエンタルなメロディが載っているのが初期YMOの音楽スタイルです。ヴィジュアル面も含めた、このようなテクノ・オリエンタリズムが、彼らがA&Mのトミー・リピューマに見初められた最大の理由、アメリカで評価された勝因に違いありません。しかしここで問うておきたいのは、たとえばリピューマには、YMOのメロディが、いわゆる日本的なものとも実は相当に違っているということが、果たしてわかったのだろうか、ということです。少なくとも最初は、西欧人であるリピューマの耳には、日本風も大陸(中国)風も、ほとんど区別がつかなかったのではないか。それは『イエロー・マジック・オーケストラ』のUS盤を聴いた多くの欧米のリスナーにとっても同様だったでしょう。しかしそれで何ら問題はなかったわけです。たとえ外国からのオリエンタリズム的な視線に何らかの誤解があったとしても、ともかくYMOはニッポンからやってきたユニークな音楽グループとして認知された。それは、アジアに冠たるテクノロジーの国として台頭しつつあった、当時の日本のイメージそのものとして、彼らが受け入れられたからです。ゲーム音楽が入っていることも、無論そのことに寄与していました。そして、海外における評判がフィードバックして、日本での人気に火を点けることになった。オリエンタリズムは外部からの視線によって生成されるものですが、そこに当然のごとく潜在する誤差や歪曲をも利用するような形で、YMOは日本の音楽史上、最初に成功した逆輸入型の音楽グループになったわけです。(『ニッポンの音楽』)

10 「反・YMO」の狼煙

 ファースト・アルバムが出た時点では評価も売り上げも芳しくなかったYMOは、アメリカでのライヴの成功を伝えられると、にわかに国内で大きな話題になり、猛烈な勢いで売れ始めた。同じく坂本龍一の『千のナイフ』も、リリース当初の不振が嘘のように売れ出した。すでに記したように、セカンド・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』はオリコン・チャートで1位を記録する。坂本龍一の人生は激変した(もちろん細野晴臣と高橋幸宏も)。有名になることの弊害と、多忙であることの消耗が、一挙に彼に訪れた。そして前回の最後に記した「状況への憎悪」が彼の内に湧き上がってきたわけである。

 だが、このことは指摘しておかねばならない。拙著からの先の引用でも書いたように、もともとは細野晴臣が生み出したコンセプトであるイエロー・マジック=テクノ・オリエンタリズムを、楽曲レベルで、YMOの三人の中でもっとも見事に表現してみせたのは、坂本龍一だったのだ。これは間違いない。それどころか、テクノ・オリエンタリズムとは、細野晴臣よりも、高橋幸宏よりも、そしてイエロー・マジック・オーケストラよりも、他ならぬ坂本龍一という音楽家の或る側面を明確に表した言葉ではなかろうか。この資質、この才能こそが、彼を「世界のサカモト」へと押し上げたのだ。それが、無意識の為せる業だったのか、それとも設問に対する最適解の導出、課題に対する対応力の高さゆえのものだったのかはよくわからない。おそらくその両方だろう。しかし、ここで何よりも重要だと思われるのは、坂本龍一自身が、この結果にある種の違和感を、もっと言えばいくばくかの嫌悪感を抱いたということなのである。YMOの大成功はイエロー・マジックの勝利だった。そしてそれは彼の勝利でもあった。しかしそれは、誇らしく喜ばしい勝利であると同時に、苦い勝利でもあったのではないか。音楽活動とは別に日々の生活においても、いろいろな支障や不満が生じていた。「俺はこんなつもりじゃなかった、YMOが俺をこんなふうにした」と坂本龍一は思い悩むようになった。1980年2月にライヴ・アルバム『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』がリリースされると、人気はますます加熱した。この年の4月からYMOは、初めての国内ツアーを行った。その終了後、坂本龍一は他の二人にバンドを脱退したいと申し出たが、当然のように慰留された。このことは当時報道もされている。

 坂本龍一はYMOの一員であり続けながら、「反・YMO」の狼煙を上げた。

 そんな時期に、ぼくは2枚目のソロ・アルバム『B-2ユニット』を作りました。数ヶ月の間、ほとんど誰とも会わずにこのアルバムを作った。溜まりに溜まった力を傾注して、YMOをいわば仮想敵にして作りました。ぼくはYMOをやりながら、アンチYMOをやっていたわけです。

 YMOにはできない過激なものを作ろう、ぼくはそう思いました。YMOがプラスなら俺はマイナスを、白なら黒を、正反対のことをやってやる。このアルバムは、そういうドロドロしたエネルギーに満ちていて、いま聴いても当時の感情が思い出せます。(『音楽は自由にする』)

 こうして坂本龍一が作った最も過激なアルバム『B-2ユニット』が誕生した。1980年9月のことである。

 

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