1 苦肉の策から生まれた『増殖』
1980年6月、イエロー・マジック・オーケストラは通算4枚目に当たるアルバム『増殖 - X∞ Multiplies』をリリースした。収録時間は30分弱、全12曲(トラック)収録だが、そのうちの5曲が後述する「SNAKEMAN SHOW」であり、イントロ/アウトロも加えると、純粋な楽曲は「NICE AGE」「TIGHTEN UP」「CITIZENS OF SCIENCE」「MULTIPLIES」の4曲に過ぎない。「TIGHTEN UP」はカヴァーなので新曲と呼べるのはたったの3曲である。それもそのはずで、「NICE AGE」と「CITIZENS OF SCIENCE」は、アメリカ発売のシングル用に録音されたがリリースが見送られた曲であり、この2曲を発展(増殖?)させるかたちで、ミニ・アルバムというべきこの作品が生まれたのではないか。人気絶頂でメディアに出ずっぱりのYMOにはフル・アルバムを制作する時間的/精神的余裕がなかった。ライヴ盤『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』から4カ月、スタジオ録音の前作『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』から1年も経っていなかったが、所属レコード会社のアルファは更なるリリースを求めていた。アルファ側の提案はライヴ・アルバムの続編だったが、YMOは首を縦に振らず、苦肉の策として、かなり変則的なこの「アルバム」が誕生したのだった。その鍵を握ったのが、スネークマン・ショーである。
スネークマンショーは、選曲家の桑原茂一とタレントの小林克也が結成したユニットで、最初はファッション・ブランド関連のBGMやCMを担当、70年代半ばから幾つかのラジオ番組を制作していたが、俳優の伊武雅刀(当時は伊武雅之)が加入した頃から、ユニークな音声コントを披露するようになった。細野晴臣と高橋幸宏が桑原と旧知の間柄であったことから、YMOとスネークマンショーのコラボレーションが実現した。『増殖』はオリコン・チャートで初登場1位を記録している。
YMOの曲の合間にスネークマンショーのショート・コントが挟み込まれる構成で、オリジナルのレコード(通常のLP=12インチ盤より小さい10インチ盤だった)の各面は、ほぼ曲間なしで繋がっている。
アルバムは、小林克也によるウルフマン・ジャックばりの英語のMCが乗ったジングルで幕を開ける。さながらラジオ番組の雰囲気である。そのまま最初の曲「NICE AGE」へ。作詞はクリス・モズデル(他の曲も)、作曲は高橋幸宏と坂本龍一。魅力的な粘りを帯びた高橋のヴォーカルが映えるポップな曲だが、途中で女性の声で「ニュース速報」が読み上げられる。実はこの曲は当初、来日したポール・マッカートニーとのセッションを予定していたが、彼が日本入国時にマリファナの不法所持で逮捕・拘留され、共演が不可能になってしまった。この曲で「ニュース」を読んでいるのはサディスティック・ミカ・バンドの福井ミカだが、彼女が「22番」と言っているのはポールの拘置所での番号だという。「SNAKEMAN SHOW」を挟んで「TIGHTEN UP」。アーチー・ベル&ザ・ドレルズが1968年にリリースしたヒット曲のカヴァーで、小林と伊武が声で参加している。副題の「Japanese Gentlemen Stand Up Please!」が連呼されることがポイント。原曲にはない、いかにもYMOらしいアイロニカルな要素が加わっている。細野晴臣のベース・ラインが素晴らしい。再び「SNAKEMAN SHOW」、続く「HERE WE GO AGAIN」は「TIGHTEN UP」のリプリーズ(繰り返し)で、ここでA面は終わる。B面は「SNAKEMAN SHOW」から始まり、コントがそのまま「CITIZENS OF SCIENCE」に連なる。軽快なテクノ・ブギで、こちらも高橋の色気のあるヴォーカルが印象的。作曲は坂本龍一である。そしてまた「SNAKEMAN SHOW」が挟まって、アルバム・タイトルでもある「MULTIPLIES」。ほぼ生演奏で、当時イギリスで流行していたジャマイカのスカとパンクが合体した2トーン(ザ・スペシャルズやマッドネスは日本でも人気があった)サウンドを演っている。イントロで映画『荒野の七人』のテーマをサンプリングしたことにクレームが付き、現在は「作曲エルマー・バーンスタイン、イエロー・マジック・オーケストラ」というクレジットになっている。またス「SNAKEMAN SHOW」が入って、坂本龍一の『千のナイフ』収録曲でYMOのライヴでもお馴染みだった「THE END OF ASIA」がやテンポダウンして奏でられ、このアルバムは終了する。
では、このアルバムのスネークマンショーのコントはどのようなものだったか? その一部にYMOの3人も加わった五つのコントは、一言でいうなら自嘲・自虐ネタのオンパレードである。「KDD(現在のKDDI)」「ミスター大平(当時の総理大臣だった大平正芳)」「林家万平(林家三平のパロディ)」など、今となっては説明が必要なネタが多いが、悪意さえ感じさせる冷笑的で強烈なブラック・ユーモアが全編を覆っている。そこには、先進国のトップグループに急激にのし上がりながらも国際的な認知も国内的な自覚も進んでいないニッポンとニッポン人を自ら嘲弄してみせるという、ひねくれたスタンスがあからさまに感じられる。経済的には発展しているのにある意味では遅れたままの国ニッポン。前にも触れたようにYMOは、富士フィルムのカセットテープのテレビCMで「海外の目から見た典型的な日本人」に扮してみせた。日本人のカリカチュアを日本人に見せるという倒錯的な振る舞いは、一種の逆輸入現象によってはからずも国内で大スターになってしまったYMOならではの自己批評的なものだった。この意味で『増殖』は極めて興味深い作品である。そこには1980年のYMOの鬱憤と焦燥と煩悶が、当時としては飛び抜けてハイセンスなパロディとギャグによる笑いを凍りつかせるほどの生々しさで刻みつけられている。
『増殖』への参加によってスネークマンショーの人気もうなぎ上りとなり、1981年には細野晴臣のプロデュースで、YMOの他、プラスチックスや加藤和彦、ムーンライダース、ドイツ出身のテクノ・アーティストのクラウス・ノミなどが参加したアルバム『SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー』(通称『急いで口で吸え』)をリリース、予想を超える好セールスを記録し、同年のうちにセカンド『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!』も発表、その後、方向性の違いから小林が脱退するなどして解散へと向かうが、桑原茂一は1982年に「ピテカントロプス・エレクトス」を原宿に開店、80年代ニューウェーブ・シーンの震源地となった他、自身の事務所クラブキングを版元としてフリーペーパー「dictionary」を編集発行するなど、90年代以降も多彩な活躍を続けた。小林克也は英語力と音楽知識、そして魅力的な声を活かしてラジオやテレビのパーソナリティ/ナレーターとして活躍、伊武も俳優として数多くの作品に出演していくことになる。
2 短命に終わったパンク・ムーブメント
パンク・ロックの歴史は、米英のピンポン運動のような影響関係によって形成されている(むしろロックの歴史がそうなのだと言うべきかもしれないが)。1960年代半ばにイギリスのバンド/ミュージシャンがアメリカに次々と進出し成功を収めた現象をブリティッシュ・インヴェイジョン(英国の侵略)と呼ぶが(その前段階としてはもちろんビートルズの存在がある)、その中でもロックンロールの進化を推し進めたローリング・ストーンズやザ・フー、ヤードバーズなどの影響を受けながら、より荒削りなサウンドを志向したアメリカのバンド(ガレージ・ロックと呼ばれた)、特にMC5とストゥージズ(イギー・ポップ)が、パンク・ロックの始祖(プロトパンク)とされることが多い。70年代に入ると、ジョニー・サンダース率いるニューヨーク・ドールズが登場する。続いてテレヴィジョン、ラモーンズ、パティ・スミス、スーサイドなどが次々と現れた。ニューヨークにはヴェルヴェット・アンダーグラウンドもいた。
これらニューヨーク・パンクをイギリスに「輸入」することを思いついたのが、パンク・ロックの仕掛け人というべきマルコム・マクラーレンである。マクラーレンはファッション業界の出身で、当時のパートナーだったヴィヴィアン・ウエストウッドと「レット・イット・ロック」というブティックを、1971年にロンドンにオープンした。彼は思想的には『スペクタクルの社会』で知られるギー・ドゥボールらシチュアシオニスト・インターナショナルの影響を受けており、反体制的(左翼的)政治姿勢と商業主義が合体した極めて興味深い人物である。マクラーレンは、アメリカの最先端のファッション・シーンを知るために渡米した際にニューヨーク・パンクと出会い、ニューヨーク・ドールズのマネージャーになったが、バンドはほどなく解散してしまった。イギリスに帰国した彼は、ロンドンにある自分のブティックを「セックス」と改名し、NYの最新流行を取り入れたファッションにシフトチェンジ、店の常連だった不良少年たちがやっていたバンドを母体としてセックス・ピストルズを結成、マネージャーに就任する。ピストルズはライヴを重ねるごとに注目を集め、1976年に華々しくメジャー・デビュー、大旋風を巻き起こした。パンク・ムーヴメントはこうして始まった。
60年代末から70年代前半にかけてのイギリスのロック・シーンでは、ハード・ロックとプログレッシブ・ロックが二大ブームだった。両者はかなり違ったタイプの音楽だが、プレイヤーに高い演奏テクニックが求められるという点では共通していた。パンクはある意味で、楽曲的にも技術的にもあまりに高度になり過ぎてしまったロックに対する一種の揺り戻しとして理解することができる。ロックンロールの基本に立ち返り、3つぐらいコードが弾ければ、あとは初期衝動に突き動かされたパフォーマンスでなんとかなる、というものだったからである。
マクラーレンはセックス・ピストルズを、社会からはみ出し、富裕層/支配層に反抗意識を抱く若者たちのシンボルに仕立て上げようと画策した。ニューヨーク・パンクにもその要素はあったが、ロンドン・パンクはより明確に、音楽だけでなく、ファッションやアート、デザイン、ライフスタイルなどを巻き込んだ、総合的な文化現象だったと言える(のちのヒップホップも同様である)。セックス・ピストルズと、続いて登場したザ・クラッシュ、ダムド、ザ・ジャムなどのバンドは、その台風の目だった。
ところが、流行とはそういうものかもしれないが、パンク・ムーヴメントは1977年頃をピークにあっけなく終焉してしまう。その要因はひとつではなく、バンド・メンバーの不仲や個人の意識の変化などがまずは挙げられるだろうが、パンクがパンクであるということ自体が理由であったとも言える。つまりミュージシャン自身が、パンクのシンプルな音楽性に飽き足りなくなったということである。パンクはそれ以前のロックの高度化・高尚化に対するアマチュアリズムの顕揚だったわけだが、音楽を続けていれば楽器も少しずつ上手くなってくるし向上心も芽生えてくる。もちろんそうでない者もいただろうが、パンクには常に同じ地面でひたすらジャンプし続けることを求められる面があり、プログレッシブ・ロックへの反動であったことからもわかるように、「進歩/進化」とは真逆のベクトルを有していたがゆえに、そのような状態を強いられることを耐え難く思う者が出てきてもなんら不思議ではない。パンクの人気ミュージシャンたちは思いのほか早くその段階に達し、かくしてパンク・ムーヴメントは、今から思えば非常に短期間――長く見積もっても約3年――で終止符が打たれることとなった。
3 イギリスのポスト・パンク、アメリカのウーウェイブ
セックス・ピストルズのフロントマンで、パンク・ムーヴメントの立役者だったジョニー・ロットンはUSツアー中にバンドを脱退、ピストルズはそのまま解散、ロットンは本名のジョン・ライドンに戻って1978年にパブリック・イメージ・リミテッド(PIL)を結成し、ピストルズとは似ても似つかないアバンギャルドな音楽性へと向かった。ザ・クラッシュのジョー・ストラマーはバンドとして政治的に先鋭化し、音楽性も非西欧音楽的な方向へと大胆に拡張していった。ザ・ジャムは1982年まで活動を継続したが、リーダーのポール・ウェラーはバンド解散後、キーボーディストのミック・タルボットとザ・スタイル・カウンシルを結成、スタイリッシュでハイセンスな、お洒落なサウンドでジャム以上の人気を獲得する。このように、その歴史的な重要性や影響力とは裏腹に、パンクとは極めて短命な、イギリスの70年代後半に突然勃興して終息した現象/運動だったと言える。もちろん、音楽やファッションのスタイルとしてのパンクは、それ以降もイギリスに留まらず全世界のその時々の若者世代によって受け継がれていき、現在にまで至っているのだが。
ポスト・パンクという言葉がある。字義通り「パンク以後」ということであり、70年代末から80年代初頭のイギリスを中心とする一群の音楽を指す呼称である。たとえばセックス・ピストルズはパンクだが、PILはポスト・パンクである。いうなればそれは、パンク・スピリット(それがどのようなものであるのかも議論の余地はある)を保持しつつも音楽的な変化や革新を重視するということであり、数多くの注目すべきバンドが出現した。パンクの流行期から時間的距離が開くとともに、ポスト・パンクはニューウェーブと呼ばれるようになる。
同様の動きはイギリスだけでなく、ニューヨーク・パンク以後のNYでも起こっていた。70年代末には、先行バンドを踏まえつつ、よりラディカルでジャンルミックス的な音楽性を持った若いミュージシャンたちがシーンに登場してきた。ブライアン・イーノのプロデュースによる、新鋭バンドを4組集めたオムニバス・アルバム『NO NEW YORK』(1978年)はその代表的な作品である。収録されているのは、ジェームス・チャンスのザ・コントーションズ、リディア・ランチのティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス、アート・リンゼイとイクエ・モリがいたDNA、そしてマーズ。ニューヨークという都市の混沌とした空気、その速度と強度を圧縮したかのようなサウンドは「ノーウェイブ」と呼ばれた。イギリスのポスト・パンクとアメリカのノーウェイブはほぼ同時期に登場し、共通する音楽性や人脈的な関係もあるが、やはり違っている。それはロンドンとニューヨークという二つの都市の違いということだったのかもしれない。
4 心身ともに憔悴した坂本龍一のセルフ・セラピー
さて、前にも触れたように、坂本龍一はYMOのファースト・アルバム発売後のインタビューで、その音楽性を「エレクトロニク・パンク」や「エレクトリック・パンク&ファンクのテクノポップ」と呼んだ。だが、その時期のYMOには「フュージョン」や「クロスオーバー」と呼ばれ得る部分もあったことは前述の通りである。YMOのセカンド・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、いわばフュージョンからパンクへの重心移動だった。これも先に述べておいたように、日本においてはテクノポップが欧米のポスト・パンク~ニューウェーブに相当する。こうしたジャンル論やターミノロジー(用語論)は、ある意味ではナンセンスなものだが、しかしやはり重要である。「テクノポップ」という呼称が人口に膾炙したことによって生じた出来事や変化は間違いなく存在していたからである。
1980年9月21日、坂本龍一は2枚目のソロ・アルバム『B-2ユニット』をリリースした。『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』の1年後のことである。YMOは人気絶頂だった。3人のメンバーはそれ以前には体験したことのない多忙な日々を送っていた。坂本龍一は苦悩していた。急激に注目を浴びたせいでプライバシーが脅かされるようになったことや時間的な拘束のこともあったが、アイデンティティの問題、このままでは自分自身の「YMOの教授」とは別の部分を見失ってしまうのではないかという不安が彼を襲っていた。脱退を口にするようになり、心身ともに著しく憔悴した彼に、アルファレコードの川添象郎はソロ・アルバムを録音することを提案した。休暇ではなく更なる創作というところが凄いが、やりたい音楽を自由に演ってよいという条件に坂本龍一は心動かされた。『千のナイフ』に続くソロ・アルバムをほとんど無理やり作ったのは、一種のセルフ・セラピーの意味合いもあったと思われる。だが結果として『B-2ユニット』は、セラピーなどという言葉とは正反対の、おそろしくラディカルな作品になった。
5 ラディカルな作品『B-2ユニット』のキーパーソン
『B-2ユニット』にはキーパーソンと呼ぶべき存在がいる。坂本龍一とアルバムの共同プロデュースを務めた後藤美孝である。後藤は以前は芽瑠璃堂という吉祥寺の輸入レコード店の店員で、武蔵野タンポポ団などフォーク系ミュージシャンのバックで坂本龍一がピアノを弾いていた1974年からの知り合いだった。その後、パンク~ニューウェーブに傾倒した後藤は、自らPASSというインディペンデント・レーベルを興し、最初のリリースだったフリクションのシングルのプロデュースを坂本龍一に依頼した。フリクションは、70年代前半には音楽を含むマルチ・アート集団「○△□」の一員として活動していたレックが渡米してニューヨークに滞在(この時にノーウェイブの洗礼を受けている)、1978年に帰国して結成したバンドで、S-KENやLIZARDなどとともに「東京ロッカーズ」の中核を担う存在だった。坂本龍一はフリクションのデビュー・アルバム『軋轢』(1980年)のプロデュースも担当(ミックスをめぐって坂本龍一とメンバーとの間で多少の「軋轢」があり、それがアルバム・タイトルになったという説もある)、続いてPASSからリリースされた元アーント・サリーのPhewのソロ・デビュー・シングル「終曲(フィナーレ)/うらはら」もプロデュースしている。この流れで後藤が『B-2ユニット』のコ・プロデュースをすることになったわけだが、2019年9月に『B-2ユニット』がリイシューされた際にネットマガジン『OTONANO』の特集記事に掲載された後藤美孝インタビュー(聞き手は吉村栄一)によると、坂本龍一のソロ・アルバムをPASSからリリースする可能性もあったという。だが、YMOがあまりにも有名になり過ぎていたため、インディ・レーベルから出すことは不可能だった。そこで坂本龍一が、アルファから出るソロに後藤を共同プロデューサーとして迎えるというアイデアを思いついた。同インタビューで後藤は「アルファでいっしょにやろう、今までPASSでやった延長線上でいいから」と彼に言われたと語っている。
●アルバムの当初の構想はどのようなものだったのでしょう?
「最初にPASSでやろうと持ちかけたときは、イメージとしてブライアン・イーノの“オブスキュア・レコード”のような現代音楽とポップス、ロックを横断する音楽の連作シリーズを考えていました。もちろん坂本くんが演るので、最初はコンピューター+シンセサイザーの“機械”で。そういえば最近、当時の計画書?が見つかり、そこにはコニー・プランクのスタジオで録音を、とか書いてあったんですよね。それは後にPhewのアルバムで別のかたちで実現することとなるのですが、もしあのときやってたらどうなったのかな?と。ちょうどフリクションのレコーディングをしている頃、XTCのアンディー・パートリッジの『テイク・アウェイ』がリリースされ、ぼくのところにアルバムの解説の依頼があったんです。時間もなかったので、坂本くんと吉祥寺時代からよくふたりで話していた音楽談義をそのまま文字に起こし、それを解説とすることにしました。このときのやりとりの中から『B-2 UNIT』の方向性のひとつが具体的なかたちになっていったのかなと思います。」(「後藤美孝 インタビュー」『B-2 UNITスペシャル・サイト』、OTONANOポータル https://www.110107.com/s/oto/page/B-2UNIT_interview2?ima=2843)
6 ポスト・パンクでニューウエーブでノーウェーブな音楽
この特集記事に後藤は「坂本龍一という音楽家が、のちにポスト・パンクと言われるあの時代、自らの精神と肉体をぎりぎりまで追いつめつくり上げたアルバム。彼はその時、あらゆる意味で‟パンク”そのものを生きていた。」というコメントを寄せている。そう、まさに坂本龍一は、YMOでは(そうしたくても)もはや実現できなくなってしまった(と彼には思えた)ポスト・パンクでニューウェーブでノーウェーブな音楽を『B-2ユニット』で思うさま実験しようと考えたのだった。
『B-2ユニット』は全8曲収録(各面4曲ずつ)のアルバムで、レコーディングは前半は東京(YMOと同じStudio "A")で、後半と仕上げはロンドンで行われた。参加ミュージシャンは、YMOのサポート・ギタリストでもあった大村憲司、PASSからデビューしたポストパンク・バンド、グンジョーガクレヨンの組原正、そして後藤が名を挙げていたXTCのアンディー・パートリッジ。3人ともギタリストで(しかもかなり異なったタイプのギターを弾く)、その他の楽器はドラムスも含めてすべて坂本龍一が演奏している。
このアルバムについて語られる際によく言及されるのは、ダブからの影響である。そのことは、ジャマイカ出身の詩人リントン・クウェシ・ジョンソンのダブ・ポエトリー・アルバムや、ダブの要素を取り入れたザ・ポップ・グループやスリッツなどポストパンク~ニューウェーブの最重要バンドのプロデュースで知られるデニス・ボーヴェルが、この作品にエンジニアとして参加していることでもわかる。「B-2 UNITスペシャル・サイト」に掲載されているインタビューでボーヴェルは、「自分にとってもランド・マークの一枚」「未来の音楽を作っている、ダビング・トゥ・ザ・フューチャーだという意識があったんだ。」などと語っている。
ポスト・パンク~ニューウェーブがパンクを音楽的に進化させたものだったとして、その進化のありようは一様ではないものの、少なくとも二つのポイントを指摘することができるだろう。
まず第一にテクノロジーの発展。これには更に二つの次元がある。演奏と録音である。すでに書いてきたように70年代後半から、シンセサイザー、ドラムマシン、サンプラー、シークエンサーなどといったエレクトロニックな楽器/機器が次々と発売され、若いミュージシャンも盛んに取り入れるようになった。この傾向は80年代に加速し、多くのエレクトロ・ポップ・バンドを生み出すことになる。それと並行してレコーディング技術も飛躍的に進歩していった。技術発展のベクトルは、プロユースと汎用性/一般性の両方に伸びていった。一方では、以前よりはるかに複雑な音作りが可能になり、もう一方では、専門知識/技術を持たない者にも一定以上のクオリティの音作りが可能になった。
このことに第二のポイントがかかわってくる。非西欧音楽の導入である。もっと砕けた言い方をすれば、それは白人以外の音楽的要素ということだ。そのひとつがダブである。ダブは、ジャマイカのレゲエ・ミュージシャンが独自に発展させた、レコーディングとポストプロダクションの方法論のことである。当時はまだアナログの磁気テープに録音していたが、オープンリールをリアルタイムで操作してエディットしたり(いわゆるピンポン録音)、録った音にリヴァーヴやエコーなどさまざまなエフェクトを掛けることによって、低音やリズムが強調されたユニークな音響を創り出す。これをダブ(ダビングの略)・ミックスと呼んだ。ジャマイカからイギリスに輸入されたダブは、70年代後半から80年代初頭にかけて、すなわちパンク~ポスト・パンクの時期に大流行した。前出のデニス・ボーヴェルはバルバドス生まれの英国人だが、レゲエの本場ジャマイカで人気ジャンルであるラヴァーズ・ロックやダンスホールにかかわりつつ、ダブ的な要素をロンドンの音楽シーンに持ち込む窓口のような役割を果たしていた。
ポスト・パンク~ニューウェーブの非西欧音楽への接近はダブだけではない。アフリカ音楽のビート、インドネシアのガムラン、バリ島のケチャ、インドの伝統音楽など、のちの「ワールドミュージック」を先取りするように、若いバンドによって「第三世界」の音楽的要素が精力的に取り入れられていった。現在の視点から見ると、こうした動きは「文化の盗用」という批判に晒されかねないところがある。移民や旅(観光)による長距離移動の増加だけでなく、録音物(レコード)の多様化によって異国の音楽に触れる機会が増えてきたことも大いに関係していただろう。異文化を知り、魅了され、自分でもやってみたくなる、という素朴な多文化主義が通用した牧歌的な時代であった。
テクノロジーの進歩と非西欧音楽の導入が、ポスト・パンク~ニューウェーブの「ポスト」と「ニュー」の核心である。坂本龍一も『B-2ユニット』で、それに倣った。いや、その最前線を切り拓いてみせた。ではアルバムを聴いていこう。
7 ダブ受容の最良の成果の一つ、「Differencia」
1曲目は「Differencia」。アルバムの音楽的な方向性を高らかに告げる、尖り切ったダブ・チューンである。『B-2ユニット』を発売日に購入し、針を落として、この曲が流れてきた時の驚きと興奮は今も忘れられない。『NO NEW YORK』にも収録されていたDNAのイクエ・モリのドラムス(彼女は「ドラムを叩けないドラマー」として知られていた。ちなみに同バンドのアート・リンゼイは「ギターを弾けないギタリスト」である)を加工変形した転げ落ちるような強烈なリズムに、獣の雄叫びのようなギターが遠く聞こえる。
思い出されるのは、後藤がインタビューで語っていた、後藤と坂本龍一が対談形式で解説を寄せたというアンディ・パートリッジのソロ・アルバム『テイク・アウェイ』である。イギリスのポストパンク・バンドXTCのフロントマンの片割れ(もうひとりはコリン・ムールディング)が、パンクからの脱却をはかったサード・アルバム『ドラムス・アンド・ワイアーズ』(1979年)と、ダブ色の濃い『ブラック・シー』(1980年)の間にレコーディングした初のソロ作で、正確にはMr. Partridge名義でのリリースだった。このアルバムは現在廃盤で、各種の音楽サブスクリプションにも入っていないが、1990年にリリースされたXTC名義の編集盤『The Dub Experiments 78-80』に再録されている(もっとも、こちらも入手困難かもしれない)。『テイク・アウェイ』と『B-2ユニット』を聴き比べてみれば、直接的な影響、というより坂本龍一がパートリッジの向こうを張るつもりでアルバムを作ったことは一聴瞭然だ。特に「Steam Fist Futurist」を聴くと関連性は明らかである。この2枚のアルバムは、フライング・リザーズのファースト・アルバム『ミュージック・ファクトリー』(1979年)、元セックス・ピストルズのジョン・ライドン率いるPILのセカンド・アルバム『メタル・ボックス』(同)、デニス・ボーヴェルがプロデュースしたザ・ポップ・グループのデビュー・アルバム『Y (最後の警告)』などと並ぶ、ポスト・パンクによるダブ受容の最良の成果である。
2曲目は「thatness and thereness」。一転してスローテンポの曲である。歌詞は後藤美孝と坂本龍一が共作し、ピーター・バラカンが英訳した。坂本龍一がヴォコーダーを通さず、生声で訥々と歌っている。「あれ性とそこ性」という曲名と、ニューロティックで哲学的な歌詞が意味深長である。音作りはまったく異なるが、旋律的には加藤和彦が前年の1979年にリリースした「ヨーロッパ三部作」の一作目に当たるアルバム『パパ・ヘミングウェイ』(坂本龍一も参加している)のロマンチックなヨーロッパ趣味を思わせるところもある。
この曲について、後藤美孝は次のように述べている。
「(前略)“thatness and thereness”はスタジオA(アルファの東京のスタジオ:引用者注)でのレコーディングの初日に、坂本くんがピアノでぽろぽろ弾いたフレーズがすごくよくて、それが原型になっています。そのときぼくは、これは絶対自分で詞を書き歌うべきだ、それも日本語で。と言いました。以前彼の自作の歌を聴いたことがあり、幾何学的な言葉が並ぶ面白い詞だったので、是非つくるべきだと。でも、なかなか詞は完成せず、結局ロンドンまで行っても書けず、ぼくがアウトラインを書くから、この歌にはどういう情景が存在するのかということを訊いて、ではその情景に使いたい言葉は? そこに現れる感情は? というようにひとつひとつ尋ねながら構成していきました。あそこに暗示されたデモの光景と政治的言説に対する不信は、ぼく自身の体験でもあって、その感覚も当時の彼と共有していたと思います。のちに坂本くんが英語の詞にしたいということで、ピーターに訳を頼むことになったんですが、あんな抽象的な言葉が羅列された詞を英訳するなんて、ピーターにしかできない。彼の意訳によってイメージが補強された部分もかなりあります」(「後藤美孝 インタビュー」『B-2 UNITスペシャル・サイト』)
3曲目「Participation Mystique」は、YMOの次のアルバム『BGM』に連なる不穏なテクノ。坂本龍一が叩くドラムスのハンマービートに、うねうねと蠢くシンセと組原正のノイジィなギターが絡みつく。
4曲目「E-3A」という曲名は、米軍の早期警戒管制機の名称とのこと。間欠的なシンセ・ビートは、やはりポスト・パンク期に台頭したスロッビング・グリッスルやキャバレー・ヴォルテールなどのインダストリアル・ノイズ(工場や工業機械の駆動音を思わせることからこう呼ばれた)を想起させる。ガムランの響きを模した大村憲司のギターなど多彩な音が複雑に織り込まれている。この曲でA面は終わる。
B面の始まり、5曲目「Iconic Storage」は、曲調としてはYMOの従来のイメージに近い「まとも」な曲である。だがよく聴くと、シンセの音色は微細な、神経症的な震えを帯びており、どこか脅迫的なニュアンスもある。ビート・メイキング的には「E-3A」と同じく、インダストリアル・ノイズからの影響が感じられる。
6曲目は「Riot in Lagos」。ヨーロッパではシングル・カットもされた、このアルバムのリード・チューンである。構成やビートはシンプルだが、スネアの強烈なアタックと舞い踊るシンセ・ノイズがスリリングな名曲である。テクノポップというより、90年代に勃興する「テクノ」を予告するかのようなマッシヴでダンサブルなサウンドで、細野晴臣が絶賛してYMOのライブでも演奏されるようになるだけでなく、世界各国の有名DJ/アーティストによって長年にわたってプレイされていくことになる。なお、2004年にリリースされた坂本龍一のセルフ・カヴァー・アルバム『/04』には、8台のピアノとスティーブ・ライヒを思わせる手拍子の多重録音によるヴァージョンが収録されている。
『B-2ユニット』の2019年再発盤には坂本龍一の語り下ろしのセルフ・ライナーノートが付されている(構成は吉村栄一)が、その中で彼はこう語っている。「あの曲はもともとナイジェリアのフェラ・クティやキング・ サニー・アデなどのアフリカ発のR&Bに影響されて作りま した。同時期に同じようにそれらから影響を受けて音楽を作っていたのがザ・ポップ・グループ。 アフリカのR&Bが壊れたニューウェイヴと同質というか、発想が近くなっていた。アルバムを作っている頃にナイジェリアのラゴスで暴動が起こったというニュースがテレビで流れて、直感的に「riot in Lagos」というタイトルも思い浮かんだ」。
7曲目の「Not the 6 O'clock News」は「Differencia」と同じく、『テイク・アウェイ』と相通じるところのある実験的な曲。タイトルにもあるように、イギリスのBBC放送のニュース音声を、何を言っているのかわからないほど細切れにコラージュした音がベースになっている。アンディ・パートリッジがエレキ・ギターを電気増幅なしでかき鳴らしている。
アルバムの最後は「The End of Europe」。『千のナイフ』(やYMO『増殖』)の「ジ・エンド・オブ・エイジア」と対になる「ヨーロッパの終焉/果て」という曲である。カウベルの淡々とした反復に荘厳なシンセの音が重なる。エンディングに現れる聖堂の鐘のようなシンセが劇的な余韻を残す。この曲の暗鬱な雰囲気も、この後のYMOに影響を与えたのではないかと思われる。
8 「解体への意志」が剝き出しになった野心作
「反・YMO」という、かなり屈折した、だが切実な気持ちから制作された『B-2ユニット』だったが、音楽的には自信作になったものの、リリース当時は、まさにYMOとは大きく異なる音楽性であったがゆえに、世間からも、音楽ジャーナリズムからも、反応はけっして良くはなかった。後藤美孝も「B-2 UNITスペシャル・サイト」のインタビューで、「アルバムが発売された頃は、ぼくはPASSの仕事で忙しかったのであまり人に訊く機会はなかったんですが、当のYMO周辺も、PASSの周りにいた評論家たちからも、概して厳しい評価でした」と回想している。このような反応は『千のナイフ』のリリース直後に酷似している。とはいえ坂本龍一は、ある意味での他人の評価を得るためにこのアルバムを作ったのではなかった。それはいわば過激なセルフ・セラピーだったのだ。
細野さんも幸宏も、このアルバムについてはほとんど何も言わなかったように思います。気になってはいたと思うんですが、少し離れたところからじーっと見守っているという感じ。ぼくの方から2人に聴かせたりもしませんでした。
でも、YMOの2度目のワールド・ツアーでは、この『B-2ユニット』の中の「ライオット・イン・ラゴス」という曲をYMOでやりました。 その後のライブでも何度も演奏した。 ぼくにとってはまさに「アンチYMO」だったあのアルバムの曲をYMOとしてやるとは、3人とも屈折していたんだと思います。(『音楽は自由にする』)
2019年の再発盤ライナーノートでは、もう少し詳しく「アンチYMO」の内実が語られている。
ダブのデニス・ボヴェルを起用したのも、ダブという音楽自体が指向するものが「壊す」「解体」するということに惹かれたから。 ダブは音をひきちぎってコラージュしながら解体する音楽。
1980年までのYMOにも、当然、それまであった音楽のフォームを壊して再構築する要素があったのだけど、ぼくはこの「B-2 UNIT」でそれをさらに徹底したかった。音楽を壊したまま組み立てないというのかな、そのまま提示する。(「2019年に「B-2 UNIT」 を振り返って」)
坂本龍一の「解体への意志」は、10代の頃からまったく変わっていなかった。再構築なき解体への欲望。『B-2ユニット』は彼の――音楽的才能には留まらない――そのような本性=本質が剥き出しになった野心作である。リリース当時の評価や反応はともかく、このアルバムはむしろ時間を経るほどに輝きを増してゆき、世界の音楽メディアのオールタイムベストにもたびたび上位にランクインすることになる。1980年、激動の80年代の始まり。パンク直後(ポスト・パンク)の新しい波(ニューウェーブ)は日々刻々と凄まじい勢いで変容と多様化を遂げていた。坂本龍一はその速度にシンクロし、その強度と共振した。
『B-2ユニット』を創り上げたことで、彼の「反・YMO」が幾らかでも緩和されたのかはわからない。だが実に面白いことに、このアルバムはYMO本体に極めて大きな影響を与えることになる。『B-2ユニット』が存在していなければ、YMOが翌年の1981年にリリースした2枚のアルバム『BGM』と『テクノデリック』は生まれていなかった、少なくとも今あるような作品にはなっていなかっただろう。それは間違いない。イエロー・マジックは内なるアンチテーゼも呑み込みながら、次の段階に進んでいった。