「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第9回 「イエロー・マジック」との闘い(その4)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第9回の公開です! 

 1981年、イエロー・マジック・オーケストラは3月に『BGM』、11月に『テクノデリック』という2枚のフル・アルバムをリリースした。どちらも以前の作品とは一線を画す実験的な内容であり、坂本龍一が「反・YMO」の衝動に突き動かされて作り上げた『B-2ユニット』が、はからずも細野晴臣と高橋幸宏の創作意欲を刺激したのではないかと思われる(二人は「ほとんど何も言わなかった」と坂本は語っているが)。

 前年(1980年)の7月、ホライズン・レーベルの倒産のせいで宙に浮いていた『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』と『増殖』からセレクトされた「ベスト盤」の『X∞MULTIPLIES』と、シングル「ビハインド・ザ・マスク」が英A&Mからリリースされ、『X∞MULTIPLIES』は日本でも発売(内容が一部異なるオリジナル盤と海外盤の両方が国内で流通するという、かなりややこしい状況となった)、9月には坂本龍一『B-2ユニット』がリリース。10月にイギリスで「NICE AGE」、追ってアメリカで「TIGHTEN UP」がシングル・リリース、前回からは規模が格段に大きくなった2度目のワールド・ツアーも始まった。国内外でのメディア露出も、ますます加熱していた。

 そんな中でもYMOは、加藤和彦の「ヨーロッパ三部作」の第二作『うたかたのオペラ』(YMO全員参加)、「テクノポップの歌姫」などと喧伝されたスーザンの『DO YOU BELIEVE IN MAZIK ――魔法を信じるかい?』(高橋幸宏プロデュース、全員参加)、大村憲司の『春がいっぱい』(坂本龍一と高橋幸宏が共同プロデュース)、坂本龍一作曲のYMOの曲「東風」に歌詞を付けた「TONG POO」を含む矢野顕子の『ごはんができたよ』(坂本龍一が共同プロデュース、全員参加)、シーナ&ザ・ロケッツの『Channel Good』(全員参加)など、自分たち以外の作品にも精力的にかかわっていた。この年のクリスマス時期には4日連続で日本武道館公演が行われている。まさに人気絶頂である。だが、1981年3月に必ず新作をリリースするよう、アルファから厳命されていた。YMOはこの年の1月半ばにようやくレコーディングに入り、約1カ月でアルバム『BGM』を完成させた。

1 BGMにはなり得ない野心的な『BGM』

 『BGM』というアルバム・タイトルは、一言で言えば反語である。音楽的にはBGMとして聴き流すことなど到底できないような、極めて野心的な内容になっている。使用機材は大幅にアップデートされ(特にシンセサイザーは、1978年発売のプロフェット5に変わった)、当時最先端のデジタルのマルチトラックレコーダーが導入されたが、そのせいでかえって作業が煩雑になった面もあったようだ。シーナ&ザ・ロケッツなど外部のミュージシャンと仕事をする際にはプレイヤーとしての参加が多かったのを意識したのだろう、このアルバムは生楽器の要素が希薄だ。レコーディングはメンバー3人と松武秀樹のみで行われた。全10曲で、作曲は「RAP PHENOMENA/ラップ現象」と「MASS/マス」が細野晴臣、「BALLET/バレエ」と「CAMOUFLAGE/カムフラージュ」が高橋幸宏、「CUE/キュー」が細野と高橋、「LOOM/来たるべきもの」がYMOと松武秀樹、「U・T/ユーティー」がYMO、そして「MUSIC PLANS/音楽の計画」「HAPPY END/ハッピーエンド」「1000 KNIVES/千のナイフ」の3曲が坂本龍一となっている。作詞は前作までのクリス・モズデルから、作曲者自身が歌詞を書き、ピーター・バラカンが英訳する(バラカンは英語の歌唱指導も行ったという)スタイルに変わった。

 細野、高橋の曲から聴いていこう。まずは前者から。「RAP PHENOMENA/ラップ現象」はヒップホップのラップとポルターガイスト現象のラップ音を掛けた曲名の通り、幽霊の「ヒュ~ドロドロ」を思わせる笛のようなシンセとアタックの強いビートに細野自身の呪文のようなラップ(?)が重なる。時期を考えると、日本では非常に早いラップ受容の曲である。細野は韻を踏んではおらず、本場のラップとは異なるが、以前の歌唱とはまったく違っており、YMOで細野の声がフィーチャーされたのも初めてのことだった。このスタイルは、翌年リリースされる細野のソロ・アルバム『フィルハーモー』(1982年)の収録曲や、YMO散開(解散)後の『S・F・X』(1984年)に繋がっていく。「MASS/マス」はシングル・カットされた曲で、行進曲のような大陸的で妙に仰々しい旋律をバックに、ピーター・バラカンが英語とロシア語でヴォーカルを取っている。

 高橋幸宏作曲の「BALLET/バレエ」はアルバムの冒頭に据えられた曲で、無機質なマシン・ビートに高橋の魅力的なヴォーカルが冴え渡る。途中に女声によるフランス語のナレーションが挟まる。全体としてヨーロッパ風のメランコリーとロマンティシズムが横溢するドラマチックな曲である。「CAMOUFLAGE/カムフラージュ」も高橋流テクノポップスの進化形で、マシニックに反復されるリズムと高橋の渋い歌、最小限の装飾のみによるシンプルな楽曲だが、完成度は高い。YMOを通じてシンガーとしての高橋幸宏の進化は著しく、ヴォーカル・スタイルとしては英国の二人のデヴィッド、すなわちボウイとシルヴィアンをモデルにしていると思われるが、独特なダンディズムがあり、日本のいわゆるヴィジュアル系にも影響を与えたのではないか。高橋は1980年6月に2枚目のソロ・アルバム『音楽殺人』を、『BGM』の2カ月後にソロ第二作『NEUROMANTIC』をリリースしたが(いずれも坂本龍一と細野晴臣が参加)、YMOでの経験をもっともストレートにソロに活かしたのは高橋だったのかもしれない。

2 「これは完全に、2人の復讐なんだな」

 細野と高橋の共作「CUE/キュー」には、こんなエピソードがある。坂本龍一は『音楽は自由にする』で「アンチ・YMO」のつもりだった『B-2ユニット』の「Riot in Lagos」をYMOのワールド・ツアーで演奏することになった皮肉について述べたあと、こう語っている。

 2人に仕返しされたのが、「キュー」という曲。翌81年の3月に出た『BGM』というアルバムの中の曲で、細野さんと幸宏が、ぼく抜きで、2人で作ったんです。でも、YMOの曲だからぼくも参加しないわけにもいかなくて、ライブではドラムをやることになった。音には参加せず、リズムを叩くだけ。

 「CUE」ですから、何かの合図、というような意味が含まれている。合図、きっかけ、手がかり、そういう意味のタイトル。すごく意味深ですよね。ぼくは黙ってビートに徹しながら、これは完全に、2人の復讐なんだな、と思いました。(『音楽は自由にする』)

 復讐とは穏やかではないが、実際、当時の坂本龍一は精神的に相当追い込まれており、高橋と細野との関係、特に後者とのそれはかなりギクシャクしていたようだ。だがしかし、『音楽は自由にする』の上の引用の続きにも書かれていることだが、2000年代の後半にYMOが自然な流れで復活を遂げたあと、コンサートで「CUE」は久しぶりに演奏され、坂本龍一はドラムスを叩いた。私はその場に居たが、とても感動的だった。そんな事情があることを抜きにしても、この曲は『BGM』の中では珍しく明るさを湛えたサウンドとメロディが印象的である。

 YMO作曲の「U・T/ユーティー」は「Ultra-Terrestrial(超-地球存在)」の略。のちに「ハードコア・テクノの元祖」(英NME誌)と呼ばれることになる強烈なビート――途中に挟まるスネークマンショー風の座談会で「この曲の高橋さんのドラム、スゴいですね!」と細野が言っている――に、大ヒットした矢野顕子のシングル「春先小紅」(『BGM』のレコーディング中にリリースされ、カネボウ化粧品のCMに用いられた)とどこか似たメロディが乗せられる。

 YMOと松武秀樹が作曲者としてクレジットされている「LOOM/来たるべきもの」は、アルバムのラストに置かれている。松武が以前から個人的に作っていた、無限音階による音響に水滴の音が重なり、やがて深いリヴァーブを帯びたシンセが流れ出す。後半の展開には環境音楽的な要素もある。

 坂本龍一の作曲は曲数こそ3曲だが、「1000 KNIVES/千のナイフ」はもちろんセルフ・カヴァー(ハンド・クラッピングやビートの強調など全体的にハードでダンサブルなサウンドになっている)だし、「HAPPY END/ハッピー・エンド」は『BGM』の1カ月後にリリースされる坂本龍一のセカンド・ソロ・シングル「フロントライン」のカップリング曲で、シングルには存在した主旋律がカットされ、より音響的/ダブ的な仕上がりになっている。この曲はYMOやB-2 UNITS(坂本龍一のソロ・ライブ用のユニット)でも演奏されており、のちにピアノ重奏やストリングス、アコースティック・トリオなど、さまざまなアレンジによって演奏されていく。

3 The End of YMOの予感

 坂本龍一は『B-2ユニット』に先立ち、ファースト・ソロ・シングル(ドーナツ盤)「WAR HEAD」を1980年7月にリリース、同年4月に六本木にオープンしたクラブ「Lexington Queen」の店名をタイトルに冠した曲(B面)と、それをアップテンポにしたタイトル曲で構成されていた(2002年リリースのベスト盤『US』に再録されている)。続くシングルが「フロントライン」で、『BGM』の2曲目「MUSIC PLANS/音楽の計画」(同アルバムでは唯一の坂本龍一の純粋な作曲作品)の姉妹作というべき曲である。「MUSIC PLANS/音楽の計画」はミニマルな曲調ながら、坂本龍一のメロディ・メイカーとしての才能が大いに発揮された曲だが、作曲者自身がヴォーカルを取る歌詞は当時の彼の苛立ちが窺える、かなりネガティヴな内容である。サビの歌詞は次のようなものである。

Making music What's the plan?                               Breaking music                            Playing music What's the plan?                  Decaying music                          Grooving music What's the plan?                   Losing music

 この直後にレコーディングされた「フロントライン」の方が、坂本龍一としては自信作だったようである。同じく彼自身が歌っているが、ガムランを思わせるシンセと沖縄音階的なメロディが不思議なバランス感で溶け合った、ストレンジだがポップな曲となっている。

 「HAPPY END/ハッピーエンド」という曲名から、細野晴臣がかつて在籍していたはっぴいえんどを想起しないことは難しい。思えば、はっぴいえんどのラスト・アルバムは『HAPPY END』というタイトルだった。坂本龍一の心中にYMOの終焉、The End of YMO――それが彼個人のことなのかバンド自体なのかはともかく――がリアルな未来として宿っていたことは疑いない。それならせめて「HAPPY END=幸せな結末」を、という気持ちも、もしかしたらあったかもしれない。

4 「テクノ+サイケデリック」=『テクノデリック』

 だが、そうはならなかった。『BGM』のリリース日に当たる1981年3月21日にYMOは次のアルバムのレコーディングを開始し、同年11月に『テクノデリック』がリリースされた。アルバム・タイトルは「テクノ+サイケデリック」ということだろう。音楽的には前作の延長線上にあると言えるが、全体として躍動感を増した、ややキャッチーな仕上がりになっている。レコーディングは『BGM』のデジタルMTR(マルチトラックレコーダー)の使い勝手が良くなかったので、一部を除いてアナログ録音に戻っている。全10曲で、細野晴臣の作曲が「灰色の段階(GRADATED GREY)」、高橋幸宏が「ジャム(PURE JAM)」と「階段(STAIRS)」、3人の共作が「新舞踊(NEUE TANZ)」、細野晴臣&高橋幸宏が「手掛かり(KEY)」。坂本龍一&高橋幸宏が「京城音楽(SEOUL MUSIC)」と「灯(LIGHT IN DARKNESS)」と「体操(TAIASO)」、そして「前奏(PROLOGUE)」と「後奏(EPILOGUE)」が坂本龍一の作曲となっている。単独作は2曲だけだが、共作を入れれば全体の半数以上の作曲にかかわっており、前作よりも坂本龍一の存在感は増している。『BGM』リリース後の1981年4月より坂本龍一は、NHK‐FMの「サウンドストリート」に毎週火曜夜に出演するようになり、好きな音楽を流しながら気ままにお喋りするようになったのだが、それがフラストレーションのはけ口になったのかもしれない。ちなみに当時高校生だった私はラジオを聴く習慣はあまりなかったのだが、この番組は楽しみにしていた。今でも覚えているが、私は坂本龍一にフランク・ザッパやブライアン・イーノ、トーキング・ヘッズなどを教わったのだった。『サウンドストリート』にはデモテープ募集のコーナーがあり、アマチュア時代のテイ・トウワや槇原敬之がデモを送っていたことは有名な話である。

 では『テクノデリック』を最初から聴いていこう。高橋幸宏作の「ジャム(PURE JAM)」は、いきなりビートルズ風のコーラスから始まる。極めて高橋らしい、まるでドラムマシンのようなクールなドラムス。続く「新舞踊(NEUE TANZ)」はYMOの作曲、一聴してわかるようにバリ島のケチャが基になっているが、インドネシアの打楽器(ゴング)を模したシンセに掛け声をポリリズム的に重ねることで、ユニークな楽曲になっている。3曲目の「階段」は高橋の作曲。ピアノがダークな旋律を反復し、中空を浮遊するかのようなベース・ラインが蠢く。途中に入る即興のようなクラシカルなピアノも効果的だ。坂本龍一と高橋幸宏作の「京城音楽(SEOUL MUSIC)」は、韓国のソウル(京城は日本統治時代のソウルの名称)とソウル・ミュージックを掛けた曲名。やはりベース・ラインが格好良い。ガムラン音楽がベースになっているが、そこに力強いスネア・ドラムスが重ねられている。A面の最後が「灯(LIGHT IN DARKNESS)」。やはり坂本龍一と高橋幸宏の共作だが、この曲でも細野晴臣のベースが大活躍している。ベースがなければ割とフォーマルな「テクノ」なのだが。

 B面に入って、シングルカットもされた「体操(TAISO)」は坂本龍一と高橋幸宏の共作。プリペアド・ピアノ(ピアノの弦に物を挟んだり上に置いたりして音を変調したピアノのこと)がミニマル・ミュージック的に一定のフレーズを繰り返す、わかりやすいメロディ・ラインを持ったキャッチーな曲である。体操の指示(?)は高橋が担当している。「タイソタイソー、みんな元気に、痙攣痙攣、痙攣痙攣」というサビの歌詞がなんとも可笑しい。「灰色の段階(GRADATED GREY)」はこのアルバムで唯一の細野晴臣の単独作曲作。汽笛のようなシンセの音が印象的。ストイックな曲調だが、細野のヴォーカルには独特な歌心が感じられ、じわじわと盛り上がってくる。次は細野と高橋の共作「手掛かり(KEY)」。これも明快なメロディを持った曲で、高橋が伸び伸びと歌い上げている。同時代のイギリスの人気ニューウェーブ・バンドの曲と言われても納得することだろう。『BGM』収録の「キュー」の姉妹曲という位置付けであり、確かにその曲調に似たところがある(こちらの方がBPMは早いが)。シングル「体操」のB面に収録された。そして坂本龍一作曲の「前奏(PROLOGUE)」と「後奏(EPILOGUE)」。こんな曲名の2曲が並んでいるのも実にひねくれている。「前奏(PROLOGUE)」では、スタジオのすぐ近くにあった工場で録音されたという工場の機械音(インダストリアル・ノイズ)が単調に反復され、そこにガムランのような、あるいはスティールパンのような不思議な音色のシンセがオリエンタルなメロディを奏でる。そのまま「後奏(EPILOGUE)」に繋がり、相変わらずインダストリアル・ノイズが鳴り響く中、透明感のあるシンセがフェードインしてきて、ひとしきり優美な旋律を聴かせた後、どこか厳かな雰囲気を残しつつ、このアルバムは終わる。

5 やり甲斐と満足を叶えた2枚のアルバム

 売り上げだけで言えば、『BGM』はオリコン・チャートで最高2位、『テクノデリック』は最高4位だった(『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』『パブリック・プレッシャー』『増殖』はいずれも1位)。明らかにそれは、YMOが自ら招いた結果だった。彼らは人気や商売よりもやり甲斐と満足を選んだ。そして2枚のアルバムは、その両方を叶える作品になった。坂本はこう語っている。

 いろんな確執を乗り越えて、(『BGM』と:引用者注)同じ年の11月に『テクノデリック』というアルバムができた。ぼくも言いたいことをかなり言い、2人もそれぞれに言い、3人の力がいい形で重なりあって、120点ぐらいのアルバムができちゃったんです。

 それまで抑えていた何かが弾けて、ぼくは現代音楽の引き出しも、臆面もなく、どんどん使った。それがYMOのポップな形式にうまく収まったと思います。3人の持っているものが、最良の形で結晶したという、一種の達成感があった。

 そして、もう終ってもいいかな、という感じになったんです。やることはやった、 もうシェアできるものは何もない、これ以上続けても意味がない。そういう感じになった。

 3人とも自然と「あとは花を咲かせて終わろう」という気持ちになって、最後の1年は「君に、胸キュン。」とか、歌謡曲路線でいった。かわいいおじさん、おじさんアイドル、みたいな感じで。あのころにはもう、終わりにすることが前提だった。 最後にぼーんと花火上げて終わろう、ということだったんです。

 『テクノデリック』リリース前月の81年10月には、3枚目のソロ・アルバム、『左うでの夢』もリリースされたんですが、このアルバムではもう『B-2ユニット』にあったような憎悪は消えている。なんかちょっと幸せな雰囲気すらあるようなアルバムになっています。YMOの中で何かが終わったときに、ぼくの中の反YMO的なものも消えてしまったんだと思います。(『音楽は自由にする』)

6 「幸せな雰囲気すらある」アルバム、『左うでの夢』

 だが周知のように、実際にYMOが(ひとまずの)終わりを迎えるのは、『テクノデリック』発売から2年半近く経った1984年4月のことである。しかも坂本龍一は『BGM』と『テクノデリック』の間に、『B-2ユニット』に続くソロ・アルバムを発表しているのだ。まったく、なんという創作意欲と生産力だろうか! では、彼が「ちょっと幸せな雰囲気すらあるようなアルバム」という『左うでの夢』とは、どんな作品なのか?

 『左うでの夢』は、約一年前の『B-2ユニット』とは対照的とも言えるアルバムに仕上がっている。ラディカルでアグレッシヴな前作とは打って変わって、全体的な雰囲気は牧歌的でさえある。アルバム・タイトルは坂本龍一が左利きであることから矢野顕子が命名した。

 以前も引用した断章形式のエッセイ集『skmt』の「009 右手と左手」には次のような記述がある。

 左手は伴奏で、右手が「きれいな」メロディを弾いているような音楽は、本当に嫌いだったのね。そういう曲を弾くのも嫌だし、聴くのも嫌だった。なぜバッハが好きか、叔父さんに説明したことがある。それはね、バッハの曲では右手と左手が「対等の役割」を持っているから。そこにすごく自分は感動してるわけ。左ぎきだったからかな。だから、左手が異常におとしめられてるってことに対して反発があったんじゃないかな。

 でもね、「左ぎき」って言われることで引け目とかを感じたことはないけど。むしろ得意だった。(『skmt』)

 『左うでの夢』は、全10曲中6曲で坂本龍一自身がヴォーカルを取る「歌もの」のアルバムで、歌詞はナレーションなどを除けば英語で歌っているYMOとは違い、日本語がメインである。作詞は糸井重里、矢野顕子、かしぶち哲郎(ムーンライダーズ)が2曲ずつ手がけている。

 糸井重里は80年代のコピーライターブームの火付け役だった。糸井を一躍有名にする西武百貨店のキャッチ・コピー「不思議、大好き。」や「おいしい生活」はこの少し後だが、彼が構成を担当していた雑誌『ビックリハウス』の読者投稿連載「ヘンタイよいこ新聞」は若者に絶大な人気があり、音楽業界でも話題になっていた。糸井はサビで「トキオ」と連呼されるYMOの「テクノポリス」の直後にリリースされた沢田研二の大ヒット曲「TOKIO」の作詞家でもあった。『左うでの夢』のキャッチ・コピー「スナオサカモト」を書いたのも糸井である。作詞に限らず、このアルバムが持っている人懐っこくもどこかシュールなムードは、糸井の言語感覚と繋がる部分があると言えるかもしれない。かしぶち哲郎は、はちみつぱい~ムーンライダーズでは基本的にドラマーだが、この頃はさまざまな歌手やミュージシャンに楽曲および歌詞を提供していた。かしぶちは矢野顕子と親交があり、『左うでの夢』への参加は矢野の推薦によるものだった可能性がある。

 『左うでの夢』は、坂本龍一とロビン・スコットの共同プロデュースだった。スコットはイギリス出身のミュージシャンで、1979年に「M」名義のシングル「ポップ・ミューヂック(POP MUZIK)」が全世界的にヒットした。「ポップ・ミューヂック」は、クラフトワークをより「ポップ」にした軽快でユーモラスな曲で、同じ年に大ヒットしたバグルスの「ラジオ・スターの悲劇(Video Killed the Radio Star)」と並ぶ、ニューウェーブ初期、テクノポップ(海外ではシンセポップ)の代表曲である。『左うでの夢』は制作当初、スコットとのデュオ名義のアルバムになる可能性もあったようだが、最終的に坂本龍一のソロ作となった。収録曲にスコットのヴォーカルを加えるなどして再構築した12インチ・シングル『アレンジメント』が1982年にリリースされている。

 『左うでの夢』のレコーディングには細野晴臣と高橋幸宏、松武秀樹、仙波清彦、佐藤薫(EP-4)、当時キング・クリムゾンのメンバーだったエイドリアン・ブリューらが参加している。ブリューはアメリカ出身のギタリストで、70年代後半にフランク・ザッパのバンドに加入したことで注目された。デヴィッド・ボウイの『ロジャー 』(1979年)やトーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』(1980年)に参加後、ロバート・フリップ率いるキング・クリムゾンの第二期メンバーに抜擢された。プログレッシブ・ロックの最重要バンドであったクリムゾンは、ニューウェーブ的センスと卓越したテクニックを併せ持つブリューを得たことで一挙に若返り、『ディシプリン』(1981年)、『ビート』(1982年)、『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』 (1984年)の三部作を発表する。エフェクター類を駆使してカメレオンのように多種多様なサウンドを作り出すブリューのギターは、『左うでの夢』でも大活躍している。

7 『左うでの夢』全10曲、レビュー

 『左うでの夢』は、糸井重里作詞による「ぼくのかけら」で幕を開ける。東南アジアの民俗音楽を思わせる変拍子の連なりに、穏やかで幽玄なシンセの旋律が重なってゆく。非常にゆったりとした曲で、高速で激しいリズムの『B-2ユニット』の一曲目「Differencia」とは正反対である。「あげるよ、ぼくのかけらを、ありがとう、きみのかけら」で始まる坂本龍一の淡々とした呟きが、この作品全体のトーンを開示するかのようだ。

 2曲目「サルとユキとゴミのこども」も糸井重里の作詞。一曲目よりもテンポアップしつつも、暢気なムードは変わらない。童謡のような歌詞だが、絶妙にナンセンスな不気味さがある。沖縄音楽とサンバが合体したかのような飄々とした打楽器アンサンブル(坂本龍一自身も叩いている)と、浮遊感のあるエイドリアン・ブリューのギター、途中挟まる管楽器のソロ(ロビン・トンプソン)という組み合わせが面白い。

 3曲目は矢野顕子作詞の「かちゃくちゃねぇ」。曲名は津軽弁(矢野は東京生まれだが幼少期を青森県で過ごした)で「頭がごちゃごちゃしてイライラする」といった意味。ビートは1981年4月リリースのパブリック・イメージ・リミテッド(PIL)の名盤『フラワーズ・オブ・ロマンス』の冒頭曲「Four Enclosed Walls」を彷彿とさせるが、それよりずっとポップな仕上がりである。メロディは沖縄風。中盤から、『B-2ユニット』的なダブ処理された、せわしないリズムが立ち上がってくる。佐藤薫が弾くエレクトリック・ヴァイオリンの軋むような音がアクセントを添えている。

 4曲目「The Garden Of Poppies」はインストゥルメンタル。前の曲を引き継いで、打楽器のダイナミックな乱打の上にエイドリアン・ブリューの変幻自在のギターが冴え渡る。

 5曲目「Relâche」もインストで、作曲はロビン・スコット、エイドリアン・ブリューとの共作となっている。このアルバムの中では最もYMO的(テクノ的)な曲と言えるだろう。シンセの東洋的な旋律の反復、切れ味鋭いスネア・ドラム、太いベース(細野晴臣?)、何度か入ってくる電話のベルが一体となった非常にカッコ良い曲である。のちにロビン・スコットのヴォーカルと女声コーラスを加えて「JUST ABOUT ENOUGH」として『アレンジメント』に収録。こちらも非常にカッコ良い。

 6曲目は矢野顕子作詞の「Tell'em To Me」。歌詞は全て英語である。仙波清彦のマリンバに他の打楽器群が重ねられた複合的なリズムに、エイドリアン・ブリューの獣の雄叫びのようなギターと坂本龍一の無表情なヴォーカル。この曲も、ロビン・スコットのヴォーカルを加えて「ONCE IN A LIFETIME」として『アレンジメント』に収められている。曲名がトーキング・ヘッズの有名曲と同じだが、これは意識的なネーミングだろう。

 7曲目はかしぶち哲郎作詞の「Living In The Dark」。この曲のパーカッションもPILの『フラワーズ・オブ・ロマンス』を想起させるが、その上に坂本龍一の堂々とした歌唱が乗っている。作曲は坂本龍一だが、曲調やユニゾンのコーラスには、かしぶちが所属していたムーンライダーズが1980年8月にリリースしたアルバム『カメラ=万年筆』の雰囲気も感じられる。

 8曲目の「Slat Dance」はインスト。変調されたバスドラと拍子木のような音にブリューの熱帯雨林のようなギター。インダストリアル・ノイズの代表的なバンド、スロッビング・グリッスルの名作『20 Jazz Funk Greats』(1979年)に入っていてもおかしくないような曲である。アルバムの中では次のクライマックスへの間奏曲的な位置づけと言えるかもしれない。

 9曲目の「Venezia」はかしぶち哲郎作詞、このアルバムでいちばんシンプルでオーソドックスなヴォーカル曲である。ヴェネツィア讃歌の歌詞を朗々と歌い上げている。普遍的な親しみやすさを持った極めて坂本龍一的なメロディで、のちの一連の歌謡曲(Jポップ)とも繋がる。R・トンプソンのフリーキーなサックスも印象的。この曲もヴォーカルをロビン・スコットに差し替えて「THE LEFT BANK」と改名されて『アレンジメント』に収録されている。

 10曲目「サルの家」はミキシングだけで作られた、エピローグ的な楽曲である。単調なリズムボックスに、動物園のサルが立てる音がエディット、ループされて乗せられている。宙吊りにされたような不可思議な余韻を残して『左うでの夢』は終わる。

8 暗く過激な音楽から明るく過激な音楽へ

 あらためてじっくりと聴いてみると、『B-2ユニット』と『左うでの夢』という2枚のアルバムは、動と静、激しさと穏やかさ、速いと遅い、などといった明確なコントラストがありつつも、ただしく姉妹作と呼ぶべき緊密な関係性を持っていると思われる。どちらも同時代の海の向こうのポスト・パンク~ニューウェーブの刻々たる変化と進化にシンクロした(あるいは先んじた)野心的な音作りがなされており、ダブに代表されるクリエイティヴなミックス処理の実験が盛んに試みられている。それは両作のもうひとつの共通性、すなわちビート/リズムの多様性への強い関心ともかかわっている。この点で、『B‐2ユニット』にとってのアンディ・パートリッジ『テイク・アウェイ』の位置を『左うでの夢』において占めているのは、PILの『フラワーズ・オブ・ロマンス』だろう。あちらは呪術的とも言えるダークな作品だが、ことリズムに対するアプローチという意味では、『左うでの夢』もおそろしく挑戦的なアルバムなのだ。ほとんどの曲が欧米のポップス的ではない非西欧音楽的なリズム構造、もしくはその変形/応用になっており、ポリリズムへの関心も強い。坂本龍一自身は「ちょっと幸せな雰囲気すらあるようなアルバム」と語っていたが、そこにある多幸感(のようなもの)と、音楽的なラディカリズムは決して矛盾しない。日本語の歌詞や素朴な味わいのあるヴォーカルによって中和されているが、騙されてはならない。実は『左うでの夢』は、『B-2ユニット』に負けず劣らず過激な作品なのだ。

 とはいえ、坂本龍一にとって『左うでの夢』のレコーディングは、『B-2ユニット』や『BGM』のおそらく相当に殺伐としていただろう雰囲気とはまったく異なった、親密でリラックスしたものだったようである。自分で歌ったことも、それには関係していただろう。『左うでの夢』が『B-2ユニット』と同じく2019年に再発された際に新たに付けられたライナーノートの中で(取材は吉村栄一)、彼は「ヴォーカルに挑戦したいという気持ちもあった」と語っている。

 このアルバムには 『B-2 Unit』 のときにあったYMOに対する反逆がない。だから暗い音楽から明るくなった。「B-2 Unit』のエレクトロニックな音から反転して、アコースティック楽器を多用した生演奏に比重が移ってます。 アルファレコードの大きなスタジオで、みんなで輪になってそれぞれの前にマイクを置き、せーので一斉に音を出して録音するなど即興的な要素もあります。(『左うでの夢』再発売盤ライナーノーツ)

 YMOの『テクノデリック』が前作『BGM』よりもポジティヴなムードを持ったアルバムになったこと、坂本龍一自身の関わり方や感じ方もかなり変化していること、それは先に引用した『音楽は自由にする』の回想でも明らかだが、本人が憎悪とまで呼んだ暗鬱な感情から抜け出すのに、『左うでの夢』という経験は極めて重要なものだったのだろう。『BGM』の時は坂本龍一と細野晴臣の関係は一触触発の険悪さだったようだが、お互いへの反感やライバル心は適度な距離感によって抑制されることとなった。こうしてYMOは空中分解を免れた。だがそれは、今から思えば、本当の意味での「HAPPY END=幸せな結末」の始まりでもあったのだ。

 1982年、YMOは1年間、バンドとしての活動を完全に休止する。そしてその間に、坂本龍一のその後の人生を、またもや大きく変える出来事が起こる。彼を「世界のサカモト」に変身させることになる出来事が。

 

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