「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第10回 「イエロー・マジック」との闘い(その5)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第10回の公開です! 

 『テクノデリック』のリリースは1981年11月21日だが、坂本龍一はその直前の11月4日に単独ライヴを行っている。タイミングとしては『左うでの夢』発売記念だが、ライブ・バンドの名前は「B-2 UNITS」だった。ロビン・トンプソン、沢村満(細野晴臣がアルファ内に設立したYENレーベルから、日向大介、野中英紀らとのアンビエント・ポップ・バンド、インテリアとして82年にデビュー)、立花ハジメ(プラスチックスを脱退したばかりだった)の3人がサックス、どんべいこと永田純(板倉文と小川美潮を中心とするニューウェーブ・バンド、チャクラのメンバー)がベース、鈴木さえ子(松尾清憲らとのシネマが解散した直後だった)がドラムスという布陣だった。『B-2 Unit』と『左うでの夢』収録曲の他、『BGM』『テクノデリック』での坂本龍一の曲、まだタイトルもない新曲、インテリアと同じく翌年にYENレーベルから高橋幸宏のプロデュースでリリースされる立花ハジメのソロ・アルバム『H』の曲も披露された。このライブはNHK-FMでほぼ全編が放送されたが、その録音を聞くと、坂本龍一は「緊張している」と言いつつもそのMCには穏やかでリラックスした雰囲気が感じられる。この5日後には京都で、ニューウェイヴ・バンドのEP-4とジョイントを行い、B-2 UNITSとしてのライブは1982年まで断続的に続くことになる。

 1982年、YMOの活動は休止していた。この年、細野晴臣はYMO結成後初となるソロ・アルバム『フィルハーモニー』(ポスト『BGM』『テクノデリック』的アプローチの実験的な作品)を、高橋幸宏は前年の『NEUROMANTIC』に続くニューウェーブ・ポップなソロ作『WHAT, ME WORRY? ボク、大丈夫!!』をそれぞれリリース、坂本龍一はソロ・アルバムの発表こそなかったが、大きな仕事を新たに二つ、経験することになった。

1 「い・け・な・いルージュマジック」の誕生

 1982年2月14日、坂本龍一は忌野清志郎とのコラボレーション・シングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリースした。資生堂のコマーシャル・ソングで、カリスマ的人気のあったRCサクセションの忌野清志郎とイエロー・マジック・オーケストラの「教授」こと坂本龍一の顔合わせの意外性は抜群、1970年前半にイギリスを中心に絶大な人気を誇ったグラムロックを取り入れた、坂本龍一と忌野清志郎の普段の音楽性とはまったく異なる曲調(グラムロックの音楽的な参照元のひとつであるブギが音楽的な土台)に加えて、当時週末ごとに原宿の歩行者天国で踊っていた若者たち、通称「竹の子族」のような色とりどりの布を縫い合わせたルーズなファッションに二人は身を包み、ビルの屋上から紙幣(本物の札が使用されたという)を大量に撒き散らし、しまいには唇を合わせるキスまでしてみせるというミュージックビデオの公開によって、スキャンダラスな話題性が爆発し、50万枚の大ヒットを記録した。二人はこの頃、テレビの歌番組に何度も出演している。

 この曲の仕掛け人は、牧村憲一だった。山下達郎と大貫妙子のマネージメントやプロデュースを手掛け、YMOへの坂本龍一の加入に決定的な役割を果たした細野晴臣の初代マネージャーの日笠雅子(日笠雅水)や、坂本龍一のパーソナル・マネージャーになる生田朗が所属していたアワ・ハウス(もともとは山下と大貫が在籍したシュガー・ベイブの所属事務所)の元代表で、竹内まりあの初期アルバムや加藤和彦の「ヨーロッパ三部作」にも関わった牧村は、この頃は主にCM音楽の世界で仕事をしていた(牧村はYMO散開(解散)後に細野晴臣がテイチクで立ち上げたレーベル、ノン・スタンダードのディレクターを務め、PIZZICATO VやWORLD STANDARD、SHI-SHONENなどをデビューさせ、ポリスターレコードに移ってからは、フリッパーズ・ギターを世に送り出すことになる)。

 牧村の著書『「ヒットソング」の作りかた―ー大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』(2016年)には、「い・け・な・いルージュマジック」誕生秘話が詳しく綴られている。同書によると、牧村が資生堂の宣伝制作部の知人から春の口紅のキャンペーン・ソングの相談を受けたとき、すでに「ルージュマジック」というワードは決まっていたという。また、誰の曲だったのかは不明だがデモテープも存在していた。だが、牧村にはその曲が面白いとは思えず、担当者と話すうちに化粧品のCMソングを敢えて男性に歌わせるというアイデアを思いつき、その場で忌野清志郎と坂本龍一の名前を挙げた。行きがかり上、この極めてユニークな、だがそれだけに相当にハードルが高そうなコラボレーションの実現を依頼された牧村が、別の仕事の折に坂本龍一に打診してみたところ、返事は非常に前向きだった。

 あとから知ったことですが、坂本さんは以前から清志郎さんと一緒に仕事をしてみたかったそうで、ソロアルバム『左うでの夢』制作時に一度も会ったことがなかったにもかかわらず、作詞を依頼したものの実現しなかったという経緯があったようです。(『「ヒットソング」の作りかた』)

 だが、忌野サイドは慎重だった。RCサクセションとYMOのイメージはかけ離れていたし、ファン層も違っていたからだ。ある意味では当然の対応である。しかし牧村は粘り強く交渉し、やっとRC側のゴーサインが出た。遂に坂本龍一、忌野清志郎に、RCサクセションの仲井戸麗市を加えた3人によるレコーディングが始まった(作詞作曲編曲は坂本龍一と忌野清志郎)。

 坂本さんは初対面だったとはいえ、すでに述べたように清志郎さんとの仕事を楽しみにしていました。清志郎さんのほうも「なんだか成り行きでこうなっちゃったな」という空気を漂わせつつも、楽しんでいる様子です。

 着くとすぐに坂本さんと清志郎さんから「何をやればいいのか」「何を望んでいるのか」と聞かれました。すっかり二人からアイディアが出ると思い込んでいて不意を突かれた僕は、咄嗟に 「T・レックスやりましょう」と言いました。

 今でも良いアイディアだったと思います。坂本さんはT・レックスにはあまり興味がなさそうでしたが、とりあえず急いで資料を整えて渡すと、翌日には「わかった」とアイディアが浮かんでいたようでした。(『「ヒットソング」の作りかた』)

2 「すてきな」から「い・け・な・い」へ

 それからはスムーズに作業が進行したが、ひとつだけ牧村が頭を抱えたことがあった。クライアントからは「すてきなルージュマジック」という曲名で、と言われていたのだが、曲ができてきたらサビが「いけないルージュマジック」になっており、曲名もそれでいきたいと二人に告げられてしまったのだ。「まずい、99%の確率で、この話はこじれる」と牧村は思ったというが、なんとか資生堂の会議にはかってもらい、熱弁をふるった。その結果「いけない」を「い・け・な・い」にすることで、どうにかOKが出たのだった。

 しかし蓋を開けてみればCMは圧倒的に好評で、曲も大ヒット。前にも触れたが、この1年前にはYMOが全員参加した矢野顕子のカネボウ化粧品コマーシャル・ソング「春咲小紅」(作詞は糸井重里)がヒットしていた。80年代は広告と音楽が以前にも増して緊密な関係性を築いた時代である。YMOファミリーは、その中で中心的な役割を担っていた。牧村憲一はこう述べている。

 一方で「い・け・な・いルージュマジック」の成功は、音楽的にはYMOとRCサクセションのスターがジョイントしたことで達成されたものですが、じつは広告宣伝という面では八〇年代の最高峰と呼べる才能の助けを借りて、実現できたものです。

 坂本さんと相談の上でアートディレクターを井上嗣也さん、 ポスターのコピーを仲畑貴志さんに依頼しました。仲畑さんは、糸井重里さんと並ぶコピーライターでしたし、PVの演出は川崎徹さん、撮影は篠山紀信さんの一番弟子だった十文字美信さんに頼んでいます。こうした錚々たるクリエイターが遊びに遊んで、楽しみながら知恵を絞って作ったのですから、色々な意味ですごい作品になるのは当然のことだったのです。今もYouTubeで見られる「夜のヒットスタジオ」出演時の、坂本さんと清志郎さんのキスも、そんな遊び心の延長と言えるものだったかもしれません。(『「ヒットソング」の作りかた』)

 忌野清志郎は1951年4月2日生まれ、坂本龍一の1歳年上だった。だが周知のように、この不世出のシンガーは2009年5月、58歳の若さで病没した。同年12月29日、坂本龍一はTBSラジオの忌野清志郎追悼番組に出演し(聞き手は金平茂紀)、年齢は1歳しか違わないが、10代でRCサクセションとしてメジャーデビューして活躍していた忌野のことを眩しい存在として見ていたことや「い・け・な・いルージュマジック」録音時のエピソードなどを語った。タッグを組んだ際には驚きをもって迎えられた二人だったが、その後のそれぞれの歩みを思うと、音楽の、いや音楽家の社会的な役割に対する真摯で誠実な姿勢、場合によっては踏み込んだ言動も辞さないアクティヴィスト的側面という点では深く相通ずるものがあったのかもしれない。

 「い・け・な・いルージュマジック」ばかりが知られているが、このシングルのB面には坂本龍一と忌野清志郎のもうひとつの共作曲「明・る・い・よ」が収録されていた。「ルージュマジック」のサビのメロディを換骨奪胎して、よりテクノポップ的なサウンドに仕上げたもので、曲名通り弾けるように明るいシンセの音色が耳を引く、知られざる名曲である。

3 『戦場のメリークリスマス』への出演、そして音楽提供

 イエローマジックならぬルージュマジックの大ヒットの後、YMOへの加入に勝るとも劣らぬ極めて重要な出来事が坂本龍一を待ち受けていた。大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』(1983年)への出演および音楽提供である。音楽の依頼が先だったのだろうとつい思ってしまうが、実は当初、出演オファーのみだった。坂本龍一が音楽もやらせてくれるなら、と自ら交換条件を出したのである。彼はCMなどの映像に付ける音楽は多数手がけていたが、長編劇映画のサントラを一本丸ごと作るのは初めての経験だった。それだけに挑戦してみたい気持ちがあったのだろう。周知のように、このチャレンジは目覚ましい結果を生み、坂本龍一を「世界のサカモト」へと押し上げる起動因になる。

 大島渚は吉田喜重、篠田正浩とともに「松竹ヌーヴェルヴァーグ」などと呼ばれた松竹映画出身の監督だが、独立以後はATG配給の低予算映画で問題作を連発、1976年公開の日本・フランス合作『愛のコリーダ』は「阿部定事件」(1936年に東京尾久の待合「まさき」で阿部定という女性が愛人男性を性交中に絞殺、ペニスを切り取った事件)を描いた作品で、主演俳優に本物の性行為をさせたことで日本国内では物議を醸しつつ、世界各国で上映された。続く『愛の亡霊』(1978年)も日仏合作で、第31回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞している。

 そして次に挑んだのが、日本、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの合作による『戦場のメリークリスマス』だった。原作はローレンス・ヴァン・デル・ポストの二編の短編小説「影さす牢格子」「種子と蒔く者」(ともに『影の獄にて』に収録)。ヴァン・デル・ポストは南アフリカ共和国(当時はオレンジ自由国)出身のアフリカーナー(アフリカ南部に居住する白人のうち、イギリス以外のヨーロッパ各国からの移民をこう呼ぶ)の作家で、第二次大戦中は英国陸軍に入隊し、ジャワ島の日本軍捕虜収容所で経験したことをもとに、のちに『影の獄にて』にまとめられる短編小説三部作を執筆した。

 この邦訳を読んだ大島渚はすぐに映画化を思い立ったが、長期間の海外ロケと外国人俳優の起用を必須とするビッグバジェットの企画とあって、当初は資金繰りがかなり難航した。新進気鋭の映画プロデューサーだったジェレミー・トーマスが参画することで、このプロジェクトはようやく走り出す。大島はシナリオを何稿も書き改めており、映画になった最終的なヴァージョンでは原作にかなりの改変が施されている。最初の企画段階では、ジャック・セリアズ英国陸軍少佐には、原作者ヴァン・デル・ポストの提案もあってロバート・レッドフォードの名前が挙がっており、出演交渉もなされたが、内容的に多くの観客を見込めそうにないということで不調に終わり、デヴィッド・ボウイが主演したニコラス・ローグ監督『地球に落ちてきた男』(1976年)の製作にジェレミー・トーマスがかかわっていたことに加え(『戦場のメリークリスマス』の共同脚本に大島渚とともにクレジットされているポール・メイヤーズバーグは『地球に落ちてきた男』の脚本家でもある)、ボウイが日本のテレビCM(宝焼酎の「純」)に出演して一般的にも知られていたことから、この異色のキャスティングが実現した。英語タイトル『Merry Christmas, Mr. Lawrence』にその名が冠されているローレンス陸軍中佐にはイギリスの俳優トム・コンティがすんなり決まったが、シナリオ第一稿には存在しておらず、第二稿から主要登場人物に加えられたハラ軍曹は、滝田修、緒形拳などが検討されたが決まらず、困り果てていたところ、大島監督にひらめきが到来した。テレビ番組で共演したことのあるビートたけしだった。そして、ボウイ扮するセリアズと相対する収容所所長のヨノイ大尉も、俳優からミュージシャンまでさまざまな検討がなされたが、最終的に坂本龍一に白羽の矢が立った。ここで思い出されるのは、イエロー・マジック・オーケストラのときも坂本龍一は、細野晴臣のファースト・チョイスではなかったということである。彼の人生を変えた二つの大きな出来事は、いずれも偶然的な要素があったのだ。

 大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』については、もともと噂で聞いてはいた んです。どうもビートたけしが出るらしい、デヴィッド・ボウイが出るらしい、 等々。しばらくたったある日、大島さんからぼくのところに突然電話がかかってきて、お会いすることになりました。

 大島さんとはぼくの事務所で初めてお会いしたんですが、彼がやってきたときの様子は今でも記憶に残っています。ビルの2階にある事務所の窓から外を眺めていたら、 台本を小脇に抱えた大島さんがすたすたとひとりで歩いて来るのが見えたんです。 「来た来た!」と、大興奮でした。なにしろ、大島監督の作品は、高校、大学時代にほとんど観ていましたから。憧れの人だったんです。ちょっと緊張しました。

「映画に出てください」というのが、大島さんからのお話でした。ところが、ぼくは 「はい」と言う代わりに「音楽もやらせてください」と言った。(『音楽は自由にする』)

 「音楽もやらせてください」。この申し出は、なかば突発的なものだったようだが、今から思えば決定的な一言である。「役者として出る代わりに音楽をやらせてもらおう、そういう提案をしようと、予め考えていたわけではないんですよ。そもそも、映画音楽なんてやったこともないし、 やろうと思ったこともなかった。その場の思いつき、口から出まかせみたいなものだったんです。そうしたら、大島さんはすぐに「いいですよ」と。もちろんすごくうれしかったんですが、俳優も初めてなら映画音楽も初めての素人が、両方一度にやらせてくれなんて無茶を言っているのに、即座にOKするなんて、大島さんというのはすごい人だなあと思いました」(同)。こうして坂本龍一の映画初出演(それも主演のひとり)と映画音楽初挑戦が同時に決まった。

4 捕虜収容所で繰り広げられた「男たちの物語」

 原作の舞台はジャワ島だが、収容所シーンの撮影は南太平洋のラロトンガ島で行われた。映画は1982年8月23日にラロトンガでクランクインし、途中でニュージーランドのオークランドにロケ地を移して、10月7日にクランクアップした。1カ月余りの撮影期間は、かなりの早撮りに思える。予算上の制約や多忙な出演者たちのスケジュールの都合もあったのだろうが、大島渚が撮り直しを好まず、ファーストテイクの生々しさを極度に重視する監督であったことも大きかっただろう。このことは、坂本龍一とたけし(この時はまだ漫才コンビ「ツービート」のビートたけしであり、国際的な評価を受ける映画監督になるのはずっと先の話である)という、映画というものに初めて出演する二人にとっては幸いだった。演技らしい演技を忌み嫌う大島の演出スタイルが、彼らが自然体で役を演じることを可能にしたからである。坂本龍一のキャスティングは、ちょうどその頃に出版された、彼がモデルの一人を務めた稲越功一の写真集『男の肖像』と、同じ時期に彼が出演していた新潮文庫のCMが決め手になったという。坂本龍一はカメラの前に立つことにはすでに慣れていた。

 『戦場のメリークリスマス』の公開30周年を記念して2014年(大島渚はこの前年に亡くなっている)に放映されたWOWOWのドキュメンタリー番組の書籍版をもとに、2021年に映画が4K修復版でリバイバル・ロードショーされた際に内容を増補して再刊された『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実 ――『戦場のメリークリスマス30年目の真実』完全保存版』(WOWOW「ノンフィクションW」取材班/吉村栄一)には、映画が公開されるまでの紆余曲折を追ったドキュメント記事と、坂本龍一を含む出演者と関係者へのインタビューが収録されている。

 この映画の物語は、おおよそ次のようなものである。1942年、ジャワ島に置かれた日本軍捕虜収容所にセリアズという名の英国陸軍少佐が連行されてくる。収容所所長のヨノイは、セリアズの不遜で反抗的な態度に戸惑いつつも、次第に惹きつけられてゆく。収容所を仕切る鬼軍曹のハラと、日本語が話せるのでハラに通訳を命じられ、いつしか奇妙な友情を育んでいく英国人捕虜のローレンス。ヨノイとセリアズ、ハラとローレンスという、二組の日本人と英国人、この四人の男性はいずれも主役と言ってよいだろう。だがストーリーを動かすのは、また別の男性二人、朝鮮人軍属のカネモトとオランダ人捕虜のデ・ヨンである。カネモトがデ・ヨンをレイプする事件が起こり、ヨノイとハラは対応に追われる。このことがきっかけで、日本軍と連合軍捕虜とのあいだに軋轢が生じ始めたところに、セリアズがやってくる。この映画には女性がひとりも登場しない。映画の後半に挿入されるセリアズの回想シーンも含めて、とにかく男しか出てこない。このことは戦争時の捕虜収容所という舞台設定上、当然とも思えるが、大島渚はこの「男たちの物語」という点を徹底的に掘り下げることで、独自のドラマを構築している。

5 坂本龍一、デヴィッド・ボウイ、ビートたけし

 坂本龍一とデヴィッド・ボウイはこの撮影の前に雑誌『ニューミュージック・マガジン』の1979年2月号で対談したことがあったが、映画の現場にミュージシャンは彼ら二人だけということもあって、すぐに意気投合した。『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実』のインタビューで、坂本はこう語っている。

 ラロトンガで会ったデヴィッド・ボウイは、本当にフランクで自然につきあえる人だったんです。すごく気さくで、一緒にご飯を食べたり、お酒を飲んで話したり。 ラロトンガではほかに行くところもなくて、みんな撮影現場とホテルで集団行動なんですけど、それもあって話す機会がすごく多かった。ホテルでご飯を食べたあとに、食堂に置いてあるドラムをぼくが叩き、ボウイがギターを弾いて歌ってというセッションしたりとかすることもありました。そういうときは古いロックンロールを歌ってました。(『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実』)

 デヴィッド・ボウイは1947年生まれ、坂本龍一より5歳年上、細野晴臣と同い年である。撮影時、ボウイはまだ30代半ばだった。すでに国際的な名声を得ていたが、その人気を不動のものにするアルバム『レッツ・ダンス』(1983年)のレコーディングは『戦場のメリークリスマス』の撮影直後から開始されている。坂本龍一はボウイにサウンドトラックへの参加を打診したが、この映画には役者としてだけかかわりたいと固辞された。のちに映画がカンヌ映画祭に出品された際に二人は再会したが、「カンヌでのボウイは撮影中の気さくなボウイとはまったく人がちがって、完璧なスターの趣きでした。スーパースター。 ぼくはちょっとゾッとして、この人はいったいいくつ人格を持っているんだろうかってこわくもなった。 この完璧なスター然としたボウイが素のボウイなのか、ラロトンガでの自然に振る舞っていた彼のほうが素なのか、本当にわからなくなって、スターってすごいなって思いましたね」(同)。

 ぼくは同じミュージシャンだけど、自分を客観的にとらえても素のぼくとミュージシャンのときのふるまいや人格ってあんまり変わらないと思うんですよ。(同)

 確かにそうかもしれない。私の記憶にある彼もそうだ。だがデヴィッド・ボウイとはまた違う意味での多面性が、坂本龍一にも明らかにあった。

 撮影はタイトだったが、坂本龍一にとっては――おそらくデヴィッド・ボウイとビートたけしにとっても――非日常的な南国の島で、浮世のせわしなさからひと時離れて過ごす、贅沢な時間でもあった。

 たけしさんとも『戦メリ』が初対面でした。あの頃のたけしさんはお笑いブームの中で頂点に立っていて、 ぼくもお笑いの人だとしか思っていませんでした。ところが撮影に入ってあるとき、ホテルのたけしさんの部屋を訪ねたことがあって、そうしたら、部屋中に中学の参考書が山のように高く積まれてて、ところどころに赤線を引きながら読んでるんですよ。数学、理科、社会とあらゆる教科の勉強が好きな人なんだなあって、素顔に接した気持ちがしました。それから一緒にご飯を食べるようになると、相対性理論の話とかで二人で盛り上がっちゃって、ずいぶん熱く語り合ったりもしました。(同)

 ビートたけし=北野武は1947年生まれ、デヴィッド・ボウイと同い年である(誕生日も10日しか変わらない)。空前の漫才ブームは退潮の兆しを見せ始めていたが、たけし自身の人気は絶大だった。『戦場のメリークリスマス』が日本で劇場公開されるのは1983年5月だが、予告編にも使われたあまりにも有名なラストショットのなんとも言えない風情を湛えた笑顔をはじめ、複雑なニュアンスに富んだたけしの演技は評判を呼び、その夏に放映された実話をもとにしたテレビドラマ『昭和四十六年 大久保清の犯罪』で連続女性殺害事件の犯人を凄みたっぷりに演じると、役者としての評価はますます高まった。その後、1986年末に「フライデー襲撃事件」を起こして有罪となり謹慎するが程なく復帰し、1989年に『その男、凶暴につき』で映画監督デビューすることになる。

6 「役者って大変なんだ……」

 では俳優としての坂本龍一はどうだったか? 本人はこう語っている。

 台本をもらって読んでも、そんなに大事とはとらえていませんでした。なにしろ映画作りのイロハのイも知らない素人なので、なにも怖くない。役作り以前に、その頃に伸ばしていた髪を切らなきゃいけないとか、居合い、剣道の型を習わなきゃいけないと言われて、7~8回稽古に行ったのかな。そちらのほうが大変だったですね。(同)

 ラロトンガに向かう前に日本軍兵士の役者を集めた「軍事教練」も行われた。撮影監督の成島東一郎が「教官」となり「兵隊の扮装をして匍匐前進とか旧日本軍風の行進の練習」をした。本物さながらの厳しさだったという。もちろん坂本龍一も参加した。「ぼくの父は軍隊に行っているので、昔の軍人がどういう所作で振る舞うのか、どう敬礼するのかとかは父に聞いて自分でも練習しました」(同)。

 役作りというか、役者って大変なんだとわかったのはロケでラロトンガに行って、撮影現場に入ってからですね。まず、役者ってセリフを覚えなきゃいけないんだ!ということを知って驚愕したんですね。ぼく以外はみんなセリフを覚えてるの!って(笑)。(同)

 こんな発言からもわかるように、彼はこの映画の撮影を、終始一貫リラックスして、ヨノイを演じるというよりも彼自身のままで過ごした。それが大島渚の求めるものだったのだから、何ら問題はなかった。『戦場のメリークリスマス』をあらためて観てみると、俳優としての隠された才能を発揮したたけしに対して、坂本龍一の場合、演技にかんしてはズブの素人であったことが、かえって魅力に転化している。ちょっと舌足らずに聞こえる独特の滑舌は、ラジオやMCでの彼そのままである。ひとつだけ大きな違いがあるとすれば、映画の彼はけっして笑みを見せないということだろう。

7 映画史に残る、セリアズとヨノイのキスシーン

 ヨノイは規律と自己鍛錬を重んじる堅物の日本男児だが、セリアズに魅惑されることで、いわばアイデンティティ・クライシスに陥る。それが頂点に達するのが、名高いセリアズとヨノイのキス・シーンである。日本軍と連合軍捕虜の対立の果てに、反抗する捕虜のリーダーを刀で斬ろうとしたヨノイにセリアズが近づき、目の前に立ちはだかる。ヨノイはセリアズを突き倒すが、起き上がったセリアズは突然ヨノイに接吻する。ヨノイは驚きの表情を浮かべて、卒倒する。

 この場面は原作にあるのだが、大島渚が映画化を思い立ったきっかけのひとつだった。このシーンは、不思議な印象を与えるコマ落とし(?)のスローモーションになっているが、『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実』のジェレミー・トーマスや助監督の伊藤聡の証言によると、カメラの機材トラブルで撮影後のフィルムが破損して使えないコマが生じてしまい、秒数を稼ぐための苦肉の策だったという。だが結果としてこのシーンは、たけしのアップのストップモーションと並ぶ、映画史に残る名場面になった。

 男同士のキスといえば、「い・け・な・いルージュマジック」のミュージックビデオが思い出されるが、そこで坂本龍一と忌野清志郎が披露したのは唇と唇の接吻だった。セリアズがするのは両頬へのキスであり、友愛のキス、チークキスのようにも見える(唇は頬に触れているが)。このシーンが素晴らしいのは、『戦場のメリークリスマス』の物語において、ヨノイのセリアズに対する複雑きわまる感情の変化が、このわずか数秒のショットに凝縮されているからである。そしてそれは同時に、この映画の重要なテーマのひとつ、いや、最も重要なテーマと言ってよい「男性同士の恋愛」の結晶のごとき場面となっている。ヨノイにとってセリアズは、ファム・ファタール(運命の女)ならぬオム・ファタール(運命の男)である。セリアズはヨノイを誘惑しているつもりなどないのかもしれないが、ヨノイはセリアズに誘惑されているのである。捕虜を斬って捨てようとするヨノイに対してセリアズは、我々は敵味方であっても同じ人間同士なのだと伝えるべくキスをしたのかもしれない。だが、そのような習慣を持たない日本人のヨノイは、それを本気で受け取り、だから卒倒したのである。そもそもこの映画のドラマの出発点は、カネモトとデ・ヨンの関係だった。それも一方的なレイプではなく、二人はおそらく愛し合っていたということが判明する。ここにハラとローレンスの奇妙な友情を重ねてみれば、この映画が男と男の友情と恋情のグラデーションを描いていることがわかってくる。通訳などで撮影に参加したロジャー・パルパースは、『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実』で、ローレンスと恋人の女性のベッド・シーンが撮影されたが、編集段階で丸ごとカットされてしまったと証言している。大島渚監督は、男性しか画面に登場しない、男性だけの「恋愛映画」に、この映画を収斂させていった。このテーマは、新撰組をゲイの物語として描いた、大島監督の遺作となった『御法度』(1999年)に受け継がれる。この映画にはビートたけしが出演しており、音楽は坂本龍一である。

 イエロー・マジック・オーケストラはメイクをしていたし、忌野清志郎とキスをした「い・け・な・いルージュマジック」、デヴィッド・ボウイにキスされた『戦場のメリークリスマス』によって、坂本龍一には男性同性愛的なイメージ(あくまでもコマーシャルなイメージであり、実際のセクシャリティとは関係がない)が付与されることになった。何より彼は美青年だった。80年代前半は、70年代後半あたりから日本のサブカルチャー、特に少女マンガ(萩尾望都の一連のギムナジウムものや竹宮惠子『風と木の詩』など)から芽吹いた、今で言うボーイズラブ(BL)的な趣味性が伸長を見せた時代でもある。女性読者をターゲットにした男性同性愛専門誌「JUNE(ジュネ)」(1978年創刊)も人気だった。いわゆる二次創作はまだ流行していなかったが、もしもあったとしたら『戦メリ』は格好のネタにされていたことだろう。

 坂本龍一はヨノイを楽しんで演じた。彼の演技によって役柄に深みが与えられた場面もある。

 閲兵場で傷病兵の捕虜たちに突進してなぎ倒していくシーンは、ぼくのアドリブでした。あそこでヨノイの狂気みたいなものを出したかったんです。瀕死の重病人やけが人を容赦なく突き飛ばして、それは、西洋から見たら本当に野蛮で極悪に見えるような残酷な振る舞いを出したかった。自分の気持ちがあのときそうなったので、それをそのまま出したんですね。

 そういう気持ちをそのまま出してアドリブでああなったのだけど、演技の技術が伴っているわけじゃないから、果たしてあれはああやってよかったのかはわからない。ただ、大島さんは、ああいう役者から自然とあふれ出るものを期待してたんじゃないかなと、後になって思いました。実際、カットされずにそのまま映画に残ったわけですし。(同)

8 忘れがたき旋律

 さて、無事に撮影が終わると、今度は音楽である。坂本龍一にとっては本領発揮だが、とはいえ映画音楽をやるのは初めてだったし、一本の長編映画のサントラを全てひとりで手掛けるのは、当然のことながら相当な作業量である。そもそも映画音楽とはどのようなものなのか、それさえもよくわかっていないことに彼は気づいた。そこでプロデューサーのジェレミー・トーマスに参考にするべき映画を教えて欲しいと相談してみたところ、トーマスが挙げたのは『市民ケーン』(1941年)だった。監督と主演はオーソン・ウェルズ。音楽はバーナード・ハーマンである。早速ビデオを観て「参考にしたのは、オーケストレーションとかメロディーではなく、どういう部分に音楽がついて、どういうタイミングで消えるか、つまり純粋に映像との関係です。そのときぼくが出した答えはいたってシンプルで、映像の力が弱いところに音楽を入れる、ということでした。神秘的でもなんでもない」(『音楽は自由にする』)。

 もっとも、彼はこうも言っている。

 東京に戻ってラッシュで自分の演技を改めて観たときは衝撃で椅子からずり落ちそうになりました(笑)。 あまりにも下手すぎる! やばい。これはなんとかしなきゃと思って、よし、自分の演技のひどいところには音楽を入れてなんとかしようと、それをサントラを作るモチベーションにしました。(『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実』)

 実際に「映像の力が弱いところ」や「自分の演技のひどいところ」に音楽を入れたのかどうかはともかく、坂本龍一はサントラの作業を開始した。『戦場のメリークリスマス』の音楽を、彼はたったひとりで、ほぼシンセサイザーとサンプラーのみを用いて作り上げた。音楽制作には十分過ぎるほどの時間を掛けられたそうなので(約3カ月もあったという)、予算の問題ではなく、これは坂本龍一の意向だろう。シンセサイザー奏者のヴァンゲリスがサントラを担当したリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』(1982年)に触発された部分もあったのかもしれない。生楽器やオーケストラがまったく使われていない商業映画の音楽は、当時はまだ珍しかった。先行例だと、ジャン=リュック・ゴダール監督『勝手に逃げろ/人生』(1980年)のガブリエル・ヤレドが思い浮かぶくらいである。

 作業に入るに当たって、坂本龍一と大島渚は映画のどこに音楽を入れるべきかという案をそれぞれ作成し、突き合わせてみたところ、なんと9割方が一致していたという。大島監督も喜んで、坂本龍一に「好きにやってくれ」と任せてくれた。

 そう言ってもらえて喜び勇んで録音スタジオに入って、まず最初にメイン・テーマを作り始めました。まず映画のメインとなるテーマを作り、それに準ずるテーマを4つぐらい作っていった。映画では主要なキャストが4人いますから、その4人のテーマをまず作り、それぞれがストーリーの進行に合わせて絡み合っていく。物語の進行に合わせてそれぞれのテーマを変奏しながら使っていったんです。(同)

 映画音楽を担当するのは初めてだったが、坂本龍一は多くの映画を観ていたし、大島渚監督作品のファンでもあった。勢い込んで作ったに違いないが、一方ではこのように冷静な計算に基づいて作曲を行ってもいた。直感的な感覚と理性的な判断のミックスは、彼の音楽の特徴である。一度聴いたら誰もが忘れられなくなるような魅力的なメロディを思いつくのは天性の才能だが、その旋律が映像に合わされる際に、いかなる効果を発揮するか、それらをどう配して、どのように構成していくといいかは、また別の能力が必要になる。彼はそのいずれにも恵まれていた。

 また、映画の内容的には、イエロー・マジックとクロスするところもあった。

 メイン・テーマに関しては、わりと理詰めに考えて作りました。まずは「クリスマス・ソング」であるべきだろうということ。世の中には有名なクリスマス・ソングがいっぱいあります。それらを念頭に置いた上で、この映画らしいクリスマスの曲を作ろうと思ったんです。映画の舞台が南洋のアジアで、ストーリーも非常にオリエンタルというかエキゾチックなところがある。東洋の人間と西洋の人間の間での、わかりあえる部分、わかりあえない部分、通じるところ、対立するところが複雑に絡み合ったストーリーの映画。なので、東洋人が聴いても西洋人が聴いてもエキゾチックに聴こえるクリスマスの曲にしようと思ったんです。 ただ、これはけっこう難しくて、単なるアジア音楽では西洋人にとってはエキゾチックでも、アジアの人間にとっては普通に日常にあるものですから、普通の音楽にしか聴こえない。東洋人からも西洋人からもエキゾチックに聴こえる音楽はどういうものかをまず考えて、それをさらに主要なテーマであるクリスマス音楽に沿ったものにしなければならない。(同)

 この映画のメインテーマは、おそらく坂本龍一の音楽の中で、もっとも人口に膾炙したものだろう。あのメロディがなかったら、映画が与える印象はまったく異なるものになっていたに違いない。「東洋人が聴いても西洋人が聴いてもエキゾチックに聴こえる」曲というのは、言葉通りに取るなら、どこにも属していない音楽ということである。この世界の誰の耳にも、エキゾチックに、異境の音楽に聴こえるようなメロディ。だが、もちろんそれは単に奇抜なもの、変わった音楽ということではない。エキゾチックでありながら、耳心地の良さ、親しみやすさ、ある種の懐かしさが湧き上がってくるようなものでなければならない。特異性と普遍性を兼ね備えた音楽。このような言い方が許されるのかどうかわからないが、『戦場のメリークリスマス』という映画以上に、あのメロディはポピュラリティを獲得することになった。今も世界のどこかで、あの忘れ難い旋律が流れていることだろう。

9 「世界のサカモト」へ

 『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実』で、助監督の伊藤聡が、こんなエピソードを語っている。映画の編集段階で、例のキス・シーンを試写室で映写してスタッフで観ていたときのことである。

 その試写室に誰だかわからない外国人がひとりいて、なんだか黒い革ジャンを着て、前の椅子に足を上げてふんぞり返って観ている。態度が悪いからちょっと腹が立ったんですけど、その外人(ママ)が見終わるなり立ち上がって「映画史上最高のキスシーンだ!」と言い残して帰っていきました。

 ベルナルド・ベルトルッチ監督でした。(同)

 『戦場のメリークリスマス』公開の4年後、坂本龍一はベルナルド・ベルトルッチ監督『ラストエンペラー』(1987年)の音楽を担当(出演も)、この作品は第60回アカデミー賞で、作品賞、監督賞などとともに作曲賞を受賞する。

 「世界のサカモト」の誕生である。

 

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