「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第11回 「イエロー・マジック」との闘い(その6)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第11回の公開です! 

1 カンヌ国際映画祭、ベルトルッチ監督との出会い

 『戦場のメリークリスマス』は、1983年の1月半ばに完成し、同年5月末に予定された、この種の芸術映画としては大規模な全国公開に向けて、宣伝チームが動き始めた。その際にもっとも重視されたのが、公開直前に開催されるカンヌ国際映画祭への出品である。大島渚監督は前作『愛の亡霊』(1978年)でこの映画祭の監督賞を受賞しており、カンヌの最高賞であるパルム・ドールの受賞は悲願でもあった。

 書籍『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実 ――『戦場のメリークリスマス30年目の真実』完全保存版』(WOWOW「ノンフィクションW」取材班/吉村栄一)には、当時の関係者たちの奔走ぶりが赤裸々に記されている。プロデューサーのジェレミー・トーマスは、デヴィッド・ボウイや坂本龍一ら豪華キャストが顔を揃えた記者会見やレセプションを開き、胸に「THE OSHIMA GANG」とプリントされた揃いのTシャツをスタッフが着用し、プレス陣にもプレゼントするなど大掛かりなプロモーションを展開し、『戦場のメリークリスマス』はこの年のカンヌで最大の話題作となった。

 だが、結果は実に皮肉なものだった。パルム・ドールを受賞したのは、今村昌平監督の『楢山節考』だったのだ。関係者の落胆ぶりも、『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実』には描かれている。深沢七郎原作の、いかにも日本情緒的な作品に、国際色豊かな大島ギャングは敵わなかった。これは私見だが、グローバルな題材よりも、その国々(しばしば非西欧諸国)のローカリティを主題とする作品が評価されやすいという傾向は、その後のカンヌ映画祭にも受け継がれているように思われる。

 カンヌでの大賞は逃したが、『戦場のメリークリスマス』は日本で封切られると、映画館の前に連日長蛇の列ができる大ヒットとなった。私も観た。上京してまもない頃だったと思う。YMOの坂本龍一と、あのビートたけしと、あのデヴィッド・ボウイが出ているとあっては、列に並ばないわけにはいかない。大島渚の映画も、すでに何本か観ていた(『儀式』(1971年)には衝撃を受けた)。だが、初見の時は内容的にはあまりピンと来なかったのではないかと思う。あの映画に込められたテーマ群の複雑極まりない絡み合いを理解するには、18歳の私は知識も経験も足りなかった。ただ、坂本の音楽と、ビートたけしの笑顔だけが記憶に残った。

 『戦場のメリークリスマス』は88年のカンヌ映画祭にも出品され、ぼくは5月にカンヌに行きました。そこで、ベルナルド・ベルトルッチ監督と対面します。

 ベルトルッチは、「中国の最後の皇帝の映画を作ろうと思っている」とか、「そのための中国との交渉がすごく大変だ」とか、いろいろと話を聞かせてくれました。ぼくはずっと彼のファンだったので、幸せな気分で、たぶん目をキラキラさせて聞いていたと思います。

 こんな魅力的な人と仕事がしたい、大島さんだけじゃなくてベルトルッチともやりたい、とぼくは思いました。なにしろ、貪欲な青年でしたから。でもまさか、自分が彼の作品の音楽を担当することになるとは思っていませんでしたし、実際彼の方からぼくに音楽をやってほしい、というような話はまったくありませんでした。

 このころにはまだ、将来的にも映画音楽に携わっていこうとは考えていなかったように思います。基本的に目の前のことしか考えていないタイプですし、そもそもYMOに参加して音楽を一生の仕事として意識したこと自体、せいぜいこの2、3年前のことでしたから。

 でも、いま振り返ってみると、『戦メリ』に関わって、カンヌでベルトルッチに会ってという展開は、ぼくのその後の仕事の中でもとくに重要なものとなる「映画音楽」という一つの軸を形作ったことになります。(『音楽は自由にする』)

 坂本龍一の人生は「そのつもりではなかったのに、どういうわけか、そうなった」の連続である。音楽の道を選んだこと自体がそうだし、イエロー・マジック・オーケストラへの加入も、YMOのブレイクも、『戦場のメリークリスマス』も、ベルトルッチとの出会いも、映画音楽家としてのその後の歩みも、すべてが彼自身の意志というよりも、向こうからやってきた、思いがけないことばかりだった。この意味で彼は受動的なタイプの人間だった。だが、いったん受動した後のエネルギーの噴出と持続性が尋常ではなかった。彼は自ら選ぶよりも、誰かに選ばれることの方が、少なくともキャリアのこの段階までは、明らかに多かった。にもかかわらず、彼はやはり、なるべくして「世界のサカモト」になったのだとも思う。

2 「祭りのあと」という感覚

 だが、坂本龍一が遺した自伝や発言を読み返していると、彼が何度となく、「音楽家にならなかった世界線の自分」に思いを馳せていたことがわかってくる。彼の才能と運命が、彼を「世界のサカモト」にした。そして結局のところ、それは彼自身が選び取ったことでもあった。それでもなお、おそらく晩年まで、ひょっとしたらその死に直面してもなお、彼は、「教授」ではなかった坂本龍一、を頭のどこかで夢想していたのではないか、そう思えてならない。

 映画祭自体の華やかさも心に残りましたが、カンヌのことでいちばん印象が強かったのは、映画祭期間中と「祭りのあと」との落差でした。都合があって、ぼくはフェスティバルの翌日まで居残ることになり、たまたま、すごく閑散としたカンヌの街も見ることになりました。世界中から集まってきた赤絨毯の上のセレブたちも、企画の売り買いをする業界人たちも一気に姿を消して、誰もいなくなった浜辺を眺めていると、こうも変わるものなのか、と思った。一夜にして、静かな、ちょっと寂れた海辺の街に戻っていたんです。(同)

 彼はカンヌ映画祭の後、アンティーブやニースにも行って、ゴダールの『気狂いピエロ』のラストシーンを思い出したり、ドビュッシーもこんな景色を見たのだろうかと考えたり、スティーブ・ライヒを聴きながらぼんやり地中海を眺めてみたりと、しばしの休暇を過ごしたという。この「祭りのあと」という感覚は、永遠に終わらない祭りのような生涯を送った坂本龍一について考える上で、きわめて重要なものだと思う。狂騒の終わりにふと訪れる、無為で空虚な、だが豊かで甘やかな時間。クールダウン。チルアウト。雑踏の隙間に現れる静けさ。ノイズとサイレンスの共存。緊張と脱力の、興奮と平穏の混淆。

3 YMO的戦略でリリースされた「君に、胸キュン。」

 とはいうものの、休んでばかりもいられない。実は『戦場のメリークリスマス』のサントラ制作と並行して、YMOの新作レコーディングも始まっていた。1982年をそれぞれに過ごしたメンバーは、リフレッシュ(?)して再結集した。だが約1年間のソロ活動は、グループへの熱意を取り戻すよりも、むしろ逆に作用した。坂本龍一だけでなく、他の二人も、個人でやりたいことがより明確になり、ポジティヴな気持ちで「YMOの終わり」について考えるようになっていたのだ。『BGM』と『テクノデリック』で、3人で追求できる新たなる音楽のかたちには一定の答えを出せたという手応えがあった。では、YMOまだとしてやれていないことは何だろうか? シングル曲の大ヒットだ。こうして「君に、胸キュン。」が誕生した。

 テクノポップ~ニューウェーブが流行した80年代前半は、歌謡曲の最盛期でもある。はっぴいえんどで細野晴臣と一緒だった松本隆は、この頃には作詞家として売れっ子になっていた。同じくはっぴいえんどの一員だった大瀧詠一とともに、松本に招き入れられるようにして、細野も歌謡曲、特にアイドルに数々の楽曲を提供した。この時期には彼らだけでなく、70年代から活動していた他のバンドのメンバーやシンガーソングライターが、歌謡曲の世界に作曲家として続々と参入し、ヒット曲を生み出していた。この動向における松本隆の役割は決定的と言えるものだが、「君に、胸キュン。」は、YMOとしては初めて松本に作詞を依頼し、作曲はメンバー3人がパートを分担して行なった(坂本龍一はイントロとAメロを担当した)。矢野顕子のスマッシュ・ヒット「春咲小紅」(1981年)にはYMO全員が参加したが、「君に、胸キュン。」もこの曲と同じカネボウ化粧品のコマーシャル・ソングで、坂本龍一×忌野清志郎の資生堂のCM曲「い・け・な・いルージュマジック」(1982年)が大ヒットしたことも、彼らの頭にはあっただろう。日本語の歌詞、ポップで明るい曲調、より魅力の増した高橋幸宏のヴォーカルと、ヒットする要素も複数あった。YMOは「かわいいオジサン」というコンセプトでMVに出演し、テレビの歌番組や雑誌記事で「オリコン・チャートで1位を獲る」と宣言、それ自体を宣伝効果にするという、いかにも彼ららしい戦略に打って出た。

 「君に、胸キュン。」は1983年3月25日に満を持してリリースされたが、結論を言えば、オリコンの1位は獲れなかった。しかも、この時に1位になったのは、松本隆作詞、細野晴臣作曲の松田聖子「天国のキッス」だったのだ。なんとも皮肉な話である。それでもオリコンでは最高2位を獲得、YMO最大のヒット曲になった。

4 YMOミーツ歌謡曲とでもいうべき『浮気なぼくら』

 そして5月に、この曲を含むアルバム『浮気なぼくら』が発売された。全曲「歌もの」で、『BGM』『テクノデリック』の実験性から真逆に振り切った作品だが、これも裏目読みと逆張りを確信犯的に駆使してきたYMOらしい振る舞いというべきだろう。作詞は、一曲目の「君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)」(アルバムではこのクレジット)のみが松本隆で、他は基本的に作曲したメンバーが、英語の部分はピーター・バラカンの助力を得つつ書いている。作曲は、3人の共作は「胸キュン。」だけで、細野晴臣による作詞作曲が「LOTUS LOVE」、高橋幸宏単独作が「EXPECTED WAY/希望の路」と「OPENED MY EYES」(作詞にバラカンが参加)、坂本龍一による作詞作曲が「ONGAKU/音楽」と「KAI-KOH/邂逅」、残り四曲は2人ずつの組み合わせによる共作となっている。YMOのアルバムでは初の外国人ゲスト・ミュージシャン、ビル・ネルソンがギターで参加している(本作のゲストは彼のみ。ビル・ネルソンは、ビー・バップ・デラックス~レッド・ノイズを経て当時はテクノポップ的なソロ作を発表していた)。また、メンバー各自が機材を操作するようになったため、松武秀樹は制作から外れ、藤井丈司がテクニカル・アシスタントとしてクレジットされている。

 「ONGAKU」は、坂本龍一と矢野顕子の娘、当時3歳だった坂本美雨のために書いた曲で、「ぼくは地図帳拡げて、オンガク/きみはピアノに登って、オンガク、ハハ/待ってる、一緒に、歌う時」という歌詞の「きみ」は美雨のことだろう。ヴォーカルは彼一人ではなく、3人で入れ替わり立ち替わり歌っている。オンガクのよろこびと来るべき未来への期待、弾けるようなリズムの多幸感に満ちた曲で、YMO以後も長く演奏されていくこととなる。

 「KAI-KOH」の歌詞は、「ONGAKU」とは対照的なものだ。

今は歌えない

素敵な Love Song

ひとりで

歩いてた

いままでの

ぼくサヨナラ

走りすぎてきた もう何もなくて

ここには

いられない

いままでの

ぼくサヨナラ

 同じアルバムにこれほど異なった歌詞の自作曲を入れた坂本の想いはどのようなものだったのだろうか? この曲の背景には、『戦場のメリークリスマス』とよく似た音色が聴こえる(当時最新鋭のサンプラーだったイミュレーターが使用されている)。

 高橋幸宏作詞、高橋と坂本龍一が作曲の「EXPECTING RIVERS/希望の河」は、サウンドは典型的なYMOの“テクノ”だが、歌謡曲と言ってもいいような非常にわかりやすいサビを持っている。アルバムの最後を飾る「WILD AMBITIONS」は、作詞は細野晴臣、作曲は細野と坂本龍一で、YMOの歴史を通じて二人の合作はこの曲のみである。まさに両者の個性が掛け合わされたようなビートだが、クセの強い歌唱と交互に入るピアノの華麗なメロディ(ビートルズ「レット・イット・ビー」を思わせる箇所がある)のアンバランスさが面白い。

 『浮気なぼくら』は、アルバム全体として、YMOミーツ歌謡曲とでもいうべき仕上がりになっている。テクノポップならぬテクノポップスと呼ぶこともできるかもしれない。この作品とはちょうど正反対に、当時の歌謡曲には、テクノポップ~ニューウェーブ系のミュージシャンが作曲、編曲、演奏で参加したり、テクノ的なアレンジを取り入れたりした曲が多かった。細野晴臣は松本隆とのコンビで、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」(1981年)やスターボー「ハートブレイク太陽族」(1982年)など、のちに「テクノ歌謡」などと呼ばれることになる、テクノチックなポップスを手がけていたし、坂本龍一も、YMOが全員参加した郷ひろみのアルバム『比呂魅卿の犯罪』(1983年)、谷川俊太郎を作詞に迎えたビートたけしの歌手デビュー曲「TAKESHIの、たかをくくろうか」(1983年)、クールファイブを脱退してソロになった前川清の初シングルで、作詞が糸井重里の「雪列車」(1982年、B面は橋本治作詞の「真昼なり」)、美空ひばり「笑ってよムーンライト」(1983年。来生えつこ作詞、来生たかお作曲、坂本龍一は編曲とプロデュースのみ)など、アイドルから演歌歌手の楽曲まで幅広く活躍していた。

 『浮気なぼくら』は、そのような歌謡曲仕事をYMOにフィードバックさせたアルバムということができるだろう。ここでひとつ言えることは、坂本龍一や細野晴臣にとって、テクノポップと呼ばれた音楽スタイルも、彼らが自家薬籠中のものにしてきたさまざまな音楽のひとつだったということである。使用、援用、引用、応用が可能な多種多様な音楽の手法や意匠を、最新鋭のテクノロジーを使って、自由自在に組み合わせ、掛け合わせることによって、彼らはその時々のサウンドを創り上げ、プロフェッショナルとして他者に提供し、そうした経験を自らの音楽へと再回収していった。このようなサンプリング的な(最新の「楽器」としてのサンプラーをいち早く取り入れたのも彼らだった)な発想も、80年代に芽吹いたものである。歌謡曲にテクノの要素を導入することも、テクノに歌謡曲を注入することも、彼らにとっては容易で自然なことだった。

 『浮気なぼくら』の約2カ月後、YMOは同じ路線のシングル「過激な淑女」をリリースしている。この曲は、細野晴臣が作曲した中森明菜の5枚目のシングル候補2曲のうちのひとつだったが、採用されたのは売野雅勇が作詞した「禁句」(これも「テクノ歌謡」と呼ぶべき仕上がりである)の方で、残った曲に松本隆が歌詞を付けたものである。「禁句」の姉妹作とも言うべきドラマチックな曲調で(作曲はYMO名義)、「君に胸キュン。」以上に歌謡曲的だが、オリコンチャートでは15位にとどまった。この曲は、1984年末にリリースされたYMOのベスト・アルバム『シールド』に収録されている。また「過激な淑女」と同日に、『浮気なぼくら』からヴォーカルを抜いたインストゥルメンタル・アルバムもリリースされている。

 『浮気なぼくら』のリリースに先がけて、坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』が手がけたサウンドトラック盤も発売された。このアルバムにはボーナス・トラックとして、映画のあのメインテーマに、元ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンが英語詞を付けて歌ったヴォーカル・ヴァージョン「禁じられた色彩」が収録され、日本およびヨーロッパでシングルカットもされた(デヴィッド・シルヴィアンとは『B2ユニット』の録音のためイギリスに滞在した際に知り合い、終生の「親友」の一人となった)。このサントラは英国アカデミー賞で作曲賞を受賞、アジア人音楽家の受賞は史上初の快挙だった。

5 1983年、「散開」宣言

 この年の秋、YMOは「散開」を宣言した。解けて散る解散ではなく、散って開く散開。敢えてポジティヴさを強調したメッセージだった。このワードセンスも相まって、「散開」はメディアで大きく取り上げられ、YMOの人気はふたたび加熱した。その盛り上がりのまま、彼らは(後から思えば一度目の)フィナーレに向かっていくことになった。1983年の冬、YMOは日本全国6カ所を回る「散開ツアー」を行った。その最中に第一次YMOの最後のスタジオ・アルバム『サーヴィス』がリリースされる。

 もともとYMOは『浮気なぼくら』をラスト作にするつもりだったが、散開ツアーもあり、まさにファン・サーヴィスのつもりで『サーヴィス』を録音した。このアルバムの収録時間は1時間近くあるが、スネークマンショーと組んだ『増殖』と同じく、曲の合間にコントが挟まれる特殊な構成となっている。当時、人気があった劇団スーパー・エキセントリック・シアター(主宰者は三宅裕司)がフィーチャーされており、『増殖』のいささか度を越したブラックさに比べると、より一般ウケしやすそうなコントが収録されている(YMOとこの劇団の共演コントもある)。バンドとしての活動の終わりに、こんな企画をやってのけるのも、YMOらしいヒネクレ具合である。

 『サーヴィス』には全7曲が収録されている。作詞はメンバーとピーター・バラカン(英訳)。作曲は細野晴臣が「THE MADMEN」、高橋幸宏が「CHINESE WHISPERS」、坂本龍一が「PERSPECTIVE」と1曲ずつ提供し、「LIMBO」を高橋幸宏と細野晴臣が、「以心電信」「SHADOWS ON THE GROUND」を坂本龍一と高橋幸宏が共作、「SEE-THROUGH」がYMOの作曲となっている。『増殖』もそうだったが、どうしてもコントのインパクトが強いので、他のアルバムに比べて収録曲の印象が薄れがちだが、このアルバムは名曲揃いである。細野晴臣の野太いベースと低音のラップがカッコ良い「LIMBO」、やはりベースがすごい細野作「THE MADMEN」(諸星大二郎のマンガ『マッドメン(本来のスペルはMUDMEN)』へのオマージュ)は『フィルハーモニー』と『S・F・X』(1984年)を繋ぐクールでダンサブルなチューン。高橋作の「CHINESE WHISPERS」はディスコ調の、良い意味で俗っぽい曲である。「SHADOWS ON THE GROUND」はミドルテンポのオシャレな雰囲気の曲。曲の始まりはボサノヴァ風だが、サビの展開は当時流行していたAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)的である。「SEE-THROUGH」は、「過激な淑女」のB面に収録されていた、従来のYMOのイメージに近い曲。この曲の歌詞は、ピーター・バラカンが単独で書いている。

 先行シングルだった「以心電信」(英語タイトル「You've Got To Help Yourself」)は、国際連合が定めた「世界コミュニケーション年(World Communications Year=WCY)」のテーマ曲で、すでに30秒の「予告編」が『浮気なぼくら』に収録されていた。ビートルズ的と言ってもいいような牧歌的なムードを持った、明るさと憂いが絶妙にブレンドされた非常にポップな日本語曲で、YMOミーツ歌謡曲の「テクノポップス」の最高傑作である。この曲もライブの定番曲になっていく。そして坂本龍一作曲「PERSPECTIVE」は、歌謡曲というよりJポップ的なフックの多いメロディを彼自身が朗々と歌う、感動的な曲である。

 『サーヴィス』リリースの4日前に坂本龍一は、『戦場のメリークリスマス』のサウンドトラックをアコースティック・ピアノで弾き直したソロ・アルバム『CODA』をリリースしている。これはカセット・ブック『Avec Piano』として発売されていた音源に未収録曲を加えて音盤化したものである。コーダ=終曲部というタイトルには、『戦場のメリークリスマス』とイエロー・マジック・オーケストラ両方の「終わり」という意味が込められていたのかもしれない。それにしても、最初から最後まで「教授」とYMOは、まるで追いかけっこをするようにリリースを続けたことになる。

 散開ツアーのラストは1983年12月22日、日本武道館のWCY無料チャリティ・コンサートだった。これに先立ち12月12日と13日に開催された武道館公演を収めたライブ・アルバム『アフター・サーヴィス』を84年2月にリリースして、イエロー・マジック・オーケストラは「散開」した。78年の冬から足掛け6年だが、そのうちの1年はバンドとしては何もしていないので、おおよそ5年の活動期間だったことになる。なんと濃密な5年だったことか。YMOの一員でありつつ、個人的な活動も旺盛に繰り広げた坂本龍一は、気づけば『千のナイフ』制作時とはまったく違う境遇に立ち至っていた。だが、『アフター・サーヴィス』のリリース時に彼はまだ32歳の若さだったのだ。

6 YMOの終焉を記録した映画『プロパガンダ』 

 『アフター・サーヴィス』と同じ武道館ライブの映像をもとにした映画『プロパガンダ(A Y.M.O. FILM PROPAGANDA)』が1984年4月に公開された。いわば「アフター・アフター・サービス」だが、この映画は極めて奇妙な作品である。いちおうは「散開ツアー」のドキュメンタリー映画ということになるのだが、一種のドラマ仕立てというか、学生服の少年が登場する謎めいたパートが追加されており、演奏の様子が一曲丸ごと映し出されるのは、たった2曲に過ぎない。かつて私は『ニッポンの音楽』の中で、この映画について、やや詳細に分析した。長くなるが引用する。

 映画のオープニング・シーンは、列車の発射音が響いて、どことも知れない、どこか荒涼とした雰囲気の「昭和駅」に、まだ幼顔の残る白シャツ黒ズボンの少年が、バケツと何枚もの丸めたポスターらしきものを持って降り立つところから始まります。工場のサイレンの音が聞こえています。少年が踏切を越えて通り過ぎる建物の壁には「昭和電工川崎生活協同組合」という表示があります。電車の警笛や工場の駆動音のような音がしています。そこに女性のナレーション。「時として、言葉でものを伝達するには、現実があまりに複雑になってしまうことがある。伝説が、それを新しい形に作り直し、世界に送り届ける」。これはゴダールの『アルファヴィル』からの引用です。少年は他に誰ひとり姿の見えない閑散とした町のあちこちに、ポスターを貼っていきます。そこには赤地に白丸の上から、三人の人物のシルエットが描かれており、上から「YMO」と記されています。そこに大きな飛行機の音が被さってきて、映像がストップモーションになって、メイン・タイトルが出ます。

 (中略)少年はやがてYMOの散開コンサートの会場(武道館ではなく、工業地帯の空き地にそびえ立っている)に紛れ込み、演奏を目撃、いや幻視します。ライヴが最高潮に達した「ライディーン」の演奏中、いつのまにか海岸に移っていたステージは燃え上がり、炎に包まれながらYMOは音楽を続けます。やがてセットは全て燃え落ちてしまいます(この撮影は実際に武道館で使われたセットを千葉の海岸に丸ごと持ち込んで行われたそうです)。この映画は、冒頭の女性とラストの少年のナレーション以外、台詞は一切ありません。少年の語りは、このようなものです。「僕は、この話を誰にもしてやらないことに決めた。来年の、次の年の、また次の年になったら、僕だって、もうすっかり忘れているんだ」。ここには哀切な、だが冷徹なアイロニーがあります。

 まず何よりも、冒頭の「昭和駅」という(架空の)駅名に引っかかります。言うまでもなく、この時はまだ1984年であり、昭和が終わるのは1989年です。しかし明らかに、ここには「昭和」へのノスタルジーのような感覚がうかがえます。ノスタルジーと言っても、それは非常に倒錯的なものであり、装われたアナクロニズムともいうべきかもしれません。この「昭和」は、映画の撮影/公開当時の「トーキョー=トキオ」にとって、いわば置き忘れられた過去のようなものとして描かれています。西暦1984年は、昭和59年です。昭和50年代の終わりですね。「昭和的なるもの」の葬送と追慕がアンビヴァレントに折り重ねられた風景が、ここにはあります。常に颯爽と時代の先端を切り拓いてきた、最新流行の象徴ともいうべきYMOの終焉を記録した映画の舞台が、このようなものであったということは、とても意味深長だと思います。

 また、映画のタイトルが『プロパガンダ』であり、散開コンサートのステージ・セットも、YMOのコスチュームも、明らかにファシズム的、ナチ的、第三帝国的な意匠になっています。これは初期の彼らが人民服を着てテクノカットにして、フェイクなチャイニーズ的なイメージを纏っていたことを考えると面白いです。演奏中の彼らは笑顔ひとつ見せず、ほとんど無表情であり、これも初期に戻ったかのような印象を与えるのですが、共産主義が全体主義に変化してしまっているわけで、これはもちろん、イデオロギー的心情とはまた別次元の問題です。坂本龍一が左翼的と言っていい思想スタンスを持っていることは間違いありませんが、YMOはむしろ、シリアスな主義や主張を遊戯的に隠蔽し攪乱するような振る舞いを一貫して取っていたのですから。(『ニッポンの音楽』)

 この映画の脚本監督を務めたのは佐藤信。寺山修司、唐十郎、鈴木忠志とともに、いわゆるアングラ演劇四天王と呼ばれた演劇作家で、劇団黒テントを主宰していた人物である。今となっては、この起用はかなり意外なものに思えるが、実は武道館公演の舞台演出も佐藤が手がけていた(前述したように坂本龍一は“アブ”の時代にアングラ演劇にもかかわっていたが、その頃からの関わりなのかもしれない)。どこが佐藤のアイデアで、どこがメンバーの意向だったのかは定かでないが、ともかく最後の最後までYMOは倒錯的な戦略を身にまとってみせたのだった。

7 村上春樹の坂本龍一論

 『プロパガンダ』の映画パンフレットには、YMOのメンバーそれぞれにかんして三人の人物がコラムを寄せており、矢野顕子が細野晴臣、景山民夫が高橋幸宏、そして村上春樹が坂本龍一について寄稿している。春樹の文章は、坂本龍一のアルバムと同じ「左うでの夢」という題名である。春樹は「僕はどういうわけか双子と左ききが昔からとても好きである」と述べてから、こう書く。

 坂本龍一氏は双子であることが雰囲気的によく似合いそうな人だが、 残念ながら双子ではなくて、でも左ききである。僕が最初に坂本龍一氏に会ったのは(といってもそのとき一回会ったきりなのだが) 雑誌の短かい対談みたいな仕事のためで、写真を撮るために二人で並んでごはんを食べたのだけど、僕が左側に座って龍一氏が右側に座ったせいで、二人のはしを持つ手の肘がコンコンとしょっちゅうぶつかって、 そんなわけで僕は彼が左ききであることをすごくリアルに認識したのである。

 これは僕のあくまで直観的な想像であって、もちろん見当違いかもしれないわけだが、もし坂本龍一が左ききでなかったとしたら、 その右腕坂本龍一は今ある左腕坂本龍一とはかなり展望・見はらし を異にした音楽を展開していたのではないかと、ふと思うのである。僕はとにかくそれ以来坂本龍一の音楽を聴くたびに、必ずあの肘のコンコンを思い出す。彼の音楽の中には奇妙にシンメトリカルな要素と奇妙にアンバランスな要素が同時存在していて、その背反性がちょっと他では味わえないような緊迫感を生み出しているように、僕には感じられるのである。(「左うでの夢」)

 このあと春樹は、自分は右利きで、だから体が右に傾いている。「長いあいだにそういう傾き方の矛盾が、 どうしても体内にたまってくる。そういうときに、一日ぶっとおしで、下手でもいいからピアノに向ってバッハの二声のインヴェンションの練習をすると、体の中のこりのようなものがするっと落ちて、また気持よく文章が書けるようになる。音楽の中には感性や情感云々という以前に、そういった純粋にフィジカルなカタルシスが含まれているはずだ」と述べて、また坂本龍一の話に戻る。

 坂本龍一のもたらすカタルシスには、肉体的浄化というより肉体的困惑とでも表すべき色あいが強い。それは体の中のこりを抜くのではなく、どちらかというとそれをへんな角度にユリゲラー風にねじ曲げてしまうのだ。そういう意味あいでは、坂本龍一の作りだす左きき音楽は、方向性としてアグレッシヴであると僕は思う。変な言い方だけど、僕は彼の音楽を妖術あわせ鏡といったかんじに捉えている。存在を賭したまやかしーーというと言葉が少しきつすぎるかもしれない。でも僕はそういう種類のねじまげられた肉体的反応にとても強くひかれるのである。(同)

 このとき村上春樹は、長編小説としては第三作『羊をめぐる冒険』(1982年)までしか発表しておらず、最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』(1983年)が出てまもなかった頃だが、さすがに切れ味鋭い、ユニークな坂本龍一論である。

8 ポスト・パンクの申し子だったYMO

 もう少し拙著から引用させてほしい。1992年刊の単行本からの孫引きから始まるが、細野晴臣の発言である(聞き手は北中正和)。

 細野 YMOをやってて、コピー・バンドがいっぱい出てくるって予想してたんですが、いなかったんですよ。YMOは後期になってからは誰でも演奏できるようなものだったんです。一つだけ小学生のバンドが真似して出てきましたが(コスミック・インベンションのこと:引用者注)、それほど安易にコピーできる単純性を持ってたんです。「ライディーン」とかあのころのYMOは、マニュアルさえあれば、誰でもできるというスタイルだったんです。それだけにコピーする意味がないというか(笑) (『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』)

 これに続く発言は、とても重要です。

 音楽的な影響は日本ではそれほど大きくなかった。キャラクターで売れてくる国だな、という感想を持ったことがありますね。最初は顔を隠して、匿名性を徹底してやろうと思っていた意志が崩れて、一人ひとりキャラクターとして扱われだして、どうしても顔が出ていっちゃう。逆に、僕たちのもくろみは外国で成功したと思うんです。匿名性という意味でも、音楽的な影響を残したという意味でも、ディテールに至るまでね。(同)

 この発言からわかるのは、YMOもやはり、紛れもないポスト・パンクの申し子であったということです。細野晴臣の頭の中には、間違いなくそういう意識が最初からあった。つまり、すでにミュージシャンとして十年のキャリアのあった細野にとって、また他の二人にとっても、続々と出てくるテクノロジーに対応した音楽を作っていくことは、音楽的な進化のみならず、パンク以後のラディカリズムを、あるかなり特異なやり方で引き受けようとすることだったのだということです。第一にそれは、いまだ使用法やその可能性が未知数のテクノロジーとの格闘でした。楽器から機材へ。曲作りと音作りは、それ以前は基本的に別々の作業でした。YMOによって初めて意識的に、その二つは密接に連結され、あるいは並行するようになった。それから、もっと重要なのは、細野が語っている「匿名性」と「誰でもできる」ということです。マニュアルさえあれば、誰もがYMOになれる、というのは極めて過激な考えです。そしてそれは「3コードが弾ければ音楽はやれる」と言ったパンクスと、やはり似ています。アーティストが顔や名前を持つことをやめ(匿名性)、そして誰でもアーティストになれる、という、まったく新しい音楽のユートピアを、細野は夢想していたのかもしれません。しかし、それは、彼ら自身がキャラクターとして人気を獲得するとともに、潰え去っていくことになったのでした。もちろん、それを細野自身も回避はせず、むしろ自ら乗っていったのだと思います。したがって右の発言は、とてもアンヴィヴァレントなものだと言えます。しかし、このこと自体も、とてもYMO的です。(『ニッポンの音楽』)

 坂本龍一にとっても、それは同様だった。彼がシンセサイザーやシークエンサーといった新しい電子楽器に見出した可能性とは、まさに「マニュアル」さえあれば「誰でもできる」ということだった。前にも引用した『音楽は自由にする』の一節を思い出そう。

 電子音楽に興味を持っていたのは、「西洋音楽は袋小路に入ってしまった」ということのほかに、「人民のための音楽」というようなことも考えていたからなんです。つまり、特別な音楽教育を受けた人でなくても音楽的な喜びが得られるような、一種のゲーム理論的な作曲はできないものかと思っていた。作曲は誰でもできるはずだ、誰でもできるものでなくてはいけないはずだ、と思っていました。(『音楽は自由にする』)

 パンクは「人民のための音楽」を標榜したし、ある面では実際にそうなった。だが、それはプリミティヴな、初期衝動的な次元に留まっていた。テクノポップ、すなわちテクノロジーのポップは、文字通り「技術」の力を借りることで、音楽としての進化/深化と「パンク以後のラディカリズム」を共存させるものになり得る、坂本龍一は(細野晴臣も)そう考えた。彼らのヴィジョン――作曲という秘技、音楽という奥義を、一部の特権的な選ばれし者たちから奪取し、無名の誰でもない誰かへと解放すること――は90年代以降に、パーソナル・コンピュータによる音楽制作=DTM(Desk Top Music)によって実現したと言えるかもしれない。だが、少なくともこの時点、1980年代半ばにおいては、そういうことにはならなかった。匿名性どころか、YMOは、坂本龍一は、望まずして音楽シーンのスーパースターに、メディアの寵児になってしまった。いや、望まずして、というのは間違いだろう。彼らは、彼は、やはりそれをどこかで望んでもいたのだ。

9 ふたたび、ひとりになった坂本龍一

 80年代とは、音楽を含む、いや、おそらくは音楽を中心として、日本のサブカルチャーが爛熟した時代である。空前の経済的好況を背景に、次々と最新流行が現れては持て囃され、あっという間に消費され、新たなトレンドに塗り替えられてゆく。ここには細野晴臣が指摘していた「キャラクターで売れてくる」や「どうしても顔が出ていっちゃう」という問題だけではなく、一種のセンス・エリーティズムの問題が存在している。ジャンルを問わず、何が最新のモードなのか、いま最もトンガっているものは何か? 誰がキテいるのか? もちろんインターネットはまだ影も形もなかったので、そうした文化的な流行の発信源は、紙媒体(雑誌や新聞)や電波媒体(地上波テレビやラジオ)だった。あれよあれよという間に彼らは祭りの中心にかつぎ上げられた。だが、終わらない祭りはない。もしもYMOが1984年以降も継続していたとしたら、もしも彼らがイエロー・マジック・オーケストラであり続けようとしていたとしたら、いったいどうなっていたことだろうか?

 だが、クレバーな彼らはそうしなかった。YMOはあっさり「散開」した。むしろそうすることによって、彼らはセンス・エリートとしての地位を更に高め、不動のものとすることになったのだ。

 坂本龍一は最初から最後までイエロー・マジックに抗っていた。あらためて簡潔に述べるなら、それは最新テクノロジーで武装したオリエンタリズムの自作自演である。前にも述べたことを繰り返すことになるが、それはYMOだけでなく、むしろ坂本龍一という音楽家にこそ当て嵌まる特性だった。細野晴臣があくまで意識的に、コンセプチュアルにやろうとしたことを、彼は半ば無意識に、天然でやってしまえたと言ってもよいかもしれない。そして彼は、おそらくそのこと自体も嫌だったのだ。人気が出れば出るほど、彼はYMOの磁場から逃れようとした。自分だけの場所を保持しようとした。イエロー・マジックとは違う可能性を見出そうとした。だがその引力は途轍もなく強いものだった。なぜならそれは彼自身が欲しているものでもあったからである。

 結局、YMOというバンドにいた時期のことが、その後の自分の出発点になっているんだと思います。バンドとして創造活動、表現活動をする中で、自分の作りたいもの、表現したいものが確立されていった。本当に塗りたい色というものが見えてきた。いま考えれば、それはものすごく良い環境だった。それはたぶん、細野さんや幸宏にとってもそうだったんじゃないかと思うんです。実際、2人もこのころからソロ活動が本格化していきました。

 YMOに入る前にはまったくの半人前だったぼくは、バンドの中で、齟齬とか葛藤とかを経て少しずつ成長していきました。でもやがてバンド自体が消えてしまう。突然、100パーセント丸裸の自分として、ポンと放り出されたような状態になって、 憎悪を向ける相手もいない。たぶん、ぼくはそのときに、「大人」にならざるをえなかった。そういう意味で、YMOが終わったとき、ぼくの人生は確実に次の段階に進んだのだと思います。(『音楽は自由にする』)

  こうして坂本龍一はふたたび、ひとりになった。さあ、これからどうしようか? 

  音楽の図鑑を作ってみようか、彼はそう考えた。

 

*本連載は今回で終了です。来年3月21日に、これまでの連載に、大幅な書き下ろしを加えた単行本『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』を刊行する予定です。楽しみにお待ちください! ご愛読、有難うございました!!

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