妄想古典教室

第一回 おっぱいはエロいのか?

乳房はエロスの対象か

 ここで問題となってくるのは、出してはダメな陰部をこっそりと掘り出した江島の妙音弁財天像が、乳房の表現を持っているということは、やはり乳房はエロティックな欲望を表したものだといえるのかどうかということだ。

 ラジャシュリー・パンディは、『香る袖ともつれた髪――中世日本の物語における肉体、女性、欲望』(Perfumed Sleeves and Tangled Hair: Body, Woman, and Desire in Medieval Japanese Narratives, Honolulu: Univ. of Hawaii Press, 2016.)において、ズバリ、『源氏物語』における性的肉体の問題について論じて、衣を脱いで裸になったからエロティックだというわけではまったくないと断言している。というのも、衣はハダカを隠すものというよりは階級をあらわす社会的、文化的な実体であるから、それを脱がされる姿というのは、たとえば戦乱状態を描く平治物語絵巻などに表され、それはエロティックな裸などというものではなく、階級秩序の喪失として表現されているというのである。

 たしかに『源氏物語』には、何カ所か女の乳房についての描写があり、しかも男がこっそり覗き見(垣間見という)をしたときに見てしまうシチュエーションがあったりもするのだが、おっぱいが見えてうれしい!といったふうには描かれていない。

 たとえば「空蝉」巻で、空蝉と軒端の荻が碁をして遊んでいるところを光源氏が垣間見する場面がある。空蝉の姿は、光源氏のいるところから死角となっていてよく見えない。その代わり、空蝉の義理の娘にあたる軒端の荻のほうは、正面からよく見えている。

 

白き薄物の単襲(ひとへがさね)(ふた)(あい)小袿(こうちぎ)だつものないがしろに着なして、(くれなゐ)の腰引き結へる(きは)まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。

 

暑い日で、軒端の荻は、薄手の単に小袿をひきかけて、袴の結紐のあたりまで胸をはだけている。乳房も丸見えになっているのだが、それを見てもわくわく感はまったくない。それどころか、だらしがないな(ばうぞくなるもてなしなり)と思うのである。胸をあらわにした姿は、魅力的ではないのである。そんな軒端の荻について、すてきな人だな(をかしげなる人)と思う部分もある。それは彼女の髪の美しさについて言われているのである。

 

いと白うをかしげにつぶつぶと肥えてそそろかなる人の、(かしら)つき額つきものあざやかに、まみ、口つきいとあいぎやうづき、はなやかなるかたちなり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下がり()、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたる所なくをかしげなる人と見えたり。(『源氏物語』「空蝉」巻)

 

 軒端の荻は、色白で、かわいらしく、ぽちゃぽちゃと太っていて大柄な人である。頭の感じ、おでこの感じがよく、目元、口元がチャーミングで派手な顔立ちである。しかし美人であることについて「をかしげなる人」だという感想が接続するのではない。大事なのは髪である。たっぷりとした髪で、それほど長くはないが、顔のサイドで短めに切りそろえている下がり端が肩にかかっているのが美しいという。髪が長くはないのだが(長くはあらねど)とわざわざいうのは、本当は長い髪のほうがいいからである。この美しい髪の描写があってこそ、ようやく、すべてにおいてねじくれたところがなく魅力的な人と見える(すべていとねぢけたる所なくをかしげなる人と見えたり)、ということができるわけだ。

 『源氏物語』には、紫の上の乳房の美しさを愛でる場面もあるのだが、それは男性が見ていない、女同士の空間でのことである。光源氏が須磨、明石蟄居中に孕ませた明石の君の娘は、正妻格たる紫の上に引き取られた。そのようにして出生を格上げし、のちに天皇の后となる。まだ幼い姫君を手にした紫の上は、かわいがり、懐に入れてお乳を吸わせてみたりする。

 

(ふところ)に入れて、うつくしげなる御()をくくめ給ひつつ、たはぶれゐたまへる御さま見どころ多かり。(『源氏物語』「薄雲」巻)

 

 出産経験のない紫の上の乳房は「うつくしげなる」ものとして表現されているのだが、これを「見どころ多かり」と見ているのは、女房たちである。ここでの乳房もまたエロティックなものとして表現されているわけではない。

 『源氏物語』に限らず、多くの宮廷物語において、乳房が描かれる場面では、たいてい乳首の黒ずんでいることを言い、妊娠の事実を示すものとなっている。例えば、『源氏物語』のあとに書かれた『狭衣物語』では、母親が娘(女二の宮)の妊娠を知る場面に乳房の表現がある。

 暑い時期で、女二の宮は透けるような薄物の衣を着て、自分の腕を枕に伏せっている。久しく髪を梳いていないのだが、それでももつれたところもなくゆらゆらつやつやとしているのが、寝そべる彼女のもとに延べられている。額のまわりの髪がわざとそうしたかのように色白の顔にこぼれかかっている。こんな髪の描写が母親の視線に捉えられている。 

 寝ころんでいるから、胸元の襟が開いて、そこから乳房がのぞき見えた。

 

 うちみじろきて苦しと思したるに、汗も押しひたしたるやうに見えたまへば、近う寄りてうちあふがせたまへるに、単衣の御衣(おんぞ)の胸少しあきたるより、さばかりうつくしき御()の例ならず黒う見ゆるに、心さはぎせされながら目とどめさせたまへれば、隠れなき御単衣にていとしるかりけり。(『狭衣物語』「巻二」)

 

 その乳房は「こんなにも美しい乳房が、様変わりして黒く見えて」(さばかりうつくしき御乳の例ならず黒う見ゆるに)とあるように、妊娠によって乳首が黒くなっているのである。それではじめて母親は娘の妊娠を知るのである。このようにして、乳首の色で妊娠を知る場面が、さまざまな物語に描かれている。その乳房はいかに美しくても、エロティックな乳房として表現されているとは言えない。そもそも、乳房を出すというしぐさ自体、宮廷社会においては乳母のするものであった。生みの母は子育てのための授乳はしないから、同じころに子どもを産んだ女房を乳母として雇った。そうすることで母親をすばやく妊娠態勢に戻し、次の出産を促したのである。授乳のために乳房をさらす姿とは、女房クラスの女性のイメージであった。授乳する姿に崇高なイメージを与えた、マリア像とは根本的に異なっている。マリリン・ヤーロム『乳房論』によると、授乳するマリア像は、14世紀フィレンツェで急速に広まったが、ちょうどこの時期は、凶作とペストの流行で食料危機にあったころに重なるという。マリアの聖なる乳房は、古代ギリシアをはじめとする女神像が乳房を豊穣の象徴としたのに発想としては近い。

 しかし、日本の宮廷社会での乳房は、まずは階層の問題として考えられねばならないものとなる。乳母は、姫君に奉仕する侍女なのであって、物語世界の主役になる女性たちではないから、たとえば垣間見してじろじろと見られるような、エロスの対象としてとりたてて描かれることはほぼない。垣間見してまで覗き見たい女のエロスが、女房クラスの女性像であってはならない。乳房を覗き見た喜びなどを表現してしまうと、その女君が女房並みになってしまうということになるからだ。