人生につける薬

第14 回
ストーリーは情報を知るためだけでなく、体験するためにもある。

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

小説は物語(ストーリー)だけでできているのか?

 

平衡状態に着地しようとする

 この連載の第7回第12回で述べたように、人間にはストーリー的な解釈によって非常時(世界のバランスが崩れた状態)を切り抜け、なんらかの平衡状態に着地しようとする傾向(感情のホメオスタシス)が見られます。

 終着点となる平衡状態は、それ以上ストーリーとして新しい展開(できごと)をつけ加える必要がないと感じられる状態です。それは失われた平常を取り戻すことでもいいし、また不本意な状況の解消とか、新たなライフステージへの移行、といったものでもかまいません。

 ヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムの兄弟が編んだ『子どもと家庭のための童話集』(初版1812-1815)のどの版でも「蛙の王さまあるいは鉄のハインリヒ」というお話が冒頭(通し番号でKHM1)に置かれています(副題の「鉄のハインリヒ」は王さまの忠義な家来の名前)。

 蛙は王さまが魔法で変えられた仮の姿で、最後には王女の力によって無事に人間の姿に戻ります。

 ジャンバッティスタ・バジーレの死後1634-1636年に刊行された民話集『ペンタメローネ』の第5日第5話「日と月とターリア」のターリア姫、またシャルル・ペローの『鵞鳥おばさんのお話集』(1697)の第1話「眠れる森の美女」(チャイコフスキーのバレエやディズニーのアニメーション映画も有名)やグリム童話の「茨姫」(KHM50)のヒロインは、魔法によって眠りから覚めなくなりますが、彼女たちもやがて王(あるいは王子)の到来とともに眠りから覚めます。

 

非常事態とは「旅」である

 探偵小説では、だれが実行したかがわからない犯罪が市民社会の法的秩序を乱します。探偵役の人物が活躍することで、最終的には下手人の身元が確保されます。

 この分野では、登場人物たちも読者も、謎の解明という着地点を求めて行動する(登場人物は捜査・推理し、読者はページを読み進める)のです。

 しかし登場人物たちの多くにとって、謎の解明が共同体の法的秩序回復──具体的には犯人の処罰という「落とし前」──と連動しているのにたいして、読者にとって(そしてときとして、ある種の探偵役にとっても)、共同体の法的秩序は必ずしも欠かせないものではありません。

 なによりまず後者への興味が満たされることを、読者は期待します。

 つまり「謎」というもの自体、提示されたとたんに「非常事態」をもたらすものとして機能するわけです。

 あるいは、昭和の連続TV時代劇『銭形平次』では、……
 また、僕の大好きなハリウッド製アクション映画では、……
 などと、このようなパターンの「型」で作られた分野はいくらでも存在します。
 ……というか!

 物語コンテンツのもっともシンプルでベーシックな姿がこの、
(平衡状態→)非常事態→あらたな平衡状態
なのです(当初の平衡状態は作中でほとんど記述されないことも多いため、括弧に入れてみました)。

 この点で、平衡状態と非常事態とは、普段の生活と旅行中の生活のように認識されていると言ってもいいでしょう。平衡状態から非常事態に突入することは、いわば一種の「移動」なのです。

 

このあとどう決着つけるのだろう?

 いずれも、ストーリー内で非常時がおとずれたときには、それが最終的に解消するまでのストーリーの弾道を、人は頭のどこかで予測しようとしているようなのです。

 この予測は、必ずしも意識的になされる必要はありません。むしろ、「このあとどう決着をつけるのだろう」という予測は、演算というよりほとんど「情動」のような反応であり、「しないようにする」ことができないものと考えたほうが実態に即しています。

 「このあとどう決着をつけるのだろう」という感情は、たとえ事態が「決着などつけようがない」ように見えるときにすら起こります。

 というか、「決着などつけようがない」という判断それ自体が、「このあとどう決着をつけるのだろう」という感情によって引っ張り出されてくる、というべきでしょう。

 

決着がつかないと知ってても気になる

 たとえば川端康成の小説はしばしば、読み終わってもストーリーが終わった感じがしない、と言われます。なんか「ほったらかし」なのです。

 『雪国』なんて、1935年から連作短篇の形で少しずつ発表し、一度は1937年に単行本にまとめながら、さらにちびちびと書き足され、1948年にもう一度単行本が出るのですが、その最終ページまで読んでも、妻子ある翻訳家の島村と若い芸者の駒子との関係が、なにかストーリー的な平衡状態へと進展することのないまま、ぷつりと終わります。小説がこの先まだ続いててもおかしくないし、逆に言うと、もっと前のところで終わっててもおかしくない。

 そして、川端康成の小説をいくつか読むと、「この作家の小説はストーリー的な意味での決着(いかにも「終わり」らしい着地)のないまま終わる」ということはわかってきます。

 それなのに、まだ読んでいない川端康成の小説を手にしても、気持ちのどこかが「このあとどう決着をつけるのだろう」という感情を持っているのです。

 どうやら、事態進展の弾道をシミュレーションする作業は、自分が意図的にやろうとしていることではなくて、意識しないところで勝手に起こるプロセスであるらしい。

 

決着をすでに知ってても

 それどころか、すでに読んで内容がわかっている小説(しっかりオチのある探偵小説であれ、川端康成のオチなし小説であれ)を改めて読み直したりするときでさえ、不思議なことに、「このあとどう決着をつけるのだろう」という感情を持つことができます。

 そういう状況では、べつに一度読んで知っている内容を忘れきってしまうわけではありません。

 僕のなかの、内容を思い出している(より能動的・意識的な)働きと、「このあとどう決着をつけるのだろう」と感じている(より受動的・反射的な)働きとは、喰い違ったままてんでに働いているように感じます。僕はお気に入りのアクション映画を何度も見ますが、2回目以降もそんな感じで、ドキドキ(初見のときとは質が異なっているとはいえ)を失うことなく見ています。

 すでに試合中継を最後まで見て、展開も結果(応援していたティームが負けた)も知っているサッカーやプロ野球の試合について、そのあとのスポーツニュースでのダイジェストをやっぱり見てしまう人は、冗談で、
 「いや、さっきの中継は見間違いで、ニュースで見たら勝ってるかもしれないから」
と言ったりするものですが、これは「このあとどう決着をつけるのだろう」と感じている部門が言わせているかのようです。

 ということは、「このあとどう決着をつけるのだろう」という問いにおいて求められているのは、必ずしも「こうやって決着をつけた」という情報だけではないということです。

 人間は、事態が「決着をつける」までの展開それ自体を、どうやら体験したいという気持ちを持っているようです。

 情報と体験は違う。ストーリーは、それだけでは情報ですが、ストーリーを表現・提示した物語(ナラティヴ)は、それを読む・聞く人にある種の「体験」(エキサイティングだったり、退屈だったりする)をさせるということになります。

 

だれのストーリーか?

 冒頭で、魔法によって蛙に変身させられてしまった王さまの話をしました。

 今回は最後に、通常の意味での決着がつかない変身物語であるカフカの『変身』(1915)について書いておこうと思います。

 セールスマンのグレーゴル・ザムザは、ある平日の朝、目が覚めたら、巨大な毒虫(Ungezieferを虫と訳していいかどうか、じつは異論も可能なのですが、とりあえずこうしておきます)になっていました。

 このように小説のストーリーは、グレーゴルの視点ではじまります。以下、仕事に出られないトラブル、グレーゴルの引きこもり生活、一家の稼ぎ頭を失ってしまった家族の新しい生活(with間借人たち)といった話題が物語られます。

 (平衡状態→)非常事態→あらたな平衡状態

 の図式どおり、小説はグレーゴルの非常事態突入から語られます。非常事態によって失われた、以前の平衡状態については、グレーゴル(もっとも主要な視点人物)や家族たちの視点で、あるいはいずれの視点からでもなく語り手が直接、回想的な情報を差し挟んできます。

 読み始めてすぐに、「これはまともな決着がつく小説ではないだろう」と思うわけですが、その(能動的・意識的な)思いとは裏腹に、「このあとグレーゴルの変身にどう決着をつけるのだろう」という(受動的・反射的な)思いもちゃんと存在します。これは『雪国』を読んでいるときと同じです。

 最後にグレーゴルは自室で死んでしまい、彼の両親と妹は休みを取って、ちょっとお出かけします。厄介ものがいなくなってせいせいしたかのような──いや、そもそも最初からグレーゴルなんかいなかったかのような──さっぱりした気持ちの3人を明るく記述して、小説は終わります。

 『変身』のラストは、なんだかむかしの松竹映画みたいな明るさなのです。

 なにしろ最終行では両親が、いつのまにかすっかり美しい娘さんに成長した娘(グレーゴルの妹)を見ながら、そろそろ結婚を考えたほうがいいかなあ、なんてことを考えている。小津安二郎か!

 わ、そうだったのか! と思いました。

 僕は(多くの読者もそうかと思いますが)この小説が始まってすぐから、「突然一家の厄介ものになってしまったグレーゴルのストーリー」というパターン認識で、ここまで読んできました。

 そして、意識の表面では「これはまともな決着のつく小説ではないだろう」という予想もしていたのです。

 ところが『変身』のラストは、堂々と、ぬけぬけと、これ見よがしに、ふてぶてしいまでに、
 「決着らしい決着」
だったのです。

 『変身』は、
 「突然一家の厄介ものになってしまったグレーゴルのストーリー」
のように見せかけておいて、でもそのラスト2ページは、小説のストーリーがじつは
 「突然稼ぎ頭が厄介ものになってしまった一家のストーリー」
だったのだ、という着地を決めてみせる。そういうエンディングなのです。

 このまるでじゃんけんの後出しのような着地の違和感は、小説が物語(ストーリーを文字にしたもの)だけでできているのではない、ということを教えてくれます。

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