富野由悠季論

〈6〉富野演出の原点――出発点としての『鉄腕アトム』

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の二つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回はシリーズ「出発点としての『鉄腕アトム』」最終回。初演出作で何を描き、そこにはどんな試行錯誤があったのか。演出家・富野氏の原点を探ります。 (バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

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再編集の経験がもたらしたもの

 もうひとつ『アトム』における富野の仕事として無視できないものがある。それは「再編集エピソードの制作」である。過去のエピソードのラッシュフィルムを編集し、多少の新作を加えたりしながらも、まったく新しいエピソードを作るというアクロバットのような作業のことである。富野はこのやり方で、第120話「タイム・ハンターの巻」、第138話「長い一日の巻」、第163話「別世界への道の巻」の3本を制作している。

「再編集エピソード」の制作はラフなストーリーを提案し、手塚のOKをもらうところからスタート。次に、ストーリーに使えそうな話数からラッシュフィルムを選び出し、台詞やアクションなどに分類する。そして選んだフィルムを見ながら、背景の繫がりが気にならないように編集し、ストーリーを構成していく。当時は背景の密度もかなり低く、アップの時の背景にはなにも描かれていないこともあったからこそ可能になった再編集ともいえる。この作業の難しいところは、すでに台詞の長さが決まっているところで、すでに出来上がっている口パク(口の動き)にあわせて台詞を作らなくてはならないところだという。

 この作業には「最低5日はかかる」(※1)という。ゼロから制作するよりは圧倒的に早いから、制作がうまくまわらず放送に穴が空きそうになった時に、こうした対応が必要となったのだった。

 最初の第120話「タイム・ハンターの巻」は、非常にシンプルな作りだ。ここでは、第11話「タイムマシンの巻」の骨格はそのままに、第69話「恐竜人の反乱の巻」の恐竜(ロボット)が大暴れするシーンを組み合わせたもので、ドラマ面も「タイムマシンの巻」で描かれた未来人の親子の物語をほぼ手を加えずに使っている。

 続く第138話「長い一日の巻」は、天変地異が次々と起こり、その原因が特殊電波を出す小惑星にあると判明するという内容。天変地異のシーンなどは第94話「アルプスの天使の巻」、第65話「勇敢な脱走者の巻」のシーンを使っている。後半、アトムが原因の小惑星に向かって以降は第38話「狂った小惑星の巻」、第110話「水星探検の巻」、第121話「ガニメート号の巻」を構成してクライマックスを作り上げている。

 そして3本目の第163話「別世界への道の巻」は、一番凝った編集内容になっている。本作は、3000年前に滅びたミュー文明の銀貨をマクガフィンとして、女郎蜘蛛兄弟一味と渦潮が争奪戦を行うというストーリー。使われたエピソードは第42話「黄色い馬の巻」、第49話「透明巨人の巻」、第58話「13の怪神像の巻」、第75話「空とぶ町の巻」が中心となっているが、前の2話以上に各話は細かくバラバラにされ、一部に新作カットを加えながら複雑に再構成されている。

 例えば「別世界への道の巻」に、渦潮がTV局に到着し、彼の到着後すぐに別の車でギャングたちがやってくるというシーンがある。この一連のシーンはもともと、「透明巨人の巻」におけるウズ博士(渦潮と同じデザインのキャラクター)がギャングの事務所を訪れるシーンと、ウズ博士の依頼でギャング団がTV局に押し入るシーンという本来は別の場所で起きた出来事を描いたバラバラのシーンなのである。これを編集し直して、どちらもTV局に到着するシーンとして物語に組み込んでいるのだ。

 また「透明巨人の巻」でウズ博士がギャングに立体テレビの破壊を依頼するというシーンが、「別世界への道の巻」では台詞を変え、渦潮が銀貨を女郎蜘蛛兄弟の兄に売りつけようと交渉するシーンに作り直されている。

 印象的なのは、ミュー文明の名残が残る島に到着し地下の洞窟へと繫がる扉を開けるシーン。元となった「13の怪神像の巻」では悪人たちが扉を開けようとしても開かず、アトムがその力で扉を開けるというシーンとして描かれている。これが「別世界への道の巻」になると、まずアトムが扉を見つけて洞窟へ入り、その後に悪人たちは別の扉を見つけて洞窟へ入る、という展開に変わっている。扉を開ける順番を逆にした上に、さらに間にほかのカットを挟み込むことで、もともとは同じ扉として描かれていたものを、別の扉として見せているのである。

映像のダイナミズムへ

 過去の本編映像をもとに編集で物語を構築していく手法は、アニメでありながら、極めて実写映画的な編集作業といえる。というのも、アニメの編集は、あらかじめ絵コンテで設計されたカットの並びをベースにしつつ、時に変更を加えながら、カットの長さを微調整して流れを整えることが中心だからだ。

 それに対し、実写映画の場合は撮影されたフィルムの中からカット(カットはアニメ業界特有の呼び方。実写映画の場合はショットと呼ぶ)を選び出し、それをくみあわせることで映画を形作っていく。映画の全体像を見通すためのガイドとして脚本が存在するが、編集の結果、脚本とは異なる内容の映画が出来上がることもある。

 この作業は、キャリア初期の富野にとって大きな意味を持っていた。それは初期の演出回と後半の演出回を見比べると、明らかに後半のほうが映像の流れがよくなっていることから推察できる。これは担当話数を重ねて経験が積み上がったこともあるだろうが、それだけとは考えにくい。先述のストーリー主義に対する述懐を踏まえると、富野はこの再編集作業を通じて、ストーリー展開のおもしろさとは別に、映像の流れそのものにおもしろさを感じさせる力があることについて、正面から考えることになったのではないか。

 例えば最初の「タイム・ハンターの巻」は、ストーリー主義の下で構成されたエピソードといえる。第11話「タイムマシンの巻」のストーリーという骨格に、それ以外のエピソードの動画を使って‟お化粧”して、新しいエピソードに見えるようにした、という出来栄えで、これは映像が完全に従となっている。まずストーリーありきで発想したというふうに考えられる。

 これに対し、続く「長い一日の巻」は、序盤に世界各地が天変地異に襲われるというインパクトあるシーンを連続して見せるところからスタートする。つかみとなる見せ場を畳み掛けるこの構成は、ストーリーが求めるものというより、インパクトの強い映像を配置することで映像的にメリハリを作り出すところに狙いがある。大まかなストーリーのプランを立てた段階から、映像ありきで発想していることがうかがえる序盤だった。

 富野は著書『映像の原則』(※2)の中で映像の特性を次のように記す。

映像=視覚的なダイナミズム(時間的経過をともなう強弱、緩急)があるもの/映像の変化が語り口を示す/観客は同時的に鑑賞する。観客の感情を喚起する

 そして映像のダイナミズムについては

映像的なダイナミズム=映像のテンポの緩急+視覚印象の強弱

と説明する。

 少し抽象的だが、ここで富野は、映像のテンポや視覚印象(画面に映っているものが観客に与える印象)をコントロールすることによって、ダイナミズムを生み出し、それが観客の感情をゆさぶるのが映像メディアの本質であると語っているのだ。

 ダイナミズムへの志向は、使える映像が決まっているという厳しい条件の中で、「どの映像を選ぶか」という問題が前景化した結果、意識されることになったのだろう。使える映像が決まっている以上、ストーリーはその幅の中でしか展開できない。となれば、映像のダイナミズムを獲得しない限り、そのエピソードはおもしろいものになりえない。それがなければ、先行するストーリーの縮小再生産でしかなくなってしまう。そのことに自覚的になることで、富野は映像のダイナミズムに意識的になっていくのである。

 なお富野は、この後、『無敵超人ザンボット3』で1本、『無敵鋼人ダイターン3』で2本、既存のフィルムと最小限の新作で新規エピソードを作るという方法を実践している。そして『機動戦士ガンダム』の劇場版では、こうして積み上げた再編集の技を駆使して映画を作り上げることになる。そういう意味では、「ロボット ヒューチャーの巻」以上に、「別世界への道の巻」へと至る三つの再編集エピソードも、富野の演出の原点ということができる。

「ロボット市長の巻」の演出を読む

 最後に映像のダイナミズムに注目して、富野が『鉄腕アトム』で獲得したものを確認したい。

 映像のダイナミズムが意識的に取り入れられていることがわかるエピソードは、先に触れた第156話「ロボット市長の巻」だ。「ロボット市長の巻」で特徴的なのは、要所でしっかり間をとることで、映像の流れにメリハリがつき、ドラマ性が増しているところだ。

 例えば冒頭では、アトムたちがエアカーで町に到着する様子が描かれる。疾走感あるエアカーの動きのある画面の後に、動きではなく背景中心で見せる町の風景という印象の異なるシーンが続くことで、映像の肌触りを変化させることに自覚的に演出が行われていることが伝わってくる。

 中盤以降でも、アイザック博士を拘束しようとする市民とアトムが対峙するシーンや、宿泊したホテルに閉じ込められたことにアトムが気づくシーンなど、アトムの電子頭脳がその性能を発揮するところは、台詞なしの長い間でそれを表現している。また暴走するレイモン市長が部下をヘリコプターから突き落としたにもかかわらず、ヘリコプターのバランスが崩れたためととウソをつくシーンも、その答えを聞いた部下ロボットが無言で目を見合わせるカットが挿入され、ここでも間を生かすことで、登場人物の内面を想像させる演出が使われている。こうした間を生かした演出の延長線上に、死んでしまったレイモンを見つめるアトムの無言のアップも位置づけられる。

 この後、最終回までの間に富野は、8本のエピソードを演出する。この中で、映像のダイナミズムが特にうまく表現されているものは「青騎士」前後編、「幽霊製造機の巻」(第181話。第9話のリメイク)、「メドッサの館の巻」である。

「ストーリー」と「どう語るか」

 先述の通り「青騎士」はドラマ的にもひとつのピークであり、演出的にも非常に見応えがあるエピソードだ。冒頭の草原を疾走する青騎士のカットの積み重ねは、無言の中に青騎士の意思の固さが感じられる。序盤は、中盤のアトムとの戦いまで、合計3回の青騎士のバトルが描かれ画面を活気づける。前編のラストでは青騎士がロボットのための国家ロボタニアの建国を宣言するが、ここではアトムと青騎士の無言のままのカットバックが登場し、台詞がないことが逆にアトムの複雑な内面を感じさせている。

 後編は人間とロボタニアの戦いから始まる。前半はウランとコバルトが絡むコミカルなシーンとエスカレートしていく戦闘が、織り交ぜられながら進行する。中盤、アトムの質問に青騎士が答える形で、なぜ青騎士が人間を憎み、ブルグ伯爵と因縁があるかが回想で語られる。ブルグ伯爵は、青騎士の妹ロボット・マリアを見初めて結婚したものの、もとからロボットに差別感情を持っていたため、マリアに暴力を振るうようになった。そしてマリアと、それをかばった弟トントをともに破壊したのだった。そして後半はより激しさを増す戦闘と、青騎士とブルグ伯爵の決闘が中心に描かれる。

「青騎士」というエピソードは、「青騎士の正体」が物語を牽引する謎として設定されている。青騎士は、破壊されてしまった弟トント、妹マリアの電子頭脳を内蔵し、それぞれの姿に変身できるロボットである。だから本作は「顔」が重要な意味を持つ。ブルグ伯爵との決闘で、青騎士はマリア、そしてトントの顔を見せ、その憎しみを突きつける。この二人の顔を見て驚愕するブルグ伯爵の顔の切り返しは、顔の上下がフレームから切れるほどのクローズアップで、強い印象を残す。そしてその後、決闘の勝利者となってもなお人間への復讐心を燃やす青騎士の目元のアップが登場する。

 こうした「青騎士」の映像の流れを見ると、ドラマチックなストーリーを伝えるため、動きのある画面と動きの少ない画面のメリハリ、台詞のないシーンの効果的な挿入など、映像のダイナミズムを駆使して語っていることがわかる。

 富野が最後に担当に演出を担当したエピソードは、最終回の1本前となった「メドッサの館の巻」。湖畔に立つ洋館を舞台にして、そこに一人で住む謎の美女ドリームと、兄のジーク・フリードの関係を描く神秘的なエピソードだ。こちらはSF的な理屈付けはされているものの、演出的な語り口はメルヘンそのもの。こちらは、ゆったりとしたカメラ移動、イメージシーンの挿入など、「青騎士」のような戦闘中心のエピソードとはまた異なる映像のダイナミズムに挑戦している。

 このように『鉄腕アトム』の各話を追っていくと、富野が「ストーリー」とそれを「どう語るか」を、『アトム』を通じて手探りしながら摑みつつある過程が浮かび上がってくる。そして『アトム』にかかわった2年あまりの試行錯誤が、演出家そして戯作者である富野の原点であるのは間違いない。

 富野は後に絵コンテを描く時の重要な点として、脚本家の野田高梧の『シナリオ構造論』(宝文館)に触れ著作でこう記している。

 このシナリオ構造論に従えば、コンテを切りながらシナリオを考える場合、台詞のディテールにこだわるのではなく、作品の全体像にとって、そのシーン、そのカット、その台詞、その芝居が、的確に積み上がっているかと考えればいいのです。(※2)

 また、この指摘の前の部分では、絵コンテを推敲していく過程で「バランスをとる」ことの大切さを説き、「この整理ができるバランス感覚を手にいれるためには“訓練”しかありません。場数を踏む必要があるのです」とも記している。

 富野にとって『アトム』とは、映像の「的確さ」を判断できるようになるために「場数」を踏んだ作品であり、挑戦の場であった。

 

 

【参考文献】
※1 富野由悠季『だから僕は…』(角川スニーカー文庫、2002年)
※2 富野由悠季『映像の原則 改訂版 ビギナーからプロまでのコンテ主義』(キネマ旬報社、2011年)

 

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