「挣扎」は近代中国を特徴づけるもっとも重要なキーワードの一つだといえるかもしれません。中国近代文学のもっとも代表的な作家(「の一人」と入れなくてもいいぐらい代表的な作家)である魯迅が、20 世紀初期の中国人について述べるときに使った言葉として記憶されているからです。当時の中国の知識人は古く後進的で、奴隷根性にまみれた中国をなんとか新しく生まれ変わらせようとしていました。しかし、西洋列強によって割拠され、国家としての同一性が著しく脅かされていた中国にとっては、そのミッションはあまりにも難しく、失敗が確実視されてもいたのです。少なくとも魯迅自身は失敗の可能性を強く意識していたといえるでしょう。それでも、もがき、悪あがきしながらも、たとえ失敗を運命づけられていても、奴隷根性からの解放を求めつづけることが重要なのではないかと彼は考えました。なぜならその行為自体が私たちを「単なる奴隷」から区別するものだからです。
そのもがくこと、悪あがきする行為がまさに「挣扎」なのです。「挣」と「扎」はいずれも縛りなどから「抜け出す」というようなニュアンスを持つ言葉です。特に「挣」は「力いっぱいに」という意味もあるので、頑張ってなんとか抜け出そうとするというイメージになるでしょう。たとえば「挣脱」という言葉は束縛などから逃れることを指しています。
しかし、「挣扎」という組み合わせには単に逃れる、抜け出すといった意味だけでなく、失敗を運命づけられていても、あるいは諸々の現実的な事情を鑑みればリスクが高いから本来そうすべきではないにもかかわらず、なお抜け出そうとするという悲劇的なニュアンスが含まれています。
例文1 を見てみましょう。怪我をしたにもかかわらず、無理をして立ち上がったという意味になります。この場合は怪我をしているのだからそのまま座ったり横になったりしているべきなのに、立ち上がったということです。もちろん、文脈によっては単に「頑張って立ち上がった」というふうに訳すこともありますが、ここでは何かそうしなければならない事情―たとえば敵が目の前にいて、自分は負傷しているが、ほかの仲間を守らなければならないというような―があるというふうに感じてしまいます。
いちばんわかりやすい例は「垂死挣扎」でしょう(例文3)。小学館の『中日・日中辞典』では、「断末魔のあがき」と訳されています。死にかけている、つまりこれから死ぬということをわかっているにもかかわらず、なおあがこうとするという状態です。
したがって、「頑張って」と訳されていてもそこにポジティブなニュアンスはあまり感じるべきではないと私は思います。しかし、それ自体にポジティブさがないとはいえ、あるいはポジティブさがないからこそ、何らかの可能性につながることも考えられます。
例文2 を見てみましょう。「人生は常にこのようにつらく苦しいものなのに、なぜあがかなければならないのだろうか」という問いです。これは実際に中国のQ&A サイト「知乎」に投稿された質問です。
投稿者によれば、「挣扎」とは方向性、つまり目標のない努力であり、努力したいが何を目指してがんばればいいのかわからない状態です。彼自身は2013 年に働き始めて(筆者は同年に大学を卒業しているので同年代かもしれませんね)から何もかもうまくいかないという状態に陥りました。どうすればいいのかわからずにいながらも、なお「挣扎」してカウンセラーの資格を取ったり、ビジネス書を読んで思考の習慣を改めたりと、さまざまな試行錯誤をしながらついに状況が改善されるようになった経緯が紹介されています。彼が自分自身の変化をウェブに投稿したのは、自分と同じ境遇にいる若者たちを励ますためです。
彼は次のように言います。魯迅が「挣扎」の姿勢にこだわったのは、それが唯一絶望の中から可能性を摑み取ることを可能にするものだからだといえます。個人においては、「だめ人間としての自分」というのは、「奴隷としての中国人」と同様に一種の呪縛として機能するものです。どのような人間になりたいか、自分の国をどのような国にしたいのか、という明確な目標や理想はなくとも、「挣扎」していればそのうち見えてくるかもしれないのです。
魯迅の有名な小説「故郷」は次のような一文で締めくくられています。
もちろん、道など永遠にできないし、可能性を摑むことが永遠にできないかもしれません。可能性が開かれないまま、永遠に「挣扎」を強いられるかもしれません。あるいは、束縛から解放された途端、別のより過酷な牢獄に閉じ込められていることに気づくかもしれません。しかし、これらの可能性のいずれも「挣扎」をあきらめる理由にはならないのです。「挣扎」とはそのような失敗の可能性を認めながらもなおあがこうとすることなのです。
また、個人的な考えを話しますと、人はみないずれ死ぬ運命にあるので、結局どのような努力も「断末魔のあがき」なのです。それならいっそのこと自分自身でいられるような、より独自性のある「断末魔のあがき」をしたほうがいいのではないかと思います。