到達点であり出発点
富野は、1972年の『海のトリトン』以降の5年の間に徐々にその演出スタイルを固めてきた。そして『無敵超人ザンボット3』(1977)から『無敵鋼人ダイターン3』(1978)を経て『機動戦士ガンダム』(1979)に至る過程で、富野の演出スタイルは確固たるものとなる。『ガンダム』は、演出家としてのその時点での「到達点」と位置づけることができる。
また一方で、富野は『ザンボット3』で初めて原作としてもクレジット(脚本家の鈴木良武と連名)され、それは『ダイターン3』も同様(サンライズ企画室のペンネームである矢立肇と連名)だった。原作3作目となる『ガンダム』では、世界観設定やキャラクターとそのバックストーリー、各話のストーリー案など、前2作と比較しても膨大な量のテキストを執筆している。それは『海のトリトン』や『勇者ライディーン』のときよりも、より深く世界設定の構築や物語づくりにコミットしていくようになる過程でもある。つまり1977年から1979年の3年間は、戯作者・富野にとっての「出発点」と呼べる時期だったのだ。ここから1988年まで、戯作者・富野は様々なアプローチでロボットアニメに新風を吹き込んでいくことになる。
『ガンダム』という作品は、このように演出家としての「(一旦の)到達点」と戯作者としての「出発点」が交錯するポイントに成立した作品なのである。
『ガンダム』の世界設定やドラマの根幹について富野がどのように思考したかは、『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』(※1)に掲載された「ガンボーイ企画メモ」や、2013年発売の『機動戦士ガンダム Blu-ray メモリアルボックス』(※2)の付録「HISTORICAL MATERIALS of MOBILE SUIT GUNDAM」に収録された「初期設定書」「構成案」で読むことができる。
ストーリー案から見る第1話
「演出家」と「戯作者」がいかに交錯したのか、『ガンダム』第1話「ガンダム大地に立つ!!」を題材に考えたい。
富野が1978年8月に書いた「ガンボーイ企画メモ」には、既に全52話――つまり1年分――のシリーズの構成プランが記されている。このプランは「6話連続のエピソードを7ブロック積み上げることでシリーズの軸を構成し、残り10本は番外編と再放送で埋める」というものだ。この時、7ブロックには仮のタイトルが振られており、ストーリー順に「大地」「前線」「鬼神」「さすらい」「激突」「誕生」「深淵」となっていた。
この構成案を踏まえて、第1話から第6話までのストーリー案が記されている。この第1話から第6話までというのは、7つのブロックの最初の「大地」に相当する部分で、実際、ストーリー案の先頭部分に「第一章 大地よ(制作上は伏せるタイトル)」と記されている。各資料に記された日付から、おそらく1978年11月から12月にかけてのどこかで執筆されたものと思われる。
ストーリー案の第1話に相当する部分はかなり長いので、内容を要約しつつ紹介したい。固有名詞も正式決定前のストーリー案のまま記すことにする。
ストーリー案はまず主人公アムロの説明から始まる。アムロは1カ月前に建設の頓挫したスペースコロニー・サイド7に父と引っ越してきた15歳の少年。引っ越しは、父テム・レイが戦闘用ロボット・ガンボイの主任技士で、最終慣熟テストの場所が僻地のサイド7に決まったからだった。男は世間を見知るものであるという信念のもと、母から離れて父子二人の生活が始まったが、この1カ月アムロは父と夕食をともにすることはなかった。
ただし近所のフラウ・ボウ(本編ではボゥだがここではボウと書かれている)という気さくな少女のおかげで、アムロなりに寂しくもなく暮らすことができていた。マイコンやメカの組み立てが得意なアムロが組み立てたのがお掃除ロボット・ハロ。そのハロのちょっとしたミスがフラウ・ボウを楽しませた。フラウ・ボウは「アムロ! あなたって寂しがり屋さんだけかと思ったけど、ハロを作っちゃうなんて素敵!」とアムロにキスをしたのだった。
ただストーリー案には、これはアムロに女性を意識させたのとは異なる、気さくな友達になれただけのこと、であるとはっきり書かれている。フラウ・ボウについて「アムロに女性を意識させない存在」と書かれている。
このようなアムロとフラウ・ボウのバックストーリーに続いて、アムロの父の引っ越しの影響を受けたシン・ハヤテ(本編のハヤト・コバヤシに相当)の状況が紹介され、その後に敵側であるジオン公国の赤い彗星シャア・マスと戦闘用ロボットである機動歩兵スーツの説明が続く。
ストーリー案はここで、どうして機動歩兵スーツが登場したのかという背景を記す。この時代の戦場は、レ-ダーを攪乱するアルミ粒子の登場により、宇宙服の兵士同士の直接戦闘や目視によるドッグファイトが中心となり、レーダーによる誘導ミサイルなどが使えない、過去の戦場と同じ状況となっていた。その中で登場したジオン公国の機動歩兵スーツは、重火器を装備した宇宙服の兵士に代わる新兵器であった。
このあたりの設定は、当時想定された未来戦争像を前提に組み立てられている。当時、来たるべき戦争は「ボタン戦争」といわれる、ボタン一つで飛んでいくミサイルの応酬になるであろうといわれていた。しかしボタン戦争はアニメ映像として絵にならない。そこで、ミサイル誘導を難しくする「アルミ粒子」の設定を導入することで、ロボット同士の接近戦が必要となる舞台設定を設えたのだ。こうした世界設定は、SF考証でクレジットされ、脚本も手掛けた松崎健一が協力することで成立した。最終的に、ここで書かれた「アルミ粒子」は、「ミノフスキー粒子」という架空の電波攪乱粒子として本編に登場することになる。
また人型の機動歩兵スーツという設定は、ロバート・A・ハインラインの小説『宇宙の戦士』の影響下により生まれている。同作に登場する、歩兵が装着する2mほどの戦闘用パワードスーツのイメージが、戦闘用兵器としての機動歩兵スーツ(本編ではモビルスーツと呼ばれる)のイメージに反映されている。
シャアはルウム戦役で、この機動歩兵スーツを操り戦果をあげ、「赤い彗星」の異名をとるようになった。連邦軍は、機動歩兵スーツの性能に動揺し、歩兵スーツを捕獲・研究し開発を始めた。これによって開発されたのがガンボイだった。
そのシャアは、駆逐艦ムサイで、連邦軍の新型戦艦ペガサスを追跡していた。シャアは連邦の機動歩兵スーツの開発が進んでいるということを確信し、初陣に近い兵士3人に、サイド7への潜入を命じる。
ここから具体的に第1話の内容が記されるので、要約ではなく引用を交えて説明しよう。
ペガサスが、サイド7に来る。この噂はサイド7に残る老若に動揺を与えた。人々の不安は、得てして事態の予知をする。軍令が飛び人々に禁足令が出たのと、血気にはやったシャアの先兵がサイド7の一角から、軍需研究区画に攻撃をかけたのとが同時だった。
人々は、保安区画の各ブロックに逃げ込むには時間がなさすぎた。
(物語の描写は、ここから入りたいわけだ。以後の斗いと防空の中、前述の状況の説明が加えられるという型をとればいゝ)
ペガサス側にとっては予想外のコロニー内での戦闘。この時、アムロの父たちが民間人保護に動けなかったことが、アムロが後々、シン・ハヤテの憎しみをかうことにもつながることも記されている。
アムロは、父に民間人の保護を要請するために走った。雲の中から舞い上がっていくジオン三機のモビルスーツは、遠くから見ても巨大だった(二十米弱)。
アムロは、立入り禁止区域に入り、そこで父が行方不明となり、父の部屋で、ガンボイの研究資料のマイクロ・パネルを得る事が出来る。(前に伏線はるか?)
さらにペガサスに積み込もうとするガンボイを発見して、その一体に乗り込み、シャアの先兵ら三機と斗い、一機を撃破する。
他の二機はペガサスの砲撃。リュー・ショーキの操るコア・ファイターによって撃破。
その間にも、サイド7は応急修復が出来ぬまでに破壊されてしまう。生き残りの人々はペガサスにのりこみ、サイド7を脱出する。
(百人近い人々が乗り込みはするが、軍関係者はほとんど戦死。民間人ばかりの老若という事になる)
この時点でブライ・トリュー、ミライ・エイトランド、アシリア・マス、の立場が明確化する。
このあと、第2話以降の展開メモが記され、「【2】」という区切りが入って第2話のストーリー案が始まっている。読んでもらえばわかるとおり、どんなことをやりたいかは伝わってくるが、プロットと呼ぶには粗く、あくまでも脚本家との打ち合わせのためにかかれたメモである。
これを踏まえて第1話の脚本を執筆したのが星山博之。星山は『ザンボット3』『ダイターン3』にも参加しており、『ガンダム』にも企画の最初期から関わっている一人だ。企画部長の山浦栄二ともやりとりを重ねて、TV局向けの『ガンダム』の企画書も執筆している。だから『ガンダム』が「これまでよりも年齢が上のターゲットを狙う企画である」という意識も明確に持って参加していた。
脚本と絵コンテを比べてみる
星山による第1話の脚本と、富野の絵コンテ(クレジット上はペンネームの斧谷稔〔よきたに・みのる〕名義)を照らし合わせながら、ストーリー案に書かれた「第1話」がどのように映像化されていったかを検証していこう。
まず脚本を読んで驚くのは、ジオン公国と地球連邦の戦争のなりゆきを語るナレーションがない、という点だ。
本編にはサブタイトルが出る前に「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって既に半世紀が過ぎていた。地球のまわりの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。」と、舞台が宇宙時代であることを説明した後、「宇宙世紀0079。地球から最も遠い宇宙都市サイド3は、ジオン公国を名乗り地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この1ヶ月余りの戦いでジオン公国と連邦軍は、総人口の半分を死に至らしめた。人々は、自らの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、8ヶ月余りが過ぎた。」と、世界設定を説明する。
このナレーションの前半にあわせて展開されるのが、スペースコロニーという場所を視覚的に伝える映像だ。まず斜めに傾いた大地を俯瞰で捉えた映像から始まり、カメラが動くとやがて地上に大きなガラス窓があいている様子が見えてくる。ミニマムな表現でそこがスペースコロニーと呼ばれる人工の大地であることが示されている。
続けて大地から爆煙が立ち上がり、それがコロニー外部からの砲撃によるもので、戦争が始まったことが観客に伝えられる。その後、「ニューヨークらしい」(絵コンテのト書)都市にスペースコロニーが落下する様子など戦争の様子が点描される。ナレーションも映像も簡にして要を得た内容を積み重ね、観客を一気に作品世界へと引き入れる。
脚本には存在しないこの導入だが、おそらくストーリー案の冒頭につけられた「前史メモ」がベースになっているのではないだろうか。
前史メモ
西暦二千六十六年。人類はスペース・コロニーを建設して、百億に近い人々が宇宙を第二の故郷にしていた。
コロニーの一つが、‟ジオン公国”と名乗り、地球連邦に対して反逆の狼火をあげた。
三日戦争、ルウム戦役は第三次世界大戦であった。人類は五十パーセントの人々を失い、コロニーの大半を失った。
そして、ジオン公国も地球連邦も、共に軍備を消耗して軍事力は、均衡を保つに至った。
しかし、ジオン公国の独裁主権者ザビ家の強行主義と連邦の傲慢な姿勢が戦争終結の道を選ぶことをさせなかった。
戦いは、末梢的なゲリラ戦の深みにはまるだけであった。
物語は、このゲリラ戦化した時代のあるコロニーから始まる。
「前史メモ」はあくまでも、別紙にこと細かに設定された開戦の背景と現在の状況を、コンパクトでわかりやすく共有するための文章だ。だが話題の流れは本編のナレーションと非常に近い。ここで記されたものをもう少しブラッシュアップしたものが、ナレーションとなったのではないだろうか。
なぜ冒頭で引き込まれるか
冒頭にナレーションが付け加えられた一方で、脚本の冒頭部分は絵コンテでばっさりとカットされている。
脚本の冒頭は、シャアがこれからサイド7に潜入する3人の兵士に、作戦の狙いを話すところから始まっている。シャアのセリフを通じて、戦争が膠着状態であることと、連邦軍がV作戦と呼ばれる反撃のための作戦を準備中であることが語られる。
絵コンテは、これをばっさりとカットした。そして、宇宙空間を進む3機のモビルスーツ・ザクの姿から第1話をスタートさせた。パイロットの呼吸音という想定(絵コンテのト書による)の特徴的な効果音とともに、静かにザクがコロニーに向かっていく。
工事中のコロニーの底面にあるハッチから内部に入ろうとするザク。その時クレーンのアームがザクの肩にあたる。アームは正面のハッチの扉の方に飛ばされると、そのまま跳ね返って静かに外の宇宙空間へと流れていく。
脚本の段階ではサイド7の構造の設定が出来ていなかったのか、潜入シーンは外郭のガラスを割って入るというあっさりした表現で終わっている。それに対し、絵コンテはかなり丁寧にその過程を見せている。ここから感じられるのは、それまでのアニメにあった「宇宙シーン」よりももっとリアリティを感じさせる映像にしたいという意志だ。
宇宙へとそのまま流れていくクレーンのアームの描写は、そこが無重力空間であることと、大気などの摩擦がないため一旦動き始めたものは慣性の法則に従って減速しないまま飛んでいくということを表現しており、「そこが宇宙である」ということを強く感じさせる描写となっている。
また絵コンテのト書をみると、コロニーに接近するザクのカットについて「サイド7の底面の壁が接近してきてぶつかりそうに見えるが、ぶつからない」という趣旨のことが書いてある。加えて「ましてザクの影などうつらない」とも書いてある。
これは宇宙空間に空気がないため、空気遠近法の影響がなく、非常に遠くのものもクリアに見える、ということを反映した描写であろう。巨大なコロニーの底面がクリアに見えても、それは実際にはザクから遠く離れている。だからそこに影が落ちていたとしても、小さすぎて見えないというわけだ。アニメの映像はパンフォーカスが基本なので、ト書の効果をダイレクトに実感できる映像になっているかというとそうではないが、そういうト書を書くところに富野の宇宙描写をどう演出するかへのこだわりが感じられる。
このこだわりは、ほかの部分のト書にも見ることができる。ザクがサイド7の底面に接触するカットでは、その動きを「触壁する」と書いているのだ。富野はこの「触壁」から線を引っ張って「こんなの造語です。(下りるのでもない、上がるのでもない)」と注釈をつけている。無重力空間だから上下がない、という点にちゃんとこだわっていることが、この造語を通じて伝わってくる。
第1話の冒頭のインパクトは、こうした宇宙描写の細部から生まれるリアリティだけではない。なにより重要なのは、脚本にあったシャアによるブリーフィング(事前レクチャー)をカットしたことで、観客を「進行中の状況の中」へと放り込むように物語を始めている点だ。この語り口が、本作にリアリティを与えている。
進行する状況の中へ
ある出来事を描く時に、事の発端から順番に追っていくとわかりやすいのは間違いない。しかし同時にそれは、いかにも段取りを追っているような展開となり、作り物っぽさが際立ってしまうことも避けられない。それに対して、進行中の状況の中にポンとカメラを置いたように演出したならば、なにが起きているかを把握するには時間がかかるが、その瞬間・場所を切り取って見せているような感覚は生まれる。「切り取って見える」ということは、そのフレームの前後に別の時間が、フレームの外に別の空間が広がっているということが感じられる、ということでもある。
実写は、メディアの特性としてそもそも、カメラを使って世界を切り取って見せる、という性質を多分に持っている。だから誰も積極的に「フレームの外側」を問おうとはしない。これに対しアニメは、フレームの中に必要な要素(絵)を配置していくメディアだ。このメディアの特性上、普通に出来事をみせていくと、どうしても箱庭的に調和しがちで、フレーム外に世界が広がっているという感覚が弱くなる。空間的な広がりに限っていえば、レイアウト(絵コンテをもとにアニメーターが描く、そのカットの構図を決める絵)の描き方で補うことができるが、時間に関しては難しい。つまりアニメの場合、演出家がフレームの外を意識させようとするかどうかは、作品のテイストを決定する大きな要素となるのだ。
例えば『海のトリトン』第1話「海が呼ぶ少年」、『勇者ライディーン』第1話「大魔竜ガンテ」を振り返ると、どちらも進行中の状況を切り取ってみせるような語り口にはなっていない。そのため古典的な「見せたいものを見せる」演出の範疇にとどまっている。
『トリトン』はまず、冒頭で戦うトリトンを見せる。しかし、これはあくまでツカミとしての独立したアクションでしかなく、直接ドラマに繫がる描写ではない。作品はそこから遡る形で、トリトンの旅立ちを描く。
サブタイトルが入った後、海の様子を見せ、小さな漁村を俯瞰でとらえた後、小さな船が映る。櫓を漕ぐ男性が「あれ?」と声をあげると、老人――トリトンの育ての親である一平じいさんである――が、振り向き、なにかを見つける。彼の視線の先には、険しく切り立った猪首岬を登るトリトンの姿があった。トリトンは、そこから、渦巻く海面へと命がけのダイビングをしようというのだ。
トリトンの行動だけ見れば、進行中の状況の中にカメラを放り込んだようにも見えるが、映像では、一平じいさんがトリトンを船上から発見するという語りはじめになっている。そのため観客は、トリトンの猪首岬からの飛び込みを、最初から客観化された事件として見ることなる。これはこれでひとつの語り口だが、進行中の状況に放り込まれた感覚は薄くなってしまう。
『ライディーン』第1話は、もっと説明的で、サッカー部のキャプテンである主人公ひびき洸の日常風景を描くところから始まっている。ここで準レギュラーたちの印象づけをしようというプランもあったのだろう。映像の見せ方も至極普通で、進行中の状況を見せるというスタイルからは遠い。
これが『ザンボット3』第1話「ザンボ・エース登場」になると、進行中の状況の中にカメラを投じる形の導入になっている。
ここで描かれるのは、主人公・勝平と、ライバルで不良グループのリーダーである香月が繰り広げるバイクに乗りながらの喧嘩である。つかみとして激しいシーンを持ってきただけでないのは、香月と勝平の間には、これまでもライバル関係にあったといういきさつがあるからだ。しかもそれがこの後、異星人ガイゾックとの戦いの中で、変化せざるを得なくなるという展開がちゃんと用意されている。つまり、このバイクのケンカのシーンは、まさにふたりの間に流れるドラマを途中で切り出した形になっているのである。これが香月でなく、単なるそのほか大勢とのケンカであれば、ここまで劇的な効果を果たすことはなかった。
途中、パトカーで警察官も現れるが、これもあくまで「勝平と香月のケンカ」を構成する一部として扱われており、『トリトン』の一平じいさんのように、状況を客観視する立場で演出はされていない。ふたりのケンカが勝平や香月の同級生であるアキやミチの目を通じて「ふたりがまたバカなことをやっている」という視線から始まっていたとしても、進行中の状況を切り出したような効果は得られなかっただろう。
このように過去作の第1話冒頭を比較してみると、『ガンダム』第1話は非常に完成されている。セリフを排し、説明もなく、サイド7に潜入しようとするザクだけを見せていくという表現は、「進行中の状況の中へカメラを放り込む」という演出として非常にうまく機能している。この後も富野は、物語の導入部分に際して「ある状況の中にカメラを放り込む」ことで、その世界を切り取るというスタイルを繰り返し使っていくことになる。(続く)
【参考文献】
※1 富野由悠季著、氷川竜介・藤津亮太編『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』(2000年、キネマ旬報社)
※2 付録「HISTORICAL MATERIALS of MOBILE SUIT GUNDAM」/『機動戦士ガンダム Blu-ray メモリアルボックス』(2013年、バンダイビジュアル)に所収