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フラウとアムロ1――日常を描く
『ガンダム』第1話に戻ろう。
サイド7に潜入したジオンのモビルスーツ・ザクは、偵察を始める。パイロットの双眼鏡にひとりの少女が、隣家に入っていく様子が捉えられる。少女は、アムロのお隣さんのフラウ・ボゥで、ここから物語の軸は、主人公であるアムロ側へと切り替わる。
アムロの家を舞台にしたフラウ・ボゥとアムロのやりとりは、脚本を書く段階で星山が気を配った部分だ。星山は、ストーリー案にあった、「ハロをプレゼントしたことで親しくなったアムロとフラウ」「アムロにとってフラウは女性を感じさせる存在ではない」という部分を受け取り、脚本で肉付けをして、ふたりを生きた人間として描き出した。
星山は自著『星山博之のアニメシナリオ教室』(※1)の中で、別のキャラクターを使ってあるキャラクターを描く手法の具体例として、『ガンダム』の第1話を挙げている。
この作品はいろいろな人の力が混じり合ってできた作品なので、僕が主体となった部分だけを述べたい。
(略)
視覚的に殺伐としているなかで、いかにアムロの内面を出していくかを考えていた。そこで僕はフラウ・ボゥという幼なじみの少女を登場させ、アムロの人間的に優しいところを出そうとした。この少女はアムロに対していろいろお節介を焼く。第一話の冒頭、フラウがアムロの部屋に上がり込んで、だらしなく下着姿でいるアムロを軽くしかったりしている。一転してその後、フラウは敵のメカに襲われ、目の前で親族を殺されてしまう。アムロはその時に、ショックを受けたフラウを励まし、彼女を逃がした上で、敵に向かっていく。このフラウという少女が媒介となって、アムロが一面的に内向的ではなく、別の側面を持つ幅のある人物であるということが描けたのだ。
また星山は、このシーンについて、別のところでこういうことも書いている。
シナリオに入る時、まず考えたのは、一話の中で極端なストーリー展開はさけ、視聴者(今だからいえるが、ボクはターゲットを中学生以上に考えていた)の生活リズム感、日常感覚をたんたんと、まさしくたんたんと描いてちょうどいいのではないかと思った。
(略)
このシーンの中で(フィルムではニュアンスが変わったが)面倒見のいいフラウ・ボウが、室にとび込んでくるなり、マイコン作りに熱中するアムロの世話を焼き「タオルと下着は?」とアムロに聞く。
すると、アムロはムキになって、
「いいよ、洗濯なら自分でするから」
と答える。
何故、アムロはムキになったのか。中学生にもなった男の子なら、思い当たるかもしれないが‟男の生理現象”をアムロも知っていることを表現したかった。
いやらしいなどといわないで欲しい。こんなシーンを引き合いにだしたのは、フィルム化されなかったことを云々しているのではない。
ボクが今まで書いて来たアニメの脚本と徹底的に違ったのは、生身の人間を描きたいばっかりに、こんなささいなことを重視した、それをいいたかったのだ。
では、このような工夫が凝らされた星山の脚本を富野はどのように演出したのか。
フラウがアムロの家にやってきて、リビングのテーブルに残されたサンドイッチを確認し、「まあ、また食べてない」と、2階のアムロの部屋に向かうところは、脚本通りの展開だ。フラウがアムロの部屋に入ると、脚本では「アムロが、床に座り込み、黙々とマイコン作りに、熱中している/フラウボゥ、アムロを意に介さず勝手になにやら探しものをしていく」とト書がある。
このト書に対して富野は、窓に向いた机にアムロを座らせ、マイコン組み立て用の顕微鏡を覗き込んでいるというシチュエーションを作った。通常の作業順で考えれば、第1話の脚本段階では、第1話限りのアムロの部屋の美術設定はなかったはずなので、机と顕微鏡というシチュエーションは絵コンテで決定したと考えられる。床に座って作業をしている様子は、マニアックな人間の「構わなさ」が伝わってくるシチュエーションではあるが、日常的に工作をしている人間であれば、作業台で作業をするほうが自然だろう。そのかわりアムロは、ランニングに縞のトランクスと下着姿で(絵コンテにト書はないが、そうわかるように描かれている)、そこに「構わなさ」が感じられるようになっている。
またここで重要な役割を果たしているのが、マイコンを組み立てるための顕微鏡の存在である。この小道具を用意したことで、「組み立てているマイコンを見ている」という演技が具体的になり、ト書にあった「黙々と」「熱中している」というイメージがしっかりとビジュアル化された。顕微鏡があったからこそ、突然部屋に入ってきたフラウのほうを振り向かずにいることが、「無視をしている」ではなく、「熱中」の結果であるということが伝わりやすくなっているのである。
フラウとアムロ2――日常の破れへ
続いて脚本は、フラウに「こんなことだと思ったわ」といわせて、「なにやら探しものをしていく」様子を描く。フラウを見ずにアムロが「なに探してんだよ、フラウボゥ」と尋ねた後「ね、バッグはどこ」「(指差し)そこにあるだろ」と会話は展開していく。
これに対して絵コンテでは、「こんなことだと思ったわ」の後に、整理ダンスを開けてバッグを取り出す芝居をしながら「朝食とらないの体のためによくないのよ」とお小言を口にし、「なに着ていくつもり、アムロ」と問いかける。
アムロはこの合間に、足元に転がってきた愛玩用ロボット・ハロに答えて「ハロ! 今日も元気だね」と第一声を発している。そしてフラウを振り返らずに、「このコンピューター組んだら食べるよ」と返事をする。
脚本と比べて台詞そのものが書き換えられているということ以上に重要なのは、絵コンテのほうの会話は、アムロとフラウの会話がちゃんと成り立ってない、というところにある。こうやってチグハグに始まった会話が、この後の「避難命令聞いてないの」「避難命令? さっきのサイレンそうなのかい」というやりとりでようやく嚙み合う。
この一連のシーンは、会話だけでなく、映像もふたりのチグハグなやりとりを踏まえて演出されている。一番のポイントは、アムロがずっと顕微鏡を覗きこんでいて、フラウに視線を送らないところにある。会話のシーンは、カメラを切り返して、会話をしている互いの顔を見せるのがオーソドックスな演出方法である。切り返しによる、視線の見交わしが、コミュニケーションが成立していることを観客に伝えるのだ。
アムロとフラウの会話の場合は、「さっきのサイレンそうなのかい」のところで、ようやくアムロは顕微鏡から顔を上げ、横向きにフラウのほうを振り向く。そして、その言葉と視線を、バストショットのフラウが「あきれた!」という台詞とともに受け止める。ここで初めてふたりの視線が交錯して、台詞のレベルだけでなく、映像のレベルでも会話が嚙み合ったことが表現される。
また、アムロの部屋という空間の中で、入口のドアと整理棚を結ぶ動線上を移動するフラウは、窓側にあるアムロの机まわりの空間に進むことがない。この微妙な距離感は、アムロとフラウの関係をみせつつ、アムロの内向的な性格を見せるために機能している。
フラウの「アムロ、時間ないのよ!」というセリフで、アムロはようやく、椅子から立ち上がる。この一連の流れは、この「時間ないのよ!」の台詞に向かって、セカセカと動くフラウと、いつもどおりのアムロという対比を見せて組み立てられているのである。
こうして実際に絵コンテの段階で再構築された一連のシーンをみると、脚本とは少し語り口の軸足が変わっていることがわかる。星山の脚本は、本人も記している通り「日常を淡々と描く」というほうに重心がかかっており、アムロとフラウの会話も、成り立っている分だけ「いつものふたりのやりとり」といった趣きが強い。
これに対し、絵コンテの段階では、いつもどおりのアムロと、避難命令を踏まえてテキパキ準備を進めるフラウの間の嚙み合わなさが強調されたことで、「日常を淡々と描く」のとは別のニュアンスが加わった。それは「ふたりの淡々とした日常が、避難命令によって破れつつある瞬間をとらえた」というニュアンスだ。この雰囲気は、ふたりのやりとりが終わった後、窓の外を避難を呼びかける電気自動車が通り過ぎることでさらに強調される。
表面上は静かな時間の流れの中に、その後の予感が演出で色濃く加わっているのである。
フラウとアムロ3――細かい芝居
脚本ではこの後、アムロの部屋で、ここも戦場になるのだろうかという不安をフラウが口にするが、絵コンテではそこは描写しない。そうした不安は、家を出て電気自動車エレカ――脚本では徒歩――で退避カプセルへと向かう時の会話として拾われている。つまり絵コンテでは、アムロの部屋では「アムロの性格」を印象付けつつ、「いつもの日常が変わりつつある予兆」を描くことに集中したのだ。
富野はアムロというキャラクターを演出することについて、マイクロ・コンピューターを組み立てるアムロとハロの会話で最初に印象付けを行い、ここを突破口にしてアムロを描写しようと考えたと記している(※2)。具体的には冒頭だと「アムロが朝食も忘れて、マイ・コンの組立てをしているだろうと思わせる、フラウ・ボゥのイントロのセリフ」と「机から立ち上がり背伸びをする描写」。ストーリーが展開してからは、「防空カプセルでのモノローグの気分」や「思わずガンダムのマニュアルに見入ってしまうというアムロの演技の展開」がそれにあたるとしている。
ちなみに絵コンテでは、机から立ち上がった後のアムロの背伸びは、指定はされていない。おそらく第1話の担当演出・貞光紳也と作画監督・安彦良和を交えた作画打ち合わせなどで、その演技を加えることが決まったのであろう。
ちなみに安彦は、富野と『勇者ライディーン』でコンビを組む以前からいくつかの現場で富野のコンテを見ていた。その印象は「お遊びも含めて、細かい芝居が入っていたりするので、アニメーターからすると手間の多い、面倒なコンテ」というもので「自分が作画監督の時は、大事でない細かい芝居はいろいろ省いたりもした」といったことを語っている。(※3)
逆にいうと、絵コンテにはないこの背伸びの演技は、アムロを描くために必要な芝居だったということになる。また『ガンダム』第1話の出来栄えがよいのは、安彦が全カットのレイアウトを自ら描き、絵コンテが伝えようとする空間感や雰囲気をうまく実際の絵に落とし込んでいることも、無視できない要素である。
初操縦の説得力
ジオンの兵士デニムとジーンは、連邦軍もモビルスーツ開発をしていることを知り、功を焦ったジーンが、先手をとろうと攻撃を始める。ここから脚本と絵コンテはだいぶ乖離していく。特に構成上大きな変更があるところは無視できない。
脚本の展開は次のようになっている。
サイド7の民間人は、ドッキングベイ側にある連邦軍基地の近くの大きな地下壕にまとまって避難している。やがて、ジオン軍の攻撃が始まる。ジオン軍の援軍がやってきてさらに激しい戦闘になるのではと不安になった避難民は、ホワイトベースへの乗船を求めて、地上に出てくる。兵士の制止をふりきり、基地内へと入っていく住民。それが結果として住民をジオン軍の攻撃にさらすことになる。
地下壕から出てきたアムロは父テムをみつけて駆け寄る。テムは住民の避難よりガンダムの搭載を優先させようとしていた。それに反発するアムロ。そこにフラウが駆けてきて、父と母がジオン軍の攻撃で死んでしまったことを告げる。アムロが呆然としていると、ガンダムを乗せたトレーラーの運転席にミサイルがあたり、爆発とともに書類などが撒き散らされる(その前にテムが、重要書類をジープに積み込む描写があり、このジープはこのトレーラーの側に停車していた)。撒き散らされた書類の中にガンダムのマニュアルも入っており、悲しむフラウをホワイトベースへ向かわせ、アムロはガンダムに乗り込むことを決意する。
ストーリー案にあった、父の研究室に入り込んで、そこで資料を見る――だからガンダムを操縦できる――というアイデアを踏まえつつ、脚本では、アムロがガンダムに乗らざるを得ない状況が自然な流れで書かれている。ポイントは、フラウの両親の死と、ガンダムのマニュアルを手に入れるタイミングが非常に接近していること。つまり「絶対のピンチ」(戦う動機)と「反撃の鍵」(戦う手段)が同時にアムロのところにやってくるという構成で、第1話のストーリーで一番伝えるべきことがクリアに伝わってくるようになっている。
これが絵コンテでは構成が変わっている。
ジオン軍の攻撃が始まり、アムロはホワイトベースに避難させてもらえるよう父に掛け合ってくる、と防空カプセルの外へ出る。その後、父の居所を尋ねた連邦軍の士官の車が流れ弾で破壊され、そこに積まれていたコンテナの中からガンダムのマニュアルが降ってくる。アムロが、それを思わず読み始めてしまうのは、先述の通り、アムロの性格を感じさせる演出の一環だが、重要なのはここでCMが入るということだ。
脚本ではCMが入るタイミングは、ジオン兵が攻撃を始めるところとなっている。これはこれで「引き」の効果は強い。これに対し、アムロがガンダムのマニュアルを見つけるというのは、主役メカの登場の前触れだから引きの効果もあるが、それ以上の効果を作品にもたらしている。それはCMを間に挟むことによる省略の効果だ。
脚本の構成では、アムロの心理の転換点は明確に伝わってくるが、アムロがマニュアルを読んで理解する時間はほとんど存在しない。乗り込んでから後に、マニュアルを見ながら操作をするというト書はあるが、マニュアルをその場で繰りながら操縦するという行為が、映像になった時にどこまで説得力をもって見えるかは難しいところだ。
これに対し、絵コンテにおける構成の変更によって、アムロがマニュアルを理解する時間が確保されたという点は、作品のリアリティを担保するという意味で大きい。しかもさらにCM明けはジオン側の描写から入っている。CMの時間と、このカメラを別のところ=ジオン軍側に振っていることによる「省略」の効果により、実時間以上にアムロがマニュアルを読んでいる時間があるように感じられるのである。もちろんマニュアルなど素読しただけで、ガンダムのような兵器が動かせるわけはないだろう。だが、「省略」を含めたこうした時間をとることで、視聴者の感じる「もっともらしさ」は増す。
過去のロボットアニメにおいて、「操縦を覚える」プロセスは、あまりフィーチャーされてこなかった。このジャンルの元祖といえる『マジンガーZ』では第1話で、うまく操縦ができず、マジンガーZが暴走してしまう描写がありはするが、多くの作品で操縦の習熟には時間をあまり割いていない。先行する『ザンボット3』ではそこを「睡眠学習」という設定を導入することで、説得力をもたせようとしていた。
その点で、十代に向けてよりもっともらしい作品世界の構築を目指した『ガンダム』が、マニュアルを読み込む過程を「省略」を生かしつつ描いていくのは、非常に自然なことであった。
ガンダムに乗り込んだアムロは、慣れない操縦に苦心しながらも、なんとかジオン軍のザク2機を倒す。ちなみに脚本では、3機のザクを倒し、そこにはホワイトベースからの砲撃と、リュウの乗ったコア・ファイターの援護もあったという展開になっている。これは当初のストーリー案に則った内容なので、オーダーとして脚本に反映されたのだろう。絵コンテでは、ガンダム1機の活躍になっており、より第1話がアムロの物語であることが強調された形になっている。このように、脚本を踏まえつつも、さまざまな演出によって、アムロというキャラクターを鮮烈に印象付けたのが第1話だったのだ。(続く)
【参考文献】
※1 星山博之『星山博之のアニメシナリオ教室』(2007年、雷鳥社)
※2 富野由悠季「演出ノォト」/『機動戦士ガンダム 記録全集2』(1980年、日本サンライズ)所収
※3 「安彦良和、富野由悠季を語る」 https://ohtabookstand.com/2022/08/cnt-g-special-02/
(参考)
※ 富野由悠季著、氷川竜介・藤津亮太編『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』(2000年、キネマ旬報社)
※ 付録「HISTORICAL MATERIALS of MOBILE SUIT GUNDAM」/『機動戦士ガンダム Blu-ray メモリアルボックス』(2013年、バンダイビジュアル)に所収