富野由悠季論

〈9〉シャアをつくった名台詞――到達点としての『機動戦士ガンダム』第1話

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の二つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回はシリーズ「到達点としての『機動戦士ガンダム』第1話」最終回。第1話はなぜ視聴者を夢中にさせるのか。その魅力を演出面から読み解きます。(バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

前回「〈8〉アムロをどう演出したか」はこちら
 

初期設定のシャア

 脚本から絵コンテで大きく変わったポイントはもうひとつある。それは、アムロたちのライバルキャラクターである、ジオン軍の将校・シャアの描写だ。推測するに、おそらくシャアのキャラクター性は、脚本段階ではそこまで明確に決まっていなかったのではないだろうか。

 そもそも富野が書いた「ガンボーイ企画メモ」(※1)や「初期設定書」(※2)を見ても、シャアに関する記述は少ない。7ブロックに分けて書かれたストーリーメモでは、第1部「大地」の終盤、地上での戦いで敗れ、死んだと思われるが、第6部「誕生」で復活し、ペガサスへのこだわりを改めて語り、その後アムロに敗れる、という役回りとして描かれている。この段階のメモでは、ジオン公国を興したジオン・ズム・ダイクンの遺児であるという設定も導入されていない。

「ガンボーイ企画メモ」の中に含まれたジオン・ズム・ダイクンの家系図があり、そこには子供が4人書かれている。そして年長の2人は死んでおり、第3子のアイリシア・ダイクンと第4子のハロム・ダイクンが生きているというふうに書かれている。

 一方、セイラの前身といえるアシリア・マスのキャラクターについてのメモでは、ダイクンの遺児であり、メラン・コリ夫妻の養子であることが書かれている。おそらくこのアシリア・マスは、アイリシア・ダイクンと同一のキャラクターであろう。このようにセイラがジオンの子供であるという設定は初期から考えられていたが、シャアについては記述がない。これがストーリー案の段階になると第2話分には、本編と同様に、シャアとセイラが兄妹であるという記述が出てくる。

 こうして時系列を追って設定の変化を追いかけてみると、シャアとセイラが生き別れの兄妹であるという設定は、ストーリー案の段階で初めて浮上したアイデアのようだ。そもそも主人公サイドの人物像は初期から様々に練られているが、もともと敵方のキャラクター全般について、バックストーリーに関する記述は見当たらない。ここは脚本チームの個性やアイデアで膨らませることを期待していたところもあるだろう。そしてバックストーリー以上に、シャアの性格付けも決まったのはギリギリであるということがうかがえる。

 一方、シャアの造形に関しては『勇者ライディーン』の仮面をつけた敵役プリンス・シャーキンが原型といわれている。シャーキンは、プライドが高く冷酷な性格である一方、武人としての誇りももったキャラクターで、徐々に十代のアニメファンが目立ちつつあった時代に、女性ファンの人気を集めたキャラクターのひとりだった。このような前段を踏まえ、シャーキンをデザインした安彦が、仮面の敵役としてシャアもデザインしたのである。
 

「私もよくよく運のない男だな」――キャラクターを作るセリフ

 第1話のストーリー案には、偵察が任務の先兵たちの暴走を知ると「敵のモビルスーツの機密を得ることが出来るか、否かのほうが大きいのだ!」と激怒するシャアが書かれている。極めて普通の敵役的な感情表現である。

 これは脚本にも受け継がれている。暴走を知ったシャアは「(激怒)誰がそんな命令を下した!」「敵に姿を見られた以上、何がなんでも新兵器の機密を盗み出せ!」と強い語気で語っている。ラストシーンでも、モビルスーツ3機を失ったことを踏まえ「見ていろッ、必ず私が叩いてやる……」と「唇を震わせ一点を睨んでいる」(ト書)。こうした描写は、ストーリー案から受ける印象と連続している。ところが、これが絵コンテで一変するのである。

 冒頭のブリーフィングがなくなったため、絵コンテでシャアの初登場は、サイド7を巡洋艦ムサイのブリッジから眺めているシーンである。ブリッジの遠景に「サイド7に潜入したデニムからの連絡は?」と尋ねるオフ台詞(画面に顔が出ない台詞)が重なる。続いて仮面の姿のシャアの顔が映し出され「私もよくよく運のない男だな。作戦が終わっての帰り道であんな獲物に出会うとは……。ふふ、向こうの運がよかったのかな?」と台詞が続き、副官ドレンとのやりとりで、サイド7で連邦の秘密作戦が行われていてもおかしくないと説明される。

 この「よくよく運のない男」という台詞はかなり特殊で、とても自然とはいいづらい。「連邦の秘密作戦の端緒を摑んでしてやったり」という気持ちであるはずなのに、わざわざ自分は運がなく連邦軍こそ運がいいと逆説的な言い方をしている。非常にもってまわった言い方だ。芝居がかっているといってもいい。しかし、それによってシャアというキャラクターが猛烈に際立つことになった。

 経緯を見てきたとおり、シャアというキャラクターの実態は、企画段階ではそこまで明確なものではなかった。おそらく絵コンテでこの芝居がかった台詞が書かれた瞬間に、シャアというキャラクターが固まったのだろう。もしかすると、仮面の敵役というルックスが決まったことが、具体的にどういう芝居をさせるかということに繫がったのかもしれない。このあたりは富野が原作も兼ねているからこその荒業で、だからこそ脚本打ち合わせの段階ではその片鱗もなかったキャラクター像を、絵コンテで打ち出すことができたのだ。

 ストーリー案と脚本では怒声を発していた、ジーンの暴走の報告についても、絵コンテでは、見張りに残ったスレンダーから報告を受けると「連邦のモビルスーツは存在するのだな」「デニムに新兵が抑えられんとはな」と極めて実務的な応対をしている。なにより不測の事態に対し即座に怒ったりしないことで、シャアというキャラクターがかなりの自信家であることも垣間見える。

 そしてシャアというキャラクターの極めつきの台詞が、第1話最後の「認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを」という台詞である。現在は、シャアの名台詞として知られているが、これもまた「うまくいくと思った積極的な作戦が失敗したことに、自分の若さを感じるが、それを認めたくもない」という、複雑な自意識が反映された構造の台詞になっている。

 星山は第1話の試写を見た感想として

 正直いって衝撃を受けた。演出の切れのよさといい、アムロとフラウ・ボゥの戦火の中でのからみの時の演技といい、宇宙空間での遠近感といい、実に見事だった。

 シャアの唐突なセリフにムッとしたことを差し引いても、驚きに値する出来栄えだった。

 マイナー作品ばかりを作らされて来たスタッフの、‟みていろ!”という意気込みを、そこに感じた。

 一話にして、早くもボクの世界が犯されることを予感した時、監督と喧嘩したって最後まで付き合ってやると、不思議に燃えたことを今でも覚えている。(※3)

 と記している。

 ここ星山がいう「唐突なセリフ」というのは、シャアのラストの「認めたくないものだな」という台詞を指している。また「監督と喧嘩」については、星山は次のように語っている。

 富野さんがこういう話でいこうと方針を出す。僕はチーフだからその後で残りのライターと4人で、ここでこいつの性格を思い切り出そうとか、こいつの性格がまだ出ていないから、そこになんでもいいからワンエピソード入れてくれとか打ち合わせをしていた。ライター陣はそんな感じで体制を固めて、富野監督に「あんまり脚本を変えないでくださいよ。脚本を生かしてくださいよ」とお願いしていました。彼もそこで「わかった、わかった」と言うんだけど、でも彼は彼で自分の世界に入っちゃっているからやっぱり変えてしまう。そこに引っ張り合いがあったんです。(※4)

 富野はストーリー案を第6話まで書き、その後、ストーリー案を書いたのは第22話以降になる。その間は、星山が語るように、脚本家のアイデアと演出家の世界が拮抗しながら、引っ張り合いの中でシリーズが進行していったのである。
 

方向をコントロールする

 ここまでは脚本と絵コンテを照らし合わせながら、映像に変換されていく過程でなにが、どのように付け加えられてきたかを確認してきた。そこで富野は、脚本を踏まえつつも「進行する状況下にカメラを置く」アレンジをしたり、構成に手を加えたり、「キャラクターの印象付けの徹底」なども行った。それは演出という作業を通じて、脚本を改めて自分なりにブラッシュアップするという側面も持っていた。星山の語る「引っ張り合い」の部分である。

 しかし第1話の演出面でもっとも重要なのは、「被写体が画面上のどちらを向いているか/どちらに向かっていこうとしているか」という‟方向性”のコントロールが徹底していることだ。方向性のコントロールとは、被写体が画面のどちら側へ向かっていくかということを、物語の展開と連動させながら展開していく方法論で、ドラマの変化を視覚的に表現する原則のひとつである。これが『ライディーン』第1話では見られず、『ザンボット3』第1話になると、はっきり画面に現れるようになる。そして『ガンダム』第1話もまた、しっかりとこの原則が反映された画面になっている。本連載第7回の冒頭に、富野の演出家としての、その時点での到達点と書いたのは、この方向性のコントロールという大原則の上に、先述の「キャラクター描写の徹底」や「進行する状況下にカメラを置く」といった演出の技が駆使されているからだ。

 第1話のサブタイトルが出た後、3機のザクは、画面右側から左へ向かって移動していく。その後も、ザクは基本的に左向きで画面の中に登場する。第1話の「ザクがサイド7を襲う」という本作の基本的なストーリーは、このザクの左向きの移動が大枠となって語られている。

 この「左の方向性を持つザク」という大枠の中に、アムロのドラマが織り込まれている。アムロはまず自宅を出てシェルターまで、左向きの方向性で進んでいく。しかし、ザクが攻撃を開始し、退避カプセルの中で振動を感じたところで、その方向性が切り替わる。ここでアムロは、右方向に進み出し、軍属である父テムに民間人をホワイトベースに避難させるよう頼んでくる、と退避カプセルの外に出るのである。

 次に大きく方向性が変わるのが、フラウと避難する途中でテムの姿を認めた瞬間。ここでアムロは左へとまた進んでいく。しかしテムは、避難民よりもガンダムの搬入を優先させようとしており、アムロが画面右方向にいる避難する人々のほうに戻ろうとした瞬間、大きな爆発が起き、フラウが吹き飛ばされる。

 両親を失ったフラウを励まし、彼女が画面右側にハケると、アムロは左方向へと進み出し、ガンダムに乗り込む。ここからガンダムの戦いは左向きの方向性で進んでいくことになる。

 ここで、冒頭から左向きに進んできたザクの方向性が変わる。ガンダムの登場でザクの方向性が右向きへと転換し、ここでザクとガンダムの持つベクトルが正面からぶつかることになって、戦いが発生する。そして1機目のザクを倒した後、背後から迫る2機目のザクを倒す時は、ガンダムはまた右向きに変わる。

 このように、「ザクのサイド7襲撃」という、左向きの方向性で描かれていくベースの上に、アムロの状況変化を方向性の変化で印象付けていく‟メロディ”が乗っており、それが一体となって『ガンダム』第1話は出来上がっているのだ。 

 第1話の映像の流れの原則である方向性の取り扱い方。脚本を踏まえて、より印象的にキャラクターを演出するスタイル。特徴的な台詞回し。こうした特徴は、後の富野作品に受け継がれていくことになる。

 『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督は『ガンダム』の第1話について、次のように語っている。

「構成と脚本の部分ですね。あと、面白さです。ロボットが出てくるアニメーションとしてはガンダムの一話が最高なんですよ、第一話ということでは、一番シンプルに作って、一番いいところをついている。シンプルだから崩せない。富野(由悠季)さんでさえ、あの一話は越えることができない。あの見事な構成と脚本。カメラの持って行き方も含めてすごくきれいですから。何の疑間もなく普通の少年が……いまから見れば。‟アムロ”って普通じゃないけれど、いままでと違った熱血タイプじゃない普通の少年が、ロボットに乗り込むっていうのをすごく素直に見せているんです。あれには勝てなかった。」(※5)

 では、このように第1話を演出した富野は、『機動戦士ガンダム』というシリーズをどのようにまとめようと考えていたのだろうか。演出家として明確な「スタイル=文体」を手に入れた富野が、それを使って戯作者としてなにを語ろうとしたのか。そこでは「ニュータイプ」というアイデアの扱いが大きな意味を持つことになる。

 

【参考文献】
※1 富野由悠季著、氷川竜介・藤津亮太編『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』(2000年、キネマ旬報社)
※2 付録「HISTORICAL MATERIALS of MOBILE SUIT GUNDAM」/『機動戦士ガンダム Blu-ray メモリアルボックス』(2013年、バンダイビジュアル)に所収
※3 「Spotlight/メインスタッフ1 星山博之」/『機動戦士ガンダム 記録全集2』(1980年、日本サンライズ)所収
※4 星山博之インタビュー/Web現代「ガンダム者」取材班編『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』(2002年、講談社)所収
※5 庵野秀明著、大泉実成編『スキゾ・エヴァンゲリオン』(1997年、太田出版)

 

関連書籍

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