評価されない頃の辛さ
穂村 高校生のときに演劇の大会で負けて、十勝から伊達へ戻るバスの中で悔し泣きしたって話があって、それから上京した後、うまくいかなくて自分はダメかもしれない、ただの人ではいられないのに、ただの人かもしれないと思い悩む。一緒にやろうとしていた女優から、ただの人でもいいんだよって言われて、でもそうしたら、彼女と演劇をすることはたまたま近くにいたからっていう関係性でしかなくなるから、それではだめなんだよね。
その気持ちはわかるんだけど、でも、恋愛とか家族ってたまたま近くにいたからというものだよね。友人にしても、特別な才能があるから、友達になったりするわけじゃない。
藤田 十勝から伊達のバスのことはかなり鮮明に憶えているんです。二つ上の先輩が引退する大会で、十勝から伊達までって八時間くらいかかるんですけど、先輩たちが引退するからみんな泣いている。僕にとってはそんなことはどうでもよくて、自分はみんなと違うんだなと思ってしまったんですよね。みんなが流しているような青春の涙みたいなのは理解ができなくて、僕は単に自分たちがつくってきた演劇がちゃんと評価されなかったことに苛立っていた。
大学でも、まわりが大学生らしいはしゃぎ方をしているのを冷ややかに見てしまって、ノレなかったし――お酒を飲むにしても、楽しいという気持ちになれたことはなくて、ずっと自分はいろいろズレてるのかなという感覚があった。自分が何者か、まだ決まっていないのに、どうしてそう振舞えるんだよ、って周囲にずっと苛々していましたね。でも、“ただの人”ではないはずだ、だから上京して演劇をやっている、という意識を持って人と関わると、その人との距離をどんどん感じざるを得なくなってくる。
穂村さんと出会ったくらいの二〇一一年あたりからようやくそうじゃない自分というのが、周りのみんなに届くようになった気がします。それまでは『T/S』に書いたように「演劇辛いのならやめていいんじゃない?」とたらふく言われ続けて、しかもみんなそれを僕に対しての善意で言っているのがわかったし、たかちゃんは“ただの人”でいいんだよ、っていうのが本当に辛かったです。二〇代前半。
穂村 大学生のときとか、劇団始めた頃とか、周りにいた人たちは藤田くんは才能があるって言ってくれてたの?
藤田 誰も言ってくれてなかったですね(笑)。でも、東京で出会う人みんな優しくて、応援してくれていたんだなと今となっては思うけど――でも、それはあくまで地方から出てきて頑張っている友だちを応援する、みたいな感じで――というか、そういうふうにしか、あのころの僕には関われなかったんだと思います。周りも。僕に才能がある、だなんて誰も思ってなかった。
自分自身も自分のことを信じていたとも思わないから、どうしてそれでも演劇を続けたのかは謎なんだけど、もちろん評判とかお金とか結果がぜんぜん伴わなくて、とにかく心配されて「無理して演劇をやらなくても――」みたいなことを、会う人みんなが言ってくるんですよ。それが辛くて、何度も演劇をやめようと思いましたね。二二歳とかそれくらいのころ。
でも、『T/S』を書きながら振り返ると、辛い辛いと思っていたあの時間が永遠のように感じていたのはたしかなんだけど、大学卒業して二年くらいで評価されるようになってきて、アルバイトも辞めれたし――
穂村 それは僕も感じて、作中に評価されない辛さは書いているけど、うまくいくきっかけとかは出てこないよね。
藤田 賞をいただいたとか、そのあたりの時期のことは書かなかったんですよね。さやかの時間は二〇一一年あたりで一度、時間を止めたかったんです。タカヒロだけがそのあとの時間を生きて、海外に公演しに行ったりしている。
穂村 こまばアゴラ劇場で有名劇作家にスルーされて悔しい思いをしたあたりから、いわき総合高校での卒業公演に飛んでいて、なんかいきなりうまくいってる(笑)。
僕が最初に会ったのは二〇一一年四月の『あ、ストレンジャー』のときだけど、それはちょうど評価されはじめって時期だったんだね。僕は昔、付き合ってた人に「おまえは今、下積みなんだよ」って言われたことがあって、それまでそういう自覚がなかったから、すごいびっくりした(笑)。
藤田 何歳ぐらいのときですか?
穂村 三〇代の半ばぐらいかな。当人としては励ましのつもりなんだろうけど、もう三〇代半ばだからね。スポーツ選手だったら引退とかを考える年齢だから、それで下積みだったらもう駄目なのでは? と思うよね。