演劇が変えられるもの
藤田 さっき穂村さんが言っていた、一〇〇人のうち九〇人がいいっていう言葉が百年後残るかといえば残らなくて、一人とか二人に深く刺さるもののほうが長く残るというのはすごく納得します。だからといってどんどんマニアックなものにしていくというのも違っていて、僕にとっては、本気度みたいな部分があるかないかが重要で、別にこういうのはマニアックだよねとか、これってカジュアルだよねというような尺度は決めておかない方がいいって思っているんです。
穂村さんの『水中翼船炎上中』が出たときにとてつもなくぐっとくる部分があったんですね。本気度が違うよな、と。僕は穂村さんと仕事もしたりして知っているから、これがいつまでも残ってほしいと思うわけです。ただ、短歌のことはわからないから、歌集としてどれだけ長く読まれるかは判断できないけれど――でも、誰に届けたいとか、どういう層に読まれたいとか、そういうふうに狙って書いてしまったものだと、ああいう表現は生まれないんだろうなってやっぱり思いましたね。だから、こう言うとありふれた言葉になりますけど――表現する側は自分の純度を守るのはもちろん、ますます高めていくしかないんだよな、と。
穂村 演劇は演劇そのものが残らない以上、人が残るしかないもんね。
藤田 そうなんですよ。だから僕の周りの人みんな、僕より早く死なないでほしいです。身体がなくなるというのは、文字がなくなるようなイメージなんです。
穂村 僕が観だした二〇一一年くらいの舞台は、みんなものすごい走り回って身体を酷使していたよね。
藤田 なにかを見出そうとしていましたよね。身体から、なにかを生もうとしていた。
穂村 最近の舞台ではかつてほど身体を酷使しなくなったよね。代わりにリフレインのタイミングとか変化が複雑で頭をすごく使う。まあお客さんにしたら、間違ってもわからないかもしれないけど(笑)。
藤田 まだまだ模索中なんですよね。ここ数年は、どうやって言葉を空間的に構築していくかということを考えてるんだけど――ただ、やりすぎると役者も観客も置いてくことになるみたいなので、もしかしたら『Dream a Dream』くらいシンプルな方がいいのかなとか――そんなにシンプルでもないけど(笑)――繰り返しているのがきちんとわかる、くらいの方が、シンプルに笑いとかには繋がるかなとか。そもそも笑いというのは、あんまり狙ってないんですけどね。
穂村 『T/S』は言語表現だから、やろうと思えばどれだけでも複雑に錯綜させることができる。でも、これを読むと、やっぱり役者がやっている感じがちゃんと浮かぶから、藤田くんの中の身体性ってすごく厳密なんだと思った。
藤田 一貫してこだわってるのは、ネタっぽくならないってことですね。一歩間違ったらコントっぽくなるのを、そうはしないとか――穂村さんとコラボをするときも、もっと短歌で遊ぶとか、専門外のひとが相手の専門のものをやるときのいかにもコラボらしい面白さがあると思うんだけど――あんまりそういうネタっぽい舞台にしたくないんです。その感覚の厳密さは、若いころからずっとあって、ただあまりもその感覚に忠実になりすぎると、観客との溝になってくこともわかってるから、そのギリギリをどう攻めていくか。
あと、穂村さんとのコラボの話で言うと、高校時代に最初に読んだのがエッセイだったのもあるんですけど、穂村さんのエッセイで十二分に面白いので、それを舞台で同じことをする必要を感じないんですよね。そもそも、あれ以上に面白い舞台なんて無理だし。だから、穂村さんのお父さんに会いに行こうとかそういう方向になっていった(笑)。
穂村 あるわかりやすい面白さが一方にあって、それをやらないとして、じゃあ未来を開くような現在における決断をしたいというのは、しかし抽象度が高すぎて、実際の現場では一回一回の判断になるわけだよね。その判断基準はどういうものなの?
藤田 うーん。そもそも自分の手に負えないものなんだというのは、いろんな挫折感と共にあるんです。たとえば『cocoon』とか、非常に直接的に、戦争というものと向き合いましたけど――この一〇年くらい取り組んでも、かたや世の中は何も変わらないし、むしろどんどん悪化していくというのが、今朝のニュースでも目の当たりにしますよね。僕がなにをやっても変わらない世界がある、変わらない未来があることを突きつけられるわけです。そこで、僕が見せられる範囲は、やっぱり何百人とかって単位でしかないんですけど、その人たちが劇場の外に出ていったとき、明日から世界を変えてくれとストレートに望むわけではないけど、彼らの見えている風景が少し変わるとか、その日寝るときの感じが少し変わるとか、そういう――小さくても少しずつ積み上げられていく一部になることが、僕の仕事なんじゃないかとは思っています。記憶にしか残らないものをつくっていく、物理的な幸せや、物理的になにかアクションを起こさなければと思わせるってだけじゃなくて、その人たちの内側にどう入り込めるかが、大事なんじゃないかと思う。だから、そこで「この世界は間違っている」ってことを、ただそれだけを過剰に言っても変わらないんだというのもわかりつつ――じゃあ次はどういう言葉で、どういう言い方をすれば、もう少し伝わるか、もう少し変わるか、というようなことを、日々ずっとかんがえています。
(五月一四日、都内にて収録)