ちくま新書

一風変わった、ヘンテコな、つまりはクィアな『ジェンダー・トラブル』入門
『バトラー入門』プロローグ

ジュディス・バトラーといえば『ジェンダー・トラブル』。でもこの本、すっごく難しいんでしょ……?
そんなふうに気後れしている方にも、一度(何度も)挫折した方にもおすすめの、とびきりファンキーな入門書が登場しました。
『ジェンダー・トラブル』が書かれた社会的、歴史的、思想的な文脈を知ることで、バトラーを時代ごと理解する!

 ジュディス・バトラーが1990年に『ジェンダー・トラブル ―― フェミニズムとアイデンティティの攪乱(Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity)』を世に問うてから、もう30年以上もの月日が流れた。バトラーは現代を代表するアメリカ合衆国の哲学者であり、フェミニスト・クィア理論家として有名である。『ジェンダー・トラブル』出版から現在にいたるまでバトラーは多数の著作を出版しつづけているが、それでもなお、私たち読者にとって「バトラーと言えば『ジェンダー・トラブル』」ではないだろうか。他の思想家たちにももちろん「主著」と呼ばれるものがあるだろうが、バトラーの場合、『ジェンダー・トラブル』を「主著」と呼ぶにはどこか生ぬるく、ほとんどバトラー自身の「代名詞」と言っても差し支えないほどのインパクトがある。

 ところが、である、その『ジェンダー・トラブル』こそがもっとも難解な著作なのである。どれだけの人がこの本につまずいたのだろう。あるいは、どれだけの人が「読んだ気になって」いるのだろう(あるいは、私も?)。そこで本書では『ジェンダー・トラブル』を中心にバトラーの理論を紹介・解説していくことにしたい ―― ただし、一風変わった、ヘンテコな、つまりはクィアな方法で。

 この間、有難いことに、筑摩書房をはじめとした出版社のいくつかから声をかけてもらった。その依頼のいくつかは、バトラーを「哲学」という切り口から論じてほしい、という種のものだった。それはひとつには、私が自著『ジュディス・バトラー ―― 生と哲学を賭けた闘い』でスピノザやヘーゲル、フーコーなどいわゆる「哲学者」との影響関係について書いたからだろう。しかし、当の私 ―― つまり、これをいま執筆している時点での私―― はと言えば、〝哲学的な切り口で〞バトラーを論じることにあまり気乗りしないでいる。これはいったい、どういうことだろう?

 このような依頼を寄せてくれる人たちには、当然、バトラーの思想や理論、そしてその重要性を多くの人に広く知ってほしいという思いがあるのだろう。しかし、これは私の邪推になるのだが、「バトラーを「哲学」という切り口から論じてほしいという依頼」には次のような思惑があるのではないだろうか ―― 「フェミニズム」や「クィア理論」と銘打ってしまうと、それらのテーマに抵抗感を抱く読者層は敬遠してしまうのではないか、それならば、「哲学」を入口にして、また「大御所の哲学者」と関連づけるような内容にすることによって、「ジェンダー」とか「セクシュアリティ」と聞くと敬遠しがちな人も読者層として取り込むことができ、バトラーの思想が「〝哲学的に〞重要である」と理解してもらえるのではないか、そして、それによって知らず知らずのうちに「フェミニズム/クィア理論」の大切さをも同時に伝えることもできるのではないか……、そのような思惑が。

 まるで、バトラーを彼らに「認めて」もらうためには、「哲学」の門をたたき、入門しなければいけないかのようだ。フェミニズムやクィア理論のエクスキューズとしての哲学? 「哲学的にこうこうこうだから、バトラーの言っていることは一理あるんですよ」?

 あるいはむしろ、私が大学院生のときに『ジュディス・バトラー ―― 生と哲学を賭けた闘い』を執筆していた頃、そのような気持ちがまったくなかったと果たして言えるだろうか。「哲学的にこうこうこうだから、バトラーの言っていることは一理あるんですよ〜」と言うことで、バトラーの思想を、ひいては私自身のバトラー研究を、「哲学研究」(とやら)として認めてほしい、そんな思いが一切なかったと言えるだろうか。

 いまにして思えば、それはそのときの私にとってこのギョーカイを生きるための生存戦略だったのかもしれない。ところで、このギョーカイについてよく知らない人に解説しておくと、たとえば、「1400名余を有する日本哲学会において、女性会員の比率は(近年微増傾向を示しつつも)未だ1割程度にとどまる」状況である(和泉、2017)。また試みに、たとえば、これを執筆している現在発行されている2021年度から過去10年間の日本哲学会の学会誌『哲学』の「公募論文」にジェンダー/セクシュアリティに関わる論文があるかをタイトルから調べてみると、その件数はゼロ件であった。日本哲学会はとくに「古典的な」印象の強い学会だが、他の哲学系の学会にしても程度の差はあれ似たようなものだ。学会のシンポジウムでジェンダーやセクシュアリティを扱って、学会誌のなかに「招待論文」としてその報告を載せて、なんとなくそれらについてやっているふうに見せる、あるいは、やった気になる、というのがこのギョーカイでよく見かける風景である。〝哲学的な切り口で〞バトラーを論じることに対する私の忌避感や違和感が少しは伝わっただろうか。「入門」と(一応)冠した本で、バトラーの理論を〝哲学的な切り口で〞解説し、もしもその解説があろうことか「権威」にでもなろうものなら、もう恐怖でしかない。

「えっ? フーコーを読んでないのにバトラーについて語っているの?」(あわわ)
「ヘーゲル読んでないのにバトラーのことを理解できると思ってるの?」(げげげ) 

 もしそんなことになれば、ただでさえ寝つきが悪いというのにこの先ますます眠れなくなりそうである。

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