ちくま新書

一風変わった、ヘンテコな、つまりはクィアな『ジェンダー・トラブル』入門
『バトラー入門』プロローグ

ジュディス・バトラーといえば『ジェンダー・トラブル』。でもこの本、すっごく難しいんでしょ……?
そんなふうに気後れしている方にも、一度(何度も)挫折した方にもおすすめの、とびきりファンキーな入門書が登場しました。
『ジェンダー・トラブル』が書かれた社会的、歴史的、思想的な文脈を知ることで、バトラーを時代ごと理解する!

 また、「入門」と称するなら、本の内容やコンセプトの観点からみても〝哲学的な切り口〞は向いていないとも思った。これまで、私は何度もバトラーの『ジェンダー・トラブル』の読書会や研究会に足を運んだが、その際によく感じるのは、「哲学的な前提知識」の必要性というよりもむしろ、「当時のフェミニストやセクシュアル・マイノリティが置かれていた社会的、歴史的、思想的な文脈に関する知識」の必要性のほうである。

 たとえば、ある研究会で、バトラーの『ジェンダー・トラブル』におけるブッチ/フェム論(後述するよー。いまは待ってね)の箇所の議論が一通り終わった後、参加者のひとりがこう切り出した ―― 「でも、ブッチ/フェムとかレズビアンSMとかが異性愛規範を再生産するものだっていう批判的な議論があるじゃない? それについてはバトラーはどう思っているんだろう?」 その方は私より年配のフェミニストの研究者なのだけど、失礼を承知で言うと、これはトンチンカンな質問である。実際、それを聞いたとき、私はずっこけそうになったものだ。「いままで私たちがした話、何だったの?」という言葉がつい口から出てしまいそうだった。

 これがいかにトンチンカンな質問であるかがわかる人は読者のなかにどれくらいいるのだろう?(もし、あなたが私の大切な学生なら、「この質問がなぜトンチンカンなのか、論じなさい」という具合に、本書を読んだあとのレポート課題にするにちがいない。ので、ここでは解説しないけど、本書を読めばわかるようにするから安心してね。)多分だけど、これを読んでいるほとんどの人はその理由がわからないと思う。しかし、バトラーの『ジェンダー・トラブル』を理解する上で、この点は些末な点ではまったくない。むしろ、この点を理解できないことは『ジェンダー・トラブル』の内容を理解する上では致命的であるとさえ言ってよい。

 たしかに、バトラーの『ジェンダー・トラブル』(やその他の著作)はきわめて「哲学的」で抽象的で難解な印象を与えるものであるし、事実、たくさんの哲学者の理論が援用されている(だから、誤解がないように言っておくと、私は別に「哲学」を全否定しているわけではない。というか、私は「哲学」が好き)。しかし、そこにばかり目を向けていると、バトラーがきわめて具体的な場面、その現場のなかにおり、そのなかで理論を展開しているという事実が見えにくくなってしまう。そして、バトラーの思想を「理論的」「哲学的」に研究する著作や論文では、この傾向はさらに強まってしまう(もちろん、私は自戒も込めてこう言っている)。

 そこで本書では、「あまり哲学的ではない方法」でバトラーの思想について話していこうと思う。概念や理論を解説するというよりは、むしろ、「哲学的には些末にみえる点」に拘ろう。絵が浮かぶような具体的なイメージを伝えてくれる言葉や文章、エピソードに注目しよう。あるいは、バトラーがなぜそのように語るのか、その具体的な現場の説明をできるだけ詳しく書こう。ああ、それから、もうひとつ ―― 「男性哲学者」の話は極力控えよう。彼らがいなくたってバトラーの話ができるんだってこと、身をもって示そうじゃないか。

 

 

関連書籍