そういうわけで、本書では、哲学系の入門書によくあるような著作順に考察するといったよくある方法もとらないし、バトラーの著作のなかの章立ての順序とかにも拘泥しない。それよりも、どうやったら面白く、興味深く、魅力的にバトラーの理論を語れるか、ただその一点に拘りたい。 そして、私は本書でひたすらに『ジェンダー・トラブル』に拘ることにする。他の著作や論文を参照することもあるが、それはあくまで『ジェンダー・トラブル』を理解するためである。私が『ジェンダー・トラブル』に拘るのは、もちろんそれだけ『ジェンダー・トラブル』が重要で面白いからでもあるが、それだけではなく、『ジェンダー・トラブル』を深く理解することがバトラーの思想や理論の核心を理解することでもあると考えるからだ。『ジェンダー・トラブル』の理解度が上がれば、バトラーの他の著作への解像度も上がる、そう考えるからである。
言ってしまえば、本書はバトラーの『ジェンダー・トラブル』の非公式ファンブックである。一介の『ジェンダー・トラブル』ファンが書いたファンジンだ。なので、自由に、軽快に、クィアにやらせてもらうよ。そして、それがある意味では『ジェンダー・トラブル』を紹介するのにもっとも適った方法であるとも私は思っている。
そこで、このプロローグの最後に、ひとつ、好きな話を紹介しておこうか。それは、バトラーが12歳だったときの話、バトラーはそのときの家庭教師に「将来の夢」を尋ねられたらしい。それに対して、バトラーはこう答えたという ―― 「哲学者かピエロになりたい。」 できすぎた逸話にも思えるし、脚色も入っているかもね。でも、このエピソードはバトラーの「哲学」への接し方をよく表していると思う。
たとえば、バトラーは同じ文章のなかで、「フェミニスト哲学は哲学か?」という問いに対して、それを聞いて「ぞっとした」というエピソードに触れている。似たような問いで言えば、「ジェンダーやセクシュアリティって「哲学的な問題」なの?」という問いもそうだろう(ああ、ぞっとする!)。これに対して、バトラーは「フェミニスト哲学は哲学か?」という問いは正しい問いではないとし、むしろ、「哲学は哲学か?」と問うべきだと述べている。私たちは誰しもがなんらかの形でジェンダーやセクシュアリティを生きている。その現実を無視した哲学など、果たして「哲学」と言えるのだろうか? 現在の「哲学」は本当に「哲学」なのか? このようなバトラーの問いに倣えば、「哲学者」に関しては次のように言い直すことができるかもしれない。「哲学者」は、「哲学者は哲学者なのか?」「哲学者とは何なのか?」「私は本当に哲学者なのか?」と問うべきである、と。
「哲学者かピエロになりたい」 ―― 私はこれを読んだとき、こう思った。ああ、バトラーはどちらの夢も叶えたんだ、バトラーは「哲学者で、かつピエロ」なんだ、って。