みんな”普通

第10回 世界はあいまいでできている

ほとんどのものはグラデーションだ。〇×しかない世界じゃないし、正解はもっとたくさんあったりする。

小学生の息子には何かにつけて、「○×で考えるのやめよう」と教えている。子どもには○×って言い方がわかりやすいからこう呼んでるけど、「白黒思考」とか「0-100(ゼロヒャク)思考」って言うとちょっと大人な感じになるだろうか。かんたんに言うと、極端に考えるのはやめよう、すべてのことには<間>があるんだからって教えだ。

これはいろんな状況で伝えてるんだけど、子どもにいちばん伝えやすいのがなにかを習得するときの話。たとえば授業で跳び箱を習ったとして、子どもは「できる=○」「できない=×」と単純な2軸で考えて一喜一憂してしまいがちだ。そりゃそうだよね、人生8年目だもん。

でもじつはその考え方ってあまり正確ではなくて、僕は息子に「両端に○と×が書いてあるメジャーをイメージしてしてごらん」と伝えている。左の端には真っ黒なインクで「×」が描いてある。そこから無数の「×」が続くんだけど、ちょっとずつ「○」が混ざってインクの色も薄くなっていく。そして真ん中あたりで完全グレーの「×○」になって、さらに右に進むと「○」の割合が増えて白に近づいて、右端で完全に白い「○」になる。そんなメジャー。

つまり、「○=できる」「×=できない」だけじゃなく、その間には「全然できない」「できそう」「ほとんどできる」みたいなどちらでもない状態があるんだよってことだ。計算もゲームも英語も、「できる」と「できない」の間にはたくさんの段階や成長がある。グラデーションがある。

 

 

そしてこの「物事にはグラデーションがある」論は、「できる/できない」に限った話じゃない。ほとんどの物事は、濃淡こそあれグラデーションの中にある。

すこし前、裁判傍聴にハマってよく裁判所に行ってたんだけど、意外だったのが勝ち負けはあっても「10対0」の判決はほとんどないってことだった。交通事故でも、10対0になるのはよっぽどの全力でどちらかが過失したときくらい。求刑10年であっても7年になるとか、それは情状酌量の余地があったからだとか、程度の差こそあれどこかの「間」におさまっていく。

周りを見ても、いい人も悪い人も100%どっちかだけってことはないでしょ? いい人でも少し自己中なところがあったり、悪い人でも情に厚かったり。最近はドラマやアニメでも「悪にも事情があるよね」ってトーンの作品がほとんどだし、さすがにフォローできねえなってくらいの100%悪、最近だとポケモンの「ロケット団」くらいしかおもいつかないもん。あれ、世界征服のためにポケモンを無慈悲に殺したりするからかなりの悪だよね。                                                                                                   

ちなみに最近は某特撮ヒーローの怪獣にも「事情」があって、軽く成敗したら宇宙に帰してあげるんだって。でっかい死体を地球で処理するのも大変だろうし、単に合理的になっただけかもしれないけど。

 

 

真っ白/真っ黒、ゼロ/ヒャクといった極論はわかりやすくてキャッチーなんだけど、社会でうまく生きていくためには半端さを心がけるほうが大事だったりする。

たとえば「自責的であれ」って考え方。一種の自己責任論。起こってることは自分の責任だって考えるのはときに必要なスタンスではあるんだけど、「いついかなる場合もすべてひとりで背負わねばならない」って100%自責ポリシーの人がいたらかなり危ういよね。どこかで爆発しちゃわないか、親しい人だったらハラハラしちゃうでしょ。

一方で100%他責ポリシーの人はほとんどサイコパスで、近くにいる人のメンタルを容赦なく破壊してしまう。成長もできないし、もちろん人から好かれない。

だから大切なのはバランスだ、ほどほどに自責でほどほどに他責。ケースバイケース。どっちつかず。全然キャッチーじゃないしポリシーもなさそうに見えるけど、ヘルシーににこにこ過ごすためには白黒思考よりずっと役に立つ。

こうしてその都度バランスを取ることと同時に、個別を見ることも大切だ。たとえば世代論。「みんな」なんていないと理解してたら、「若者は句読点をつけない」みたいなおおざっぱな「いまどきの若者像」を真に受けて振り回されたりしない。

知り合いが20代前半の息子さんに「若者ってみんな倍速視聴してるの?」と聞いたら、「んなわけないじゃん」と返されたと言っていた。彼女はむしろ疑って訊いたみたいだけど、極端な話はだいたい「んなわけない」エンドなんだよね。現実世界はケースバイケースだらけだし、「人による」だらけなんだから。

 

 

そもそも白黒思考の人は、答えはひとつしかないと思ってるんだよね。でも実際の「正解」ってもっとたくさんあったりするし、時間の流れで変わっていったりもする。

ちょっと意外な話だけど、科学も「絶対」が「絶対に」ない領域なんだって。「今わかっている範囲だとこうなる可能性が高い」と説明するのが誠実な態度。なのに、「結局どうなんですか!?」「絶対に大丈夫なんですか!?」ってすごい形相で詰め寄る人、コロナ禍でたくさん見たでしょ。「絶対ではないが可能性は低い」みたいな言葉にキーキー言っちゃう人。でも「絶対」、つまり反証可能性がないのはもう宗教なんだよね。

「答え」に飛びつかないこと、極論をあやしがること、そして反対意見にも耳を傾けることは、知的で科学的な態度だ。言い切らない人、意見を変えられる人のほうが誠実だって頭の片隅に置いておくと、人を見る目の養成につながるかもしれない。変なセミナーにも引っかからなくなるよ、たぶん。

白黒思考に染まっていくと、世の中を「敵と味方」の2色に分けて考えるようになるのもめちゃめちゃ怖い。しかも、ぜんぶ自分と同じ考えじゃないと簡単に敵認定してしまうようにもなる。敵と認定した相手には無駄に攻撃的になるし、排他的になる。嫌われるし学べない。それじゃ人生、どん詰まりだよね。

大切なのは、グレーポジションの人間として「この部分は賛成だけど、この部分は反対」って判断を重ねていくことだ。まるっと判断しない。まずは、「映画の趣味は合うけど政治的な価値観は合わない」みたいな友だちを切り捨てないことから始めるといいとおもう。穏やかでいられるし友だちは増えるし成長もできる。ふつうに幸せじゃない?

繰り返すけど、現実は「間」も妥協も譲歩もありまくりだ。○×、白黒、ゼロヒャク。こういう考え方に囚われると、大人社会ではうまくやっていけない。

凡庸だしキャッチーさに欠けるんだけど、堂々と「そこそこ」「まあまあ」「一部は」「場合による」「人による」みたいなあいまい人間でいよう。