spring

第一話 私の青空(後編)
spring another season

2024年3月の発売直後から大注目・恩田陸のバレエ小説『spring』、待望のスピンオフ連載がスタート! 本編では描ききれなかった秘められし舞台裏に加えて、個性弾けるキャラクターたちの気になるその後も明かされる予定です。表現者たちの切ないほどに尊い一瞬をぜひ最後まで見届けてください。記念すべき第一話目の主人公は、春と同じバレエ団に所属する”女王様”=ヴァネッサ・ガルブレイスです。前編とあわせてどうぞ。



 中庭に出て、木陰の石のベンチにあたしを座らせると、彼自身はあたしの足元の、石畳の上に腰を下ろした。
 静かにあたしを見上げて、あたしが話し出すのを待っている。
 あたしは、しばらく黙っていた。
 HALも、急かすことなく待っていてくれた。
 混乱した気持ちを落ち着けてからやっと、ボソボソと、自分がまいっている理由を説明した。
 彼はじっと話を聞いていた。
 が、あたしが話し終えると、くっ、くっ、と肩を揺らして笑い始めるではないか。
 やがて、こらえきれなくなったのか、アハハハハ、と大声で笑い出す。
 「何がおかしいのよ?」
 あたしはムッとして彼を睨みつけた。
 彼はひくひくと笑いながら、ようやく話し始めた。
 「だってさ、ホントにいるんだなー、そんな引き立て役をわざわざ買って出る奴、と思って」
 「え?」
 HALはいかにもおかしそうな顔であたしをじっと見た。
 「あのね、ヴァネッサは未来の大スターなんだよ? 現在、大スターへの道、絶賛驀進中。で、今、物語の最初のほうの場面なのね。バレエ団の中のイジワルな先輩たちなんて、あまりにも陳腐な、お話の最初のほうのお約束のモブキャラじゃん。凄い新人来た、脅威だ、今にも抜かれそうだ、ってビクビクして、そんなしょぼいイジメをするなんて、わざわざ私たち脇役です、って宣伝してるようなものじゃん」
 HALはゲラゲラ笑った。
「言ってやんなよ、私を主役と認めてくれてありがとう、引き立て役どうもありがとう、おかげであたしはぐんぐん成長しちゃうし、主役の自覚が芽生えましたわって」
 あたしはあっけに取られた。
 あまりにもHALが愉快そうに腹を抱えて笑っているので、なんだか馬鹿馬鹿しくなって、あたしもつられて吹きだしてしまう。
「そうね、ヒロインには多少の逆境も必要よね」
「そうそう。お話を盛り上げるためにも、ね。大丈夫だよ、ヴァネッサは俺が振付けたいと思うダンサーなんだし、俺の女王様だもの」
 HALはもう一度、恭しくあたしの手を取った。
「だから、ね。今日もとってもキレイだよ、ヴァネッサ。自信持ちなよ」
 あたしは、そのいつもの彼の笑顔にぐっと詰まってしまった。
 さっきとは違う涙が出てきそうになって、慌てて照れ隠しに呟く。
 「ホント、HALのその底抜けの能天気さって、羨ましいわ。悩んでたあたしがバカみたいじゃないの」
 「えっ、俺って能天気かな?」
 「自覚するところから始めてもらわないとね」
 「あ、そうそう。俺の先生がね、俺がこっちに留学する時に言ってたんだ。あんたが向こうで誉められたらあたしたちのおかげだし、あんたがけなされたらあんたのせいだからねって」
 あたしはぽかんとした。
「すごいこと言う先生だわね」
 マリア先生はそんなことは言わない。あたしがけなされたら、自分の責任だと思うだろう。
「でも、そういうことだと思うんだ」
 HALは真顔になった。
「俺たちがここに居られるのは、一〇〇パーセント先生のおかげ。先生が一からバレエを教えてくれて、俺たちのいいところを伸ばしてくれたから、今ここに居られる。だけど、踊ってるのは俺たちなんだから、先生が注意してくれたところを直せなかったり、直さなかったりするのは、俺たちのせい。そうだろ?」
 あたしはハッとした。
 もしかして――もしかしてあたしは、本当は心の底では、彼らに認められないのは先生のせいだと思っていたのではないだろうか?
「だから、ヴァネッサがけなされたんだとすれば、先生じゃなくて、ヴァネッサのせい。先生は関係ないから、気にすることないよ」
「何よ、それ。慰めになってるのかなってないのか、よく分からないわ」
「別に慰めたつもりはないよ。俺、できてないところは俺のせいだと思ってるもん。自分で気付いて、自分で直すしかない。もう、プロなんだもの」
 どきっとする。
 確かに、できていないところがいろいろあるのは事実なのだ。基礎に忠実になるより、無意識のうちに、自分の身体能力の高さに任せて、見栄えがよければいいだろうと楽なほうを選んでしまう、というような。どこかで、そういう自分にも気付いていた。先輩たちの当てこすりにも、当たっている部分がある。だからこそ、傷ついたのだ。
 メソメソしてる場合じゃない、と焦りに似たものがどっと押し寄せてくるのを感じた。
 先輩たちの発言は、実際に「そう感じる」動きをあたしがしている、ということだ。シビアに自分の動きを自覚して、意識的に修正していかなければ。
 あたしが考え込んでいるのを見て、HALはもう大丈夫だと思ったのだろう。
 立ち上がってお尻をはたくと、ニコッと笑った。
「戻ろっか。ぼちぼちレッスン、始まるし」

 その日以来、あたしは攻めに出た。
 ああいう当てこすりを耳にしたら、直接その場で、どこをどうすればいいのか、と質問することにしたのだ。
 勢いこんで声を掛けてきたあたしに、先輩方は何か文句でも言われるのかとギョッとした顔になったが、あたしがなりふりかまわず心からアドバイスを求めているのだと分かると、あっけに取られた顔になり、顔を見合わせた。
「いちばん気になるのは、体幹の強さを押し出しすぎるところね」
 先輩は、意外に率直に説明してくれた。
「体操じゃあるまいし、採点競技じゃないんだから、あなたの体幹の強さをわざわざ教えてもらう必要はない。むしろ、体幹の強さなんて、観客には分からないほうがいい。あたしたちはお客さんに素敵な踊りだと思ってもらいたいのであって、この人、体幹強いな、って思ってもらいたいわけじゃないでしょ?」
 確かに、言われてみれば、ミュージカルダンサーは、何かと身体の軸の強さを強調するところがあるし、観客もその軸の強さがぴしっと揃っているのを観るのを快感に思う。
 あそこか、とすぐに思い当たった。
「ここのところですか?」
 ちょっと動いてみると、「まさに、そこ」と先輩方が声を揃えた。
「じゃあ、ひょっとして、こんな感じにすればいいのかしら?」
 今度は、なるべく違いが分かるようにしてみる。
「そうそう、それよ」
 力強く頷くのを見て、「潮目」が変わるのを感じた。
「ありがとうございます。助かりました」
 そう丁重に感謝の念を示すと、先輩方の目にも、「おや、この子、思ってたのと違うじゃないの」という表情が浮かんでいるのが分かる。
「教える」という行為には、不思議な快感があるものらしい。
 あたしが素直にアドバイスを実行してみせると、先輩方はがぜん、教えるのが面白くなったらしく、それ以降、何かとアドバイスをくれるようになった。かつては欠点をあげつらう目だったのが、次第に「よくしてやろう」という目に変わっていくのが嬉しくて、こちらも応えようとファイトが湧く。
 さすが、先輩方のアドバイスはコーチの先生方とはまた違って、実に現実的で効果的なのもありがたかった。
 いつのまにか、HALのいう「モブキャラ」とあたしは、一気に「頼りになる先輩」「教えがいのある後輩」という関係になっていった。バレエ団に馴染み、その一員として認められた、という実感も持てたし、あたしが「アグニ」で主役に抜擢された頃には、誰もが納得して、心から祝福してくれたのだ。

「ダメじゃん、深津。そこんとこはもうちょっといかがわしく、色モノ感出してくんないとさー。ビシッと足を止めて、膝はこの角度ね」
 HALが例によってズケズケとJUNに指示する。
「オーロラも、大女優感、もっと出してよ。超タカビー、超ゴージャス。その二人が一緒に踊るのが面白いんだから」
 JUNがぼそっと呟いた。
「そんなの、普段のまんまじゃん」
「JUN、何か言った?」
「いーえ、何も」
 二人でタカビー感と色モノ感を強調しつつ、超絶リフトを連続で決め、長いタンゴのシークエンスをカッコよくピタリと止めると、確かにすっごくアドレナリンが出た。
 ドヤ顔で決めたあたしたちを見ていたHALは目を輝かせ、「きゃっ」と小さく叫んで両手を握り締めた。
「もう、JUNったら、最高! その調子よっ」
 突然、HALはJUNの首にがばっと腕を回してぶちゅっ、と唇にキスした。
「綺麗なおねーさんも、めっちゃあたし好み!」
 続けてあたしの唇にも「んーっ」と長いキス。その感触のあまりのなまめかしさに、一瞬ぼうっとなる。これか、魔性のモリーナ。
「やべっ、ぐらっと来た。ハル、おまえ、ホントにヤバイ奴だな」
 JUNがあたふたして飛びのき、ばちん、とHALの肩を力任せに叩いた。
「いてっ」
 あたしも苦笑して「道理でトラブるわけだわ」とJUNと顔を見合わせる。
 あ、スマンスマン、今の、完全にセクハラだったな、つい俺の心のモリーナが出てきちゃって、とHALは慌てて頭を搔いて笑った。
「うー。この蜘蛛女め。そのうち後ろから刺してやる」
 JUNが赤い顔をして唸ったので、思わずクスリと笑った。
「あらー、刃傷沙汰は勘弁してちょうだいねー」
 HALは目を丸くして両手を広げてみせる。
「てめえがその原因を作ってるんだろーが」
 全く、このそよ風男は。
 はーい、ちょっと休憩、次、刑務所長とオーロラとバレンティンのシーンね、とHALが小さく手を叩いてスタッフのところに移動していく。
 あたしは彼の背中を見送る。
 彼はいつもあたしの青空。あたしはあんたの女王様なんだから、この先もずっと、しもべとしてダンサーを引退するまで仕えてもらうからね。
 あたしの殺気を感じたのか、HALが不思議そうにあたしを振り返った。
 そのきょとんとした顔が、初めて会った時とちっとも変わっていなかったのが、なんだかとてもおかしかった。




(第一話 了)