些事にこだわり

日本国憲法という醜い日本語のテクストはどうしても好きになれないが、それでも憲法違反は憲法違反として、あくまで追及されねばならぬと思っている

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第20回を「ちくま」7月号より転載します。日本国憲法というテクストはなぜ醜いのか。「われら」とは? 「議員内閣制」とは? 「公務員による」という限定とは何なのか。あらためて日本国憲法を繙きたくなる一文です。ご覧下さい。

 定職というものを持たなくなってからすでに四半世紀もの歳月が経過している晩期高齢者なので、今日という日が何月の何日で何曜日かという日付と曜日の概念が途方もなく曖昧になってすでに久しい。今年が西暦の二〇二四年であることは漠とながら記憶しているが、何かの間違いでその後に首相になってしまったさる政治家が仏頂面でそう書かれた色紙を掲げてみせた「令和」という年号で数えると何年になるのかについては、そのつど携帯電話――俗に「スマホ」といわれもする下卑た装置である――を見て確かめないと、ごく自然にたどり着ける気がしていない。
 だが、それにしても、当時は官房長官だったその男の冴えない表情とともに想起されねばならぬ「令和」とは、何という不運な元号であることか。さして遠からぬ一時期に「昭和」という年号が存在していただけに、誰もが二つ目の「和」かよ、とその「和」という文字の退屈な反復ぶりを深く嘆いたものである。実際、昭和の「昭」と令和の「令」とのどちらがその字画からしてより正統的なものに見えるかと問われれば、とうとう八十八歳になってしまったこのわたくしなどの目には、「令和」が「昭和」の出来損ないの反復としか見えない。もっとも、かつて、母方の祖母が、その日が何年の何月の何日で何曜日であるかが判別できなくなったら「惚け」が始まるのだとひたすら口にしていたことを想起するなら、このわたくしなど、いま、まぎれもなくその徴候に取り憑かれているといっても、そこにさしたる誇張は含まれていない。
 ところで、いまからちょうど一月ほど前のことになるが、夕刻に青山のイタリア料理屋でごく親しい男女たちとの会食が予定されていたので、はやる心をおさえてタクシーを呼んだところ、今日はやたらに混んでおりますので、渋谷の周辺は避けてまいりましょうと運転手さんがいう。いったい何で混雑しているのかと問うてみたところ、今日は、ほら、「憲法何とかの日」という祝日ですからと苦笑いとともに相手は口にする。ああ、そうかと相槌を打ちながら、昔でいえば天長節などの「旗日」だったなと思いはしたが、そんな古めかしい語彙などとても通じそうもない相手だと見はからい、あとは沈黙をまもった。だがそれにしても、ゴールデン・ウイークをかたちづくる祝日の一つだというのに、誰もが「憲法なんとかの日」としか思い出せないというのだから、いったい何という惨めな祝日であることだろうか。
 帰宅後に資料に当たって調べて見ると、その日は「憲法記念日」というのが正式な名称だと明らかになりはしたものの、では、わたくしたちは、「憲法」を「記念」する「日」なるものをいかなる意味作用のつらなりと理解すればよいのか、訳が分からなくなる。もちろん、「憲法」の制定を「記念」する「日」というなら、わからぬでもない。だが、しかるべき数の条文のつらなりにすぎない「憲法」というものを、国民はいったいどのように「記念」すればよいのか。そもそも、どう見はからってもテクストでしかない「憲法」なるものを「記念」する「日」とは、いったい何を意味しているか。

 その後、比較的大きな辞書に当たってみると、「五月三日」は、「日本国憲法の施行(一九四七年五月三日)を記念し、国の成長を期する」という趣旨の「国民の祝日」だと書かれている。「国の成長を期する」という後半部分の記述はまったくもって初耳だったが、それがいったいどのように達成されるかについては、おそらく誰にも想像できなかったに違いない。「記念」さるべきはその「施行」という行為にほかならず、文字の連なりにほかならぬ「憲法」そのものが「記念」されるはずもなかろうからである。にもかかわらず、それを「憲法記念日」という意味不明の日本語で祝日と制定してしまうあたりに、われらが立法府に集うあれやこれやの政治家たちの言語能力の貧しさが顔をのぞかせているというしかあるまい。実際、「憲法記念日」という言表――「憲法」が何かを記念しているのか、それとも、何ものかがしかるべく「憲法」を記念しているとでもいうのか――は、言葉として、まったくもって意味不明としかいえぬからである。
 ここであえて書いておくなら、「憲法記念日」という休日をめぐる命名法の愚かなまでの悲惨さについてここで語り始めているのは、このわたくしが、わが日本国の「憲法」なるものに深い敬意を抱いており、この雑駁きわまりない名付け方がそれへの恥ずべき冒涜だと考えるからではいささかもない。事態はむしろその逆であり、このわたくしは、個人的には、「憲法」というものがまったくもって好きになれない個体なのである。あるいは、むしろ、「憲法」は嫌いだといっても、そこにはいかなる誇張も含まれていない。その理由は、これまでも何度かさまざまな場所に書いてきたことをあえてくり返すなら、わが国の憲法が占領中のアメリカ合衆国の軍隊によって書かれたものだから、だの、その第九条が交戦権を放棄しているから現状にふさわしくそれを改正すべきだなどという一部の人びとの主張とは、一切無縁のものである。したがって、いわゆる「九条問題」にかかわることもないこのわたくしが「憲法」というものを好きになれない唯一の理由は、そのテクストには、ありもしない嘘偽りが涼しい顔でありったけ書き込まれているからにほかならない。
 実際、その前文ともいうべき部分には、「われら」という誰とも知れぬ不気味な主体がいきなり登場させられており、そこでは、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」といったたぐいの途方もない出鱈目が書きこまれている。だが、いうまでもなかろうが、わたくし自身としては、そんな「国際社会」などというものをまったくもって信じていないし、また現実に目にしたこともない。
 実際、わたくしが知っている「国際社会」なるものは、朝鮮戦争からヴェトナム戦争、そして近くはロシアのウクライナ侵攻、さらにはイスラエルによるガザ地区への攻撃、等々、血なまぐさいことばかりやってのけている野蛮きわまりないものである。であるが故に、そんなところで「名誉ある地位」を占めたいと思ったことなど一度としてないと断定しておく。正直にいって、こんな「われら」の一員にだけは金輪際なりたくないというのが、正直な反応である。その条文にこんなことがらが恥ずかしげもなく書きこまれているのだから、野蛮きわまりない「日本国憲法」などというものとはいっさい無縁のまま、ひたすら戦争ばかりくり返している「国際社会」などからも遠く離れ、のどかに日々を送りたいと心底から思わずにはおられないのである。
 さらに、前文ともいうべきものを締め括る言葉に目を通してみると、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」とも書かれている。だがそれにしても、馬鹿なことをいうものではないと思わず憤らずにはいられない。多くの方がそうだと思うが、わたくしもまたそんなことを「誓ひ」たいと思ったことなど一度としてないし、今後もまたないだろうと断言することができる。それでいながら、自分が「日本国民」の一人であることを否定するつもりなど、さらさらない。いま見たように憲法は日本語のテクストとして大嫌いだが、あえてそれが存在していることを否定するつもりもさらさらないというだけの話である。「憲法」なるものを「記念」するのだというこの無意味なまでに稀薄な祝日にふと思いおこさせてくれたのは、そんなことでしかなかった。

 ところで、その不愉快きわまりない日本国憲法という日本語のテクストをいま少し詳しく読み進めてみると、その第四章の「国会」という項目の第四十一条には、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」と書かれている。また、その第五章の「内閣」という項目の第六十五条には、「行政権は、内閣に属する」とも書かれており、その後には司法権の問題も論じられていたりするのだから、日本という国の「立法」機関は国会にほかならず、またその「行政」機関は内閣だと、日本国憲法はまごうかたなく定義している。
 だとするなら、その局面にもよろうが、「内閣」の一員にほかならぬ国会議員の大臣と、その大臣が所属している政党――多くの場合、それは政権与党と呼ばれている――の他の「国会議員」とは、それぞれ本質的に異なる政治的な役割と機能とを演じざるをえないということになる。それが、いわゆる「三権分立」の実態にほかならぬからだが、はたして、そのそれぞれの国会議員にそうした確かな役割分担の意識があってのうえで振る舞っているのかと問うてみた場合、これは大いに疑わしいといわざるをえない。
 また、第三章の「国民の権利及び義務」の第十五条の②には、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」と書かれている。それについて、あれは確か安倍政権時代の事例だと記憶しているが、あたかも「一部の奉仕者」であることがごく当然であるかのように堂々と振る舞ってみせる「公務員」の実例を誰もが知っていたこともあり、あれは間違いなく憲法違反ということになるのだろうと思う。憲法というものがどうしても好きになれない者でも、憲法違反は憲法違反として追及さるべきだと思うが、さしあたり、その事実に強く固執することはせずにおく。
 最後に論じておくが、第三章の第三十六条には、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と述べられている奇態な項目も現憲法には存在している。これなど、二〇二四年の「憲法記念日」なるものをそれと意識することなく生きつつある者の目には、甚だ奇妙な項目と映る。そこには、旧憲法下で堂々と行われていた恥ずべき事態への反省がこめられているのだろうが、「公務員」以外の主体による「拷問及び残虐な刑罰」なら許されているかのように読めてしまうので、いくぶんか奇妙な感じを受ける。だが、いずれにせよ、完璧な憲法というものなど国民の誰ひとりとして期待していないのだから、それはそれとしてひとまず受け入れておくこととする。

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