私が中国のフェミニズム(女権主義)を重点的に取材しはじめた2020年前後には、これを「最後の社会運動」と受け止める考え方が、少なくとも女権主義関係者の間ではすでにひろく共有されていたと思う。
たとえば、中国で女性の権利獲得などを目指してきた著名な女性運動家の呂頻氏(49)は21年の年末、滞在先の米国で北京からのオンライン取材に答え、「女権主義は、幸運にも中国で最後まで残った社会運動となった。ほかのあらゆる社会運動はほぼすべて抑圧され、声を消されてしまった。これが中国での情勢であり、私たちが変えることは極めて難しい」と語った。
筆者が北京で特派員として働きはじめた10年代後半、中国では民主主義を求める運動や憲法をよりどころに人々の権利擁護を訴える運動などは、当局の弾圧によってほぼ壊滅状態にあった。幸運にも関係者らを取材する機会に恵まれ、厳しい体験に基づく鋭い批判や洞察に深い感銘を受けることもあった。しかし極めて残念ながら、中国国内ではそうした運動の影響力は限られていた。関係者のほとんどが当局の監視を受けて活動が制限されているか、刑務所の中にいるからだ。
労働問題や環境破壊、少数民族、宗教などの分野でも、自分たちの苦境を訴え、変革を求める声が存在していたが、どの分野にあっても当局の統制は厳しく、そうした声を聴くことすら容易ではなかった。人々は不満や怒りの声を上げる手段を失いつつあった。
こんな状況にあって、差別的な境遇に対する女性の不満や失望、怒りはさまざまな場面で大きな声となって中国社会に響いていた。性別に起因する不平等な待遇は、なにか特別な機会に気づくものばかりではなく、日常生活のはしばしで遭遇するものだ。女性たちが日常生活の中で抱える不満や怒りを抑え込むのは、中国政府にとっても容易ではない。平たくいえば、セクハラがなくならなければ、セクハラへの怒りの声を消し去るのは難しい。自分たちの置かれた不平等な待遇に対する怒りが、社会の変革を求める声につながるのは自然な流れといえる。
もちろんそうした声が政府の統制を受けなかったわけではない。中国で女権主義は「境外勢力(外国勢力)」との批判を受け、社会の安定を損なう存在とみなされた。少なからぬ女権主義者が当局による直接的な監視や抑圧、逮捕の対象となった。インターネット上でも激しい攻撃を受けた。女性の声に一部応える形で法改正などもあったが、実質的な効果は乏しく、MeToo運動の当事者らが求めた司法による救済は実現しなかった。
もともと、中国の女権主義が共産党政権へのダイレクトな批判を展開することは多くない。中国国内で党や政府を批判すればすぐさま身の危険が生じるという事情もあり、女権主義は、それが不可避であるときを除けば、政治との直接的な対決をなるべく避けようとしていたようにみえる。政権の許した枠の中での穏当な運動が唯一の道だったといえるが、その枠ですら急速に縮小し、日本からみれば極めて穏当な活動(たとえば女権主義をテーマとした小規模な集会を開くこと)も許されなくなっていった。
それでも、女性の声はかき消されていない。行き着いた先が22年11月末に、過度に厳格で不条理な防疫措置に反対した「白紙運動」であり、「不婚不育」(結婚せず子どもも産まない)という女性の生き方だ。前者は一義的には「ゼロコロナ」政策への不満が爆発したものだが、女権主義の影響は大きい。後者のような女性の考え方の変化について、中国当局は少子化の原因とみなして問題視している。筆者の考えでは「不婚不育」という生き方は少子化の原因というよりも、現在の社会状況がもたらした一つの帰結であるが、いずれにしても少子化は、豊富な人口が支えてきた中国の発展にも影響するはずだ。
本書は、主に18〜23年ごろまでの中国の女権主義に関する動きを追う。ある特定の国で、特定の時期に、フェミニズムが強い影響力を持つことがあるが、中国ではそれがこの時期にあたるのではないだろうか。おおむねMeToo運動の盛り上がりから始まり、それに対する抑えつけや少子化の加速を経て、22年の白紙運動とその後の影響までの時期が、本書の対象となる。
中国では、フェミニズムは「女権主義(女権)」「女性主義」などと訳される。女権主義はより権利に重きを置き、女性主義はジェンダーや性別などの視点を重視するようだ。女権主義のほうが強硬な響きがあるとして、この言葉を避ける人もいる。「実際のところはわからないが、女性主義のほうが女権主義より当局の言論統制の対象になりにくいような気がする」というメディア関係者もいた。「女権主義」は20世紀初めに参政権獲得を目指す運動の中で使われたという歴史的経緯もある。本書では、女権主義という言葉を使っていた取材対象者が多かったという理由から、主に女権主義と表記するが、カギカッコの中などでは本人の発言に従って女性主義も使用する。