単行本

カルチャー愛好家のための新たな重要文献
デーヴィッド・マークス『STATUS AND CULTURE』書評

私たちのセンスやアイデンティティの起源から、流行の絶え間ないサイクルまで――〈文化という謎〉を解き明かすために、人間がもつ「ステイタス」への根源的な欲望を探求する話題の書『STATUS AND CULTURE』。本書を「サブカルチャー先端の現場に常にこの人あり」なインターネットユーザーとして知られる動物豆知識bot氏に読み解いていただいた。PR誌「ちくま」2024年8月号掲載の書評を大幅に増補加筆してお送りします。

「文化」という大いなる謎

『STATUS AND CULTURE』が発表からたった2年で日本語でも読めるようになったことは喜ばしい。『AMETORA――日本がアメリカンスタイルを救った物語』の著者、W・デーヴィッド・マークスの新刊は原著の発売当時からまわりのカルチャー愛好家の間で話題になっていた。カルチャー研究の重要書が日本で翻訳されることが少なくなっている昨今、これはうれしいニュースである。

前作『AMETORA』は日本におけるアメリカン・ファッションの歴史を取り扱ったノンフィクションだ。1998年の東京にまだ学生だった著者はいた。講談社のファッション雑誌でインターンをしたときに東京のストリートで「裏原」や当時まだ国内でしか知名度のなかったA Bathing Apeを目撃して、東京には独自のファッション空間シーンがあることに気がついたのだ。

アメリカで生まれたアイビーファッションがどのようにして日本へ伝わったのか。そして東京という小さなエリアでどのようにそのスタイルが模倣され、洗練化を続けたのか。やがて日本のアイビーは、アメリカ本国へと逆輸出されることになる。とうの昔にアイビーを忘れてしまったアメリカが日本のアイビーファッションを再発見するという逆転劇だ。自国発祥のファッションをアメリカ人が日本人の作ったカタログを参考にして、あまつさえ熱狂するという、文化の奇妙な冷凍保存。『AMETORA』は模倣品が本物を超える寓話であり、文化のアービトラージ(価値の差から「利ざや」を得ること)のレポートでもあった。

アメリカ人も日本人も認識していなかったファッションの奇妙な物語を描いた著者が次に関心を向けたのは、どんなスタイルだろうか? あるいはどんな文化だろうか? なんと本書が扱うのは、そのどちらでもない。彼が関心を向け、その謎を余すところなく解き明かそうとしたのは「文化」そのものだ。

ステイタスとカルチャー

著者の疑問を一言で言えば「なぜ文化には流行り廃りがあるのか?」だ。カルチャーはどこからともなく生まれ、何かのきっかけで流行し、やがて廃れていく。特定の流行り廃りに注目した分析はいくらでもあるものの、そんな当たり前のことを深く考えたことはあまりない。せいぜい「資本主義」だとか「業界の都合」で片付けてしまうことだろう。しかし、著者は『AMETORA』で見せた広い見識とリサーチによってこの問題に切り込んでいく。

この大いなる謎に立ち向かうために著者が用意した道具は「ステイタス」である。まず社会には階級がある。そして階級にはステイタスがついてくる。分かりやすいのは貴族だ。貴族の服装、振る舞い、言葉のすべてが「自分は貴族だ」と周りに知らせるシグナルになる。シグナルは役に立つ。平民には自分が貴族であることを伝え、同じ貴族には仲間であることを伝える。そして、シグナルは単なる認識標ではなく、貴族同士の微妙な違いを示す手段でもある。同じステイタスを持つ者同士の間でも、競争が行われるのだ。そしてステイタスに定着した慣習が「文化」になっていく。

封建制の時代、貴族は世襲制で、階級は固定されていた。しかし、今は資本主義の時代であり、没落する貴族もいれば、平民が一代で貴族を超える経済力を持つこともできる。となると、シグナリングにはややこしい問題が生じる。金で手に入るシグナルは真似されてしまうが、先祖代々続く貴族は成り上がり者と同列には見られたくない。金さえあれば誰でも「らしく」なられては、貴族はイヤなのだ。成り上がり者(本書では「ニューマネー」と呼ばれている)に模倣された振る舞い、すなわち金で解決できる慣習は下品に見えるために廃れていく。だからエリートはなるべく真似できないスタイルを探す。シグナリングのためのコストをあげるというわけだ。

なるほど確かに現代の日本でも、「家柄の良さ」や「成り上がりらしさ」はある。近年ならベンチャー企業の社長らしさ、コンサルらしさ、社会人らしさに学生らしさ、インターネットらしさもあるだろう。このように文化を定義されてみると、文化資本とは通貨のようなものに思えてくる。「らしさ」が文化なら、文化資本とは「らしさ」についての知識なのだ。しかし文化資本が通貨なのだとしても、貴族と不良はちがう国ではないだろうか?

実際のところ、そうなのだ。ラップがうまくても会社員にはなれないように、異なる文化の通貨を使ってステイタスを得ることはできない。経済資本で不良に成り切ってもフェイクでしかない。つまり経済資本と文化資本は異なる資本である「べき」なのだ。そしておそらく、我々はこのストリートの通貨単位を「プロップス」と呼んでいる。しかし文化資本が通貨なら、両替することだってできる。それがクリエイターの仕事だ。ストリートに近い人々が生み出す文化はたいてい逸脱していて刺激的なのだ。そのクリエイションがひとを惹きつけることを我々はよく知っているはずだ。

ストリートからスタイルが生まれ、クリエイターが商品化して流行になり、セレブリティが着るようになり、大量生産された結果、お父さんが着るようになったらもうダサい。人間が延々と繰り返してきた文化カルチャーという営みの複雑な歴史を解き明かしていくさまは『AMETORA』と通ずるものがある。

インターネットは文化に何をもたらしたか?

産業革命と資本主義によって庶民が成り上がれるようになったことで固定された社会階級が崩れ、ステイタスのルールが複雑になった。ステイタスのルールを書き換えるのはいつだって革命なのだ。そして産業革命と資本主義の次に現れたのがIT革命だった。そもそもITとはインフォメーション・テクノロジーの略、つまりIT革命とはコンピュータとインターネットを含む情報の流通革命を指す。インターネットはこの20年間でステイタスの構造にもっとも影響を与えたゲーム・チェンジャーである。インターネットによって光の速さで情報は巡り、我々はその気になれば世界中のあらゆるトレンドをリアルタイムで知ることができるようになった。

「 "情報が無料フリーになりたがっている" 状態では、情報は強力なシグナリング・コストになり得ない」。エリートの秘密もストリートの秘密も、手元のスマホを数回タップすれば誰にでも開かれている。コストさえ払えばインターネットで買えないものはほとんどない。文化資本が貨幣として通用しないとなると、ステイタスを真似されないために「経済資本」が力を取り戻す。「私はこんなに買ってるぞ」というシグナルを出すのは下品だが、ほかに変わるものがない。

著者の導入した新しい視点がある。『ポストパンク・ジェネレーション』などでも知られる批評家のサイモン・レイノルズが著書『レトロマニア』で取り上げた概念である「レトロマニア」(『レトロマニア』は著者のブログ「Néojaponisme」も下敷きにしている)、その次世代版とも言えるデジタル・ネイティブの感性「ネオマニア」だ。


「Ⅹ世代による過去の過大評価である〈レトロマニア〉、Z世代による過去の放棄である〈ネオマニア〉」


『AMETORA』と最も繋がりあるのはこのインターネット以降の時代を扱った章だろう。前著は、アメリカでは忘れ去られたアイビーが日本に輸入され、繰り返し模倣され、より洗練された形でアメリカへ輸出された歴史を紐解いた物語だが、同時に戦後の日本、特に東京がいかにコスモポリタンな空間を形作ったかを描いた歴史でもあった。

小さなエリアにすごい速度で流通する商品と情報。この状況はインターネットが当たり前になった世界と似ている。90年代の東京文化とは特定の時代・特定の文化に根ざすのではなく、すべてがミックスされた空間だった。あらゆる文化はカタログ化され、◯◯系で括られる。文化は生まれた伝統から切り離され、あくまでもスタイルが重視された。これはインターネットの現在とよく似ている。

決定的に違うのは、カタログの量も速度も段違いなことだ。崇められる Aesthetics(美学)は毎秒増え続けている。かつて「ホンモノ」の担保は「マニアック」だったが、ネオマニア世代は選び取った美学のマニアになるより「ネオ」そのものに価値を置いた。

テクノロジーは現在進行形でルールを書き換え続けているが、この視点は、現状のスケッチとしてはかなり筋のよいものに感じられる。技術は常に進歩し、情報は増え続けている。生成AIもギアをひとつ進めるだろう。それでもステイタスを追い求める人間の行動力学が変わらない以上、環境が変わっても新しい攻略法が生まれるだけだ。低コストでRTA(リアルタイムアタック)できるやつが最強の環境はまだまだ続きそうだ。

サブカルチャーを愛好していると思われる著者は意外にも(サブカル愛好家はレア盤を持っている優越感を大事にしたいものだ)ステイタスの差異化によって得られる利益を均等化するべきだと主張する。そんなことは可能なのだろうか?

私は案外、それを成し遂げるのは現在価値が暴落している「研究」という営みなのかもしれないと思う。パンクやヒップホップがファッションだけではないことを、アカデミアや在野の研究者から学んだ人も少なくないだろう。研究はインターネットの速度には追いつけないが、未来へ届けることはできる。

この本を読むべき人は誰か?

この本には哲学から経済学、芸術理論に至るまでアカデミックな言葉がずらずらと登場する。書店では社会学・文化人類学の棚におかれても不思議ではない。個人的には、社会の構造を見抜いて検証しているという意味で『存在しない女たち』や近年の大塚英志の仕事とも通じるところが感じられる。

けれどもそんな専門用語が一つもわからなくても、この本は十分に楽しめる。まちがいなく『ヒップ――アメリカにおけるかっこよさの系譜学』『海賊のジレンマ』『反逆の神話』といったカルチャー重要文献に連なる一冊であり、その新たなる基本書だ。

この本を楽しむための「文化資本」は、時代の流行を追いかけて、振り回された(あるいは現在進行形で振り回されている)あなたの青春の経験だ。流行り廃りに振り回されたすべてのカルチャー愛好家こそがこの本を最も興奮して読むことができるし、読み終えた時、きっと驚きや納得、反感、虚しさだけでない、複雑で貴重な感慨を味わうことができるだろう。



新聞、雑誌で大絶賛された傑作ノンフィクション
『AMETORA――日本がアメリカンスタイルを救った物語』著者が描き出す「文化の謎」
「ニューヨーク・タイムズ」「ウォール・ストリート・ジャーナル」賞賛!
本書は文化を理解するための―― そして文化を変える術を学ぶためのマニュアルである。
STATUS AND CULTURE――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学​

関連書籍