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1954年、24歳の青年は軍用機に乗ってベルギーに向かった
1954年10月、ベルギーの軍用機が一人の青年を乗せて韓国を飛び立った。青年は北朝鮮の出身の23歳、韓国政府から発給された留学生用旅券を持っていた。彼の行き先はベルギーの首都ブリュッセルから南に約70キロ、ナミュールにあるイエズス会が運営する高校だった。ここで医学部に入るために勉強をすることになっていた。
「寄宿舎の屋根裏部屋が私の部屋でした。食堂の残り物をもらって食べていました」
チェ・ヨンホさんは若き日を振り返るが、辛かったのはそのことではなかったという。 「当時のヨーロッパはとても貧しくて、贅沢なんか言えません。それよりも、問題は学校の勉強に全くついていけなかったことです。フランス語がわからない。それで私は神経衰弱になってしまいました」
チェさんは当時を思い出して、本当に悲しそうな顔をした。
ベルギーは多言語国家であり、ナミュールのあるワロン地域はフランス語圏だ。チェさんは朝鮮戦争中に多少のフランス語を覚えたとはいえ、いきなり高校の授業についていけるはずもなかった。
「そんな時、アントワープの港湾事務所で働く人を探しているというので、そちらに連れて行かれました。勉強は無理だと判断されたのです。でも、社会保険がないので就職もできないと言われました。ところで……」
一呼吸置いたチェさんは、こちらをまっすぐ見た。
「港にはたくさんの船が停泊していたのです。それを見た瞬間に居ても立ってもいられなくなりました。私は船員になりたいと申し出ました。そうすれば北朝鮮の家に帰れるのではないかと」
アントワープ(現地の言葉ではアントウェルペン)は画家ルーベンスの故郷であり、『フランダースの犬』の舞台として知られる街だ。第二次世界大戦末期にはドイツ軍と連合国軍との激しい戦闘があったが、港はかろうじて破壊を免れた。街は戦後のヨーロッパ復興の拠点となり、港は米国からの物資を運ぶ大型船で活況を呈していた。
船舶会社の多くが、船員を募集していた。その一つ一つを訪ねてみたが、チェさんを採用してくれる会社はなかった。
「外国人は駄目だと言うのです。もう行き場はなかった。先生方はもう一年だけ頑張ってみろとおっしゃいました。最後のチャンス、死に物狂いで頑張りました」
そうして1955年10月、チェさんはルーヴァンにあるカトリック大学医学部に入学した。
医学部は卒業したものの
学業は順調だった。6年制の医学部を卒業した後、外科医の専修課程も終えた。ところが、そこから先はストレートには行かなかった。
一九六五年 ベルギー國の外科専門医の資格証書を受ける。併しながら、ベルギーの市民權を所持しない外国人なので、就職が不可能であった。
一九六八年 整形外科専門医の資格証書を受ける。歸國して韓國カトリック医大の教鞭を試圖したのだが、フランス語で医学をした故、韓國医学語彙の不自由、そして國家試験などの困難にぶつかり、再びヨーロッパに帰るやうになった。
2017年夏にお会いして以降も、チェさんからは何度かお手紙をいただいた。 日本語で書かれた手紙は筆致も力強く、とても80代後半の年齢とは思えない健筆ぶりだ(以下、チェさんとリアさんの手紙・メールは太字で表示する。また、旧字旧かな等は原文のままにして、明らかな誤字だけを修正した)。前編で紹介したように、1930年生まれのチェさんは、小中学校では日本語の教育を受けた。また、高等教育のほとんどの期間はフランス語であり、韓国語で教育を受けたのは帝国日本の敗戦から朝鮮戦争勃発までのわずかな期間にすぎなかった。しかも、当時は韓国語で書かれた教材なども十分ではなかっただろう。
免許を持つベルギーで働くことができず、韓国での就職と医師免許獲得を断念したチェさんは、米国への移民を模索する。1965年の移民法改正を受けて、米国はアジア人にも門戸を開くことになり、韓国人の間で米国移民は、大きなムーブメントとなっていた。
米國に移民する積りで、アメリカ國家医師試験であるECFMG試験を受け、合格する。直ちに、アメリカ移民手續を始めたが、出身地が共産国であり色々な理由で残念ながら失敗したのだった。
「共産国」というのは、北朝鮮のことだろう。でも、当時のチェさんは韓国政府からパスポートが発行されていたはずだ。
「16歳以降に住んでいたところをすべて書いて提出しろと言われたんです。16歳の時、私は故郷の黄海道にいましたから、そこが北朝鮮となったのです」
でも、その後に南に渡り、朝鮮戦争では米軍が主導する国連軍と一緒に行動していたではないか。
「そこで米国大使館は条件を出してきました。1年間ベトナム戦争に従軍すれば、市民権を与えると。私は外科医ですから、戦場にはとても必要な人材だったのでしょう。でも、もう戦地は嫌でした」
チェさんは米国行きを断念する。