移動する人びと、刻まれた記憶

最終話 放浪の医師②
元NATO軍軍医、ドクター・チェ(後篇)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載最終話の後篇です。韓国からベルギー、モロッコ、コンゴ、スウェーデン、ドイツ…元NATO軍軍医チェさんの放浪は続きます。

故郷に帰るための旅
 「妻と不和ですって? チェさんもまったく何を言ってんだか。あんな仲のいい夫婦はいないわよ」
 二人をよく知るジャーナリストの栗田さんは大らかに笑った。
 「だって、リアさんはもともとオランダ語圏の人だけど、チェさんにあわせてフランス語で話すし、ブリュッセルの韓国文化院の行事にも熱心に通っている。それにあのお人形を見たでしょう? チェさんがお医者さんの時の」
 人形というのは、ドイツにいた頃の友人が作ってくれたというものだ。 私たちが行った時も、リアさんが真っ先に見せてくれた。
 「これが私の夫。とっても可愛いでしょう」
 小さなガラスケースの中で、手術着姿のチェさんがキョトンとこっちを向いていた。
 二人の家にはこれ以外にも、たくさんの人形や絵が飾られていた。よく見ると、韓国の昔の風景の切り絵や韓服を着た人形もある。リアさんが韓国文化院で習った韓紙工芸の作品だった。「素晴らしい奥様ですね」と褒めても、チェさんはわずかに口元をほころばすだけ。ここらへんは、いかにも東アジアの男だ。
 2018年5月、世界を驚かせた南北首脳会談のニュースを見ながらチェさんにメールを送ったら、すぐにリアさんから返事がきた。「68年ぶりに」という英文を見て、泣きそうになった。彼はあきらめていなかった。

 Dear Junko
 Thank you very much for your nice mail. We hope you go very well.
 My husband would like to go to N Korea very sooN !!!!! (After 68 years).
 Friendly greetings from Brussels.
 Yong-Ho & Ria.

 [順子へ
 素敵なメールをありがとう。元気にしているでしょうか。
 夫はいますぐにでも北朝鮮に行くことを望んでいます!!!(68年ぶりに)
 ブリュッセルより。 ヨンホとリア]

 数日後、カトリック教会のミサで夫婦に会ったという栗田さんからもメールをもらった。
 「チェさんは金正恩氏と文大統領との出逢いのシーンを感無量で眺めて、なんどもなんども涙しながら録画を再生して見ているそうよ」
 1989年、ベルリンの壁が崩壊するのを間近で経験したチェさんは、震える心で「次は朝鮮半島だ」と思ったという。それから10年後の2000年、金大中と金正日による初の南北首脳会談が実現し、離散家族の再会事業がスタートした。チェさんも即座に申請した。50年前に別れ別れになった家族。母はまだ生きているだろうか。しかし、再会予定者リストにチェさんの名前が載ることはなく、そこからさらに18年の時が流れた。

彼の手紙には再会への希望が綴られていた
 流れ行く歳月とともに、拙者も今は高齢になり、将来どんな風に愛する家族と再会できるだろうかと未知の中に待ち遠しくしています。家を出てきたのが1950年で、私の姉の最初の子供が今や七十歳に近づいているはずです。父母は百歳をとうに超え再会は不可能、私が家を出た後に生まれた甥や姪たちも私を全く見たことがないので、外人に見えるだろうと想像するのです。これ凡てが、善かれ悪しかれ、過ぎ去った二十世紀は如何なる事にぶつかっても生き抜いて、家族と或る日再会するのだという希望の中に今日に至ったのです。
 この原稿を書きながら、チェさんの道程を確認するために、何度も世界地図を広げた。試しにグーグルマップでアントワープを探し、ルート検索の目的地に平壌と入れてみた。アエロフロートで18時間、航空路線が表示されたモニター上には、広大なユーラシア大陸が映し出され、ベルギーはその西の果てにあった。地図をスクロールしていくと、その最も東の果てに朝鮮半島が現れる。ベルリンの壁はとうの昔になくなり、ヨーロッパの戦後は新しい段階に入ったが、アジアでは未だ第二次世界大戦が清算されていない。戦争を起こしたのは日本である。

 これ凡てが、善かれ悪しかれ、過ぎ去った二十世紀は如何なる事にぶつかっても生き抜いて、家族と或る日再会するのだという希望の中に今日に至ったのです。

 ぶつかっても、弾き返されても、必死に生き抜いてきたのは、故郷の家族と再会するためだった。それだけではない。チェさんは医師の仕事をリタイアした後、ブリュッセルの韓国大使館やカトリック教会を通して、子供たちに自分の体験を語る活動をしている。韓国語、日本語、フランス語、英語で――彼の手紙の末尾には、次のように書かれていた。

一体、何の為に数えきれぬ多くの若者が故郷を遠く離れ、異郷で血を流せねばならなかったのか。二十一世紀の若者は平和と共存共栄の道を辿れるやう切望しながら乱書を、宜しくお願いします。 蔡永昊

(完)

(ご愛読ありがとうございました! 本連載の書籍化を楽しみにお待ちいただければ幸いです)

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