モチーフで読む浮世絵

城と言えば、立派な天守?

お城の天守は、仰ぎ見られる存在であり、象徴的な場所でもありました。 今回は葛飾北斎と歌川芳虎の浮世絵を見てましょう。
図1 葛飾北斎「冨嶽三十六景 江戸日本橋」天保2~4年(1831~33)頃 メトロポリタン美術館蔵

  東海道や中山道といった五街道の起点となる日本橋。交通の要衝として常ににぎわっているこの橋が浮世絵に描かれる時、遠くに富士山、そして江戸城が見えていることが多い。その典型的な例が葛飾北斎の「冨嶽三十六景 江戸日本橋」(図1)である。

 画面の下に見える人々の頭は日本橋の雑踏を切り取ったもので、そこから富士山の方角を眺めている。川沿いに並ぶ土蔵を一点透視図法(厳密には消失点は一つではないが)で捉えた構図が印象的だ。だがここでは、川の先に見える江戸城に注目してほしい。

 城と言えば、天守を思い浮かべる人が多いだろう。天守とは城の本丸に築かれた最も高い物見櫓のことで、現在国宝に指定されている姫路城や松本城の天守は、五重六階の構造からなる威風堂々とした姿をしている。北斎が描くのも江戸城を象徴する天守と思われるかもしれないが、実は単なる櫓、すなわち城郭の隅に建てられた見張り台に過ぎない。

 江戸時代の始め、江戸城には巨大な天守があったが、明暦3年(1657)の明暦の大火によって焼失。江戸市街の復興が優先され、再建されることはなかった。図1が刊行された天保2~4年(1831~33)頃、江戸城には天守そのものが無かったのである。

 北斎が描いている左側の建物は三重櫓だが、おそらく本丸の南隅にある富士見櫓であろう。富士見櫓は、天守の焼失後、天守の代わりとして使用された。本丸の中では天守台に次いで高い場所にあり、日本橋からもよく見えたに違いない。日本全国の主要な天守よりも小さな櫓だが、富士山と共に江戸の町を象徴する重要なランドマークだったのである。
 

図2 歌川芳虎「水攻防戦之図」嘉永3年(1850) 東京都立中央図書館蔵

 さて、浮世絵に城が描かれる場合として、風景画の他に武者絵がある。戦国時代の武将たちの戦を描く中で、城をめぐる攻防はしばしば題材となる。歌川芳虎の「水攻防戦之図」(図2)は水の中に城が浮んでいるという奇妙な光景を描いた武者絵だ。

 天正10年(1582)、羽柴秀吉は毛利方の清水宗治が守る備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)を攻略するにあたり、城の周囲に長い土手を築き、近くの川をせき止めて城を水浸しにする奇策をとった。この絵はまさに備中高松城への水攻めが成功した場面である。

 ここでも城に注目してみよう。石垣の上にいくつもの櫓や城壁が築かれている。画面の中央には三重櫓があり、中では武士たちが守りを固め、屋根には鯱鉾(しやちほこ)が飾られている。だが実際の備中高松城は土塁によって築かれたもので、この絵のような石垣もなければ、漆喰壁の強固な櫓もなかった。この城は史実とはまったく異なる形をしているのである。

 江戸時代の武者絵には、存在しなかった石垣や天守、櫓が描かれることがしばしばあるが、歴史考証をする意識が低かったためであろう。だが、城と言えば漆喰壁の立派な天守や櫓というイメージが、江戸時代の頃から根強かったとも言えよう。