ちくま文庫

マルケスの中心的文体を味わえるのは絶対に『百年の孤独』と『エレンディラ』
ガルシア=マルケス『エレンディラ』特別寄稿

『百年の孤独』の文庫化で注目が集まるガルシア=マルケス。短篇集『エレンディラ』は、『百年の孤独』と『族長の秋』というふたつの大作にはさまれて生まれました。「大人のための残酷な童話」として書かれた6つの短篇と中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を収録。難解な『百年の孤独』に挫折してしまった人にも、『百年の孤独』の次の一冊にも、ガルシア=マルケス入門にもぴったりの一冊で、知る人ぞ知る傑作です。ご自身のブログでも『百年の孤独』について詳細に考察されているラテンアメリカ文学研究者の松本健二さんに、『エレンディラ』の魅力についてご寄稿いただきました。
 

 21世紀のいまなお世界におけるラテンアメリカ文学の代名詞はガブリエル・ガルシア=マルケス(以下マルケス)であり、その看板は長篇小説『百年の孤独』(1967)だ。翻訳を介して世界化したように見えるラテンアメリカの作家もいるにはいるが、マルケスと同じレベルで世界中の読者に愛されているスペイン語作家は、セルバンテスを除いて、いまのところひとりもいない。

 ところがこの作家は日本語でアクセス困難だった。

 幸いにも先ごろその物理的障壁が取り除かれ、私たちはようやく2冊の文庫を併置できる。本書、すなわち短篇集『エレンディラ』(鼓直・木村榮一訳、ちくま文庫)と『百年の孤独』(鼓直訳、新潮文庫)である。マルケスには重要作品が多数あり、包括的に読むなら腰を据えてかかる必要があるが、マルケスの中心的文体を存分に味わいたいのであれば、とりあえず何を置いても読むべきは、絶対にこの2冊だ。

 マルケスの文体について「マジックリアリズム」とかふざけたカタカナで講釈を垂れられても(私と同じように)ピンとこない人がいると思うので、敢えて表現するなら、それはスペイン語のチステ、いわゆる小話のそれである。日本の話芸でいうと史実を脚色していく講談にやや近いものだろうか、大まかな起承転結をつけ、場合によっては自由な脱線もしつつ、ホラをたっぷり交えながら「ありえなさそうな話をさも見てきたかのように話す」というオジサン・オバサンの市井講談師がラテンアメリカ全土にけっこういる。私自身そういうチステが得意な小型版マルケスと何度も接してきた。本書中の「失われた時の海」の海中都市散策のくだりなどは、それが海底かジャングルかアンデスの火山の中かはともかくとして、どこかで誰かから聞いたような記憶があるほどである。

 本書は『百年の孤独』の数年後に書かれているため、2冊のあいだにはエピソードについても関係性が見られる。たとえば表題作は「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」という長いものだが、これは『百年の孤独』の第3エピソードで青年時代のアウレリャノ・ブエンディアが遭遇した少女娼婦、すなわち自らが引き起こした火災の責任を取らされて祖母から日に何人もの男を相手にするよう強制されている「牝犬のように小さな乳房をした混血の娘」についてのエピソードのスピンアウト作品である(映画化を前提に書かれたという)。長篇としての堅固な構成をもつ『百年の孤独』では数多くのアネクドートが圧縮されて100年の時間軸に嵌め込まれているが、比較的自由に書いたと思しき『エレンディラ』の各短篇は圧縮というよりきらびやかなイメージの拡散を大きな特徴とする。

 マコンドという狭いカリブの共同体に凝固している『百年の孤独』をラテンアメリカ全体の縮図として想像するのはこの地域の社会や文化をある程度学習していない限りやや難しいかもしれない。しかしマルケス文学はその種の想像へと誘う脇道にあふれている。たとえば本書の一篇「この世でいちばん美しい水死人」、しばしばチェ・ゲバラのイメージと比較されるこの異様に元気な溺死体に女たちがラウタロという名をつける(が却下されて結局エステーバンに)というくだりをチリ人が読めば、その舞台は急に硝石砂漠の広がるアタカマ砂漠になるだろう(ラウタロはチリ先住民マプーチェの歴史的英雄の名前)。マルケス文学は語りにおける懐の深さをその特徴とする。異世界からの来訪者は、フランシス・ドレイク等の歴史上の人物というアイコンに姿を変えて再三現れてはラテンアメリカ史を俯瞰させ、カリブ沿岸のどこかと思しき湿地帯や砂漠は南米大陸のどこであっても、場合によっては米国とメキシコのあいだの砂漠としてもイメージできる言葉で組み立てられていることに気付く。文体はリアリズムなのだが、特定の狭い現実に拘束されない生命力を備えた「ラテンアメリカのどこか」としか言いようのない世界が、そこには広がっている。

 マルケス文学の構成員は物理的アイコンだけに止まらない。本書のなかで私が最も好きな一篇「奇跡の行商人、善人のブラカマン」は、煮ても焼いても食えない大道芸人に弟子入りした男がひどい目に遭いながらも、やがてその男に成り代わっていく様をユーモラスに描く。おそらくこれを読んだスペイン人の多くはピカレスク小説『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』の主人公を思い出すことだろう。エレンディラの奇怪な祖母の、死んだ夫と死んだ二人の息子たちはいずれもアマディスという名だったが、これは新大陸に渡ったスペイン人コンキスタドールの多くがもっていた騎士道小説『アマディス・デ・ガウラ』を匂わせる。さらにエレンディラによって弄ばれるオランダ人の息子の名はウリセス、ということは、彼すなわちオデュッセウスはエレンディラ、すなわちペネロペと首尾よく結婚に至ることができるのだろうか(実際にはそうならず、あの小町娘のレメディオスやレベーカやアマランタやピラル・テルネラといったマコンドの女たちの欲望と怨念をすべて背負ったかのようなこのエレンディラは、消極的に男を待ち続けるどころか、最後は自由に羽ばたいていく)といった小ネタまで仕込まれている。

 これがあざとければ単なる遊戯文学に堕すのだが、どうもマルケスはこの種の文学的情報戦略、すなわち現実世界と表象世界のなかから読者と共有できそうなモチーフを巧みに拾ってきて、それを違和感なく物語につなぐという芸当を無意識的に実行できたようだ。おそらく彼は、スペイン語でフグラールと呼ばれる吟遊詩人、街から街を渡り歩いて世界の様々な情報を噓半分、真実半分で、しかも歌いながら、つまり詩にして伝える知的大道芸人の濃いDNAを受け継いでいたのだろう。

 マルケス文学の主要テーマは、政治性や歴史性にまつわる要素を省けば意外と単純だと私は考えていて、その鍵は『百年の孤独』という題名に織り込まれたスペイン語soledadにある。『エレンディラ』においては、「愛の彼方の変わることなき死」という短篇に凝縮された、この「孤独」という感情的残滓をめぐる様々な変奏がマルケス文学の中核をなしていることだけは間違いない。私たちラテンアメリカの人間はなぜ孤独なのか。マルケス文学は終始そこに留まり続けているように思われる。新潮文庫『百年の孤独』刊行を機に、本書も含めてこのラテンアメリカ文学の至宝がより多くの日本語読者に読み継がれ、語り継がれていくことを期待したい。

書名:『エレンディラ』(ちくま文庫)
著者名:ガブリエル・ガルシア=マルケス
訳者名: 鼓直、木村榮一
刊行日:1988年12月1日
頁数:208頁
定価:638円(税込)
ISBN:978-4-480-02277-6

好評発売中!

関連書籍

ガブリエル ガルシア=マルケス

エレンディラ (ちくま文庫 か-5-1)

筑摩書房

¥638

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入