富野由悠季論

〈10〉「ニュータイプ」が産んだ2つの顔――戯作としての『機動戦士ガンダム』

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の2つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回からはシリーズ「戯作としての『機動戦士ガンダム』」。『ガンダム』という作品にとって、ニュータイプとはなんだったのかを考える全3回です。(バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

「とんでもない展開」が触発する

 第7回で触れた通り、富野は第6話の後、第7話から第21話までは、ストーリー案を書いていない。

 第7話から第21話は、地上へ降りたホワイトベースが北米から太平洋を越え、ユーラシア大陸を横断していく過程を描いた内容だ。第7話から第15話までは、敵の司令官ガルマ・ザビとの戦いから始まり次なる敵となるランバ・ラルの登場を描くが、各話完結のエピソードも多く含まれる。第16話から第21話までは、ランバ・ラル隊との死闘とそれが、アムロたちの兄貴分であったリュウ・ホセイの死によって一区切りを迎えるまでが描かれる。

 「HISTORICAL MATERIALS of MOBILE SUIT GUNDAM」(*1)には、15話分のストーリーメモが存在しない理由が富野自身の寄稿「ファースト・ガンダムの構成案の欠落について」によって説明されている。

 それによると、この15話分の脚本作業を進めていた時期は、ほかの監督業務と重なって忙しかったことと、脚本作業にも勢いがある時期だったので打ち合わせで方向性の話をするものの、脚本に先立って富野がストーリーメモを書くことはなかったという。だからこそ「この時期の物語が独立性の高い物語になり、固有のキャラクターが登場して、とんでもない展開に」(寄稿)なっているのに対して、「ホワイトベースを中心にするための努力」(同)が必要だったと語っている。しかしその「とんでもない」(同)展開に触発されたことで、『ガンダム』という作品が豊かなものになったことも、富野はそこで認めている。

 例えば第13話について、「シナリオにアムロの母・カマリアには同棲している男がいるとは書いてなかったが、画面上で背後に男を置くという隠し技を使った。これは、当時のぼくが、シナリオを無視するコンテ・マン、演出家という悪評があったからで、それを回避する作戦」(同)と語っている。

 さらにラルと彼のパートナーであるハモンについては、「ライター任せであればこそ、ライター独自のアイデアと物語性がまず提示されて、それを演出的にいかにガンダム的に調和させるのかという仕事が、僕に課せられたわけで、このカップルを演出するにあたっては、燃えた」「(引用者注:2人の印象的なシーンも)シナリオでラルとハモンの組み合わせを創作してくれたからこそ、発想できたことなのだ」と記している。ちなみに16話から21話の6話分のうち、富野は5話分の絵コンテを手掛けており、独立性の高い第18話のみ貞光紳也が担当している。

 ラルの名前は前述の7ブロックのストーリーメモの段階で登場しているが、素直な戦士という程度の記述にとどまっている。その前に記述されている、ククルス・ドアンのほうが「坊ず! この命、貴様にならくれてやる」という台詞と相まって、本編のラルに近いイメージを持っている。いずれにせよガルマ退場後の、新たな敵キャラクターとして設定されたラルとハモンは、脚本家陣が仕込み、富野がそれを演出していく過程で大きな膨らみをもったキャラクターとして描かれることになった。
 

ランバ・ラルとクラウレ・ハモン

 ラルとハモンをどう演出したかについて、富野は次のように触れている。

 夫婦のようでありながら、普通の夫婦とは違う、という科白の展開には苦労した。つまり「本来なら、部下と指揮官のわたしたちだが、一緒に生活している仲だから……とかの、説明的な科白ではなく、ふたりの関係を表現するにはどうしたらよいのか? ということを集中的して考えたということだ。(※2)

 ランバ・ラルとハモンの登場するファーストカットは、宇宙船ザンジバルのブリッジに、ふたりが入ってくるカットだ。ハモンがドアを開け入ってくると、ドア脇の兵士がすぐにハモンに対し敬礼をする。ハモンは軍服を着ていないが、この兵士のリアクションでハモンの立ち位置がまず見える。その後、続いてラルが入ってくるが、ハモンはそれにともなって一旦脇に退き、ラルが入ると、ドアを閉めてその後へとついていく。ここで今度はハモンとラルとの関係性がみえてくる。

 続いて部下からホワイトベースを発見したことが伝えられる。しかしラルたちは、大気圏突入中で、ザンジバル以外は小型の大気圏突入用のポッドのため、ホワイトベースのいるところまで赴くには航続距離に難がある。

 状況を検討する会話の中、ハモンが椅子の後ろからランバ・ラルの肩にさりげなく手を置く。椅子に座ったラルも、自然にそこに自分の手を重ねる。そして「しかし手を出さずに行き過ぎる男なぞ、お前は嫌いだったな」という台詞。スキンシップの自然さと、ラルの、自分がハモンにどう見えているかをよくわかっている言葉から、今度はふたりの男女としての関係が見えてくる。

 ラルがパイロットスーツに身を包むと、ハモンが「やはり指揮官らしく収まっているあなたより、こうやって出撃なさる時のあなたを見るほうが好きだわ」と語り、ラルもごく自然に言葉を肯定する。その後、ふたりは軽くキスを交わす。このキスも、ラブシーンというほど大げさなものではなく、自然に重ねられる手と同じぐらい当たり前の風景として、さりげなく演出されている。

 ふたりがお互いのことをよく理解していることが伝わっているダイアローグと、自然なスキンシップ。こうして夫婦ではなく、まして若い恋人同士でもない、男女のムードを出そうとしていることが伝わってくる。
 

出会いを演出する「空間」

 アムロがこのふたりと出会うことになるエピソードが、第19話「ランバ・ラル特攻!」だ。ブライトに反発してホワイトベースを脱走したアムロ。彼は中立地帯の食堂で、ランバ・ラルの部隊と出くわしてしまう。

 富野はこのシーンの演出について、ハモンとラルという‟一対の男女像”をアムロに見せたかった、という趣旨のことを書いている(※2)。それは、アムロに目を留めたハモンに対しラルが「フフ、あんな子が欲しいのか?」と投げかけ、ハモンが「ふ、そうね」と答えるあたりに現れている。ここは先述の初登場のシーンの演出の延長線上にある。

 加えて、このシーンで注目したいのは、食堂という空間を巧みに使うことで、アムロとラルたちの関係性を浮かび上がらせる演出だ。

 この食堂は演出的に3つの空間に分かれている。まずひとつは、アムロが座っているカウンターの席。これは店の奥のほうに位置している。次が、ラルたちが入っていて腰掛ける、入口に近いテーブル席。そして3つ目が、このシーンでキャラクターが出入りすることになる、食堂の入口だ。

 

 アムロは、店の奥の席で硬いパンと水だけの食事をとっている。そこにジオン兵が入口から入ってくる。緊張するアムロ。そこでアムロの目に映ったのがハモンだ。屋外の強い光でホワイトアウトした背景に、スカーフを脱ぎながらハモンが入ってくる。このとき、ハモンはちらと進行方向とは違うほうに視線を送るように見える。

 カメラを切り返して、カメラはアムロにT.U.(トラックアップ、被写体に接近するカメラワーク)していく。これは‟ハモンの見た目(ハモン自身の視線)”の表現で、実時間以上に長いT.U.の間が、ハモンがアムロに注視している印象を与える。そこでさらに切り返して、ハモンのアップになると、ここで彼女が目を細め、少し笑ったように見える様子が描かれる。

 ハモンは、自分たちが食事するのに合わせ、アムロにもおごろうとする。これに対しアムロは、ハモンたちの座るテーブルの近くまで移動して、自分は乞食ではないので理由もなくおごられるいわれはない、と断る。この時のアムロは、ハモンと視線の見交わしで生まれた‟線”に導かれるように、店奥の自分の空間を出て、ハモンたちのいるテーブルの空間へと足を踏み入れたのである。

 しかしその度胸がかえってラルに気にいられ「俺からもおごらせてもらうよ」といわれてしまう。このとき画面は、ハモンの後頭部を画面左側にナメて(後頭部越しに)アムロを捉え、画面右側にはラルが立っている。アムロは画面の中で、ハモンとラルに挟まれた形となり、アムロがこのテーブル周辺の空間から出るのが難しくなっていることが視覚化されている。

 

 この膠着状態に変化を与える存在が、食堂の入口から新たに入ってくる。脱走したアムロを探しにきたフラウ・ボゥだ。ジオン兵に捕らえられたフラウが入口に姿を見せたことで、今度は、テーブル近辺の空間と入口の間に線が生まれ、今度は、こちらの線上でドラマが発生する。

 フラウをよく見るため、入口まで移動するラル。緊張するアムロ。ハモンのほうを振り返ったラルの視線とアムロの視線が正面でぶつかり合う。ここから、それまでの「囚われた状態」ではなく「アムロ対ラル」を印象付けるカットが続く。

 アムロの困った様子に気がついてハモンが助け舟を出す。「その子、この子のガールフレンドですって」。それを聞いて、ラルは入口からテーブル近くのアムロの前まで戻ってくる。ラルがマントをめくりあげると、アムロはそこで拳銃を握っている。この緊張感が最も高まるくだりは終始ラルの視線とアムロの視線がぶつかり合う状況で進行している。この視線のぶつかり合いは、テーブルと入口を結ぶ線上で発生している。

 拳銃を見たラルは「いい度胸だ。ますます気に入った」といい、「しかし、戦場であったらこうはいかんぞ」とアムロを送り出す。こうしてアムロは、フラウと一緒に入口から出ていく。
 

『ガンダム』のリアリティはどこから来るか

 現代のアニメだったら、この食堂はもっと正確なパースペクティブで描かれるだろう。正確性という意味では、この食堂はそこまで正確な空間として描かれているわけではない。しかし、このシーンはドラマが繰り広げられる「空間」として見事に成立している。どうしてそういうことが起きているかというと、ここで描かれるドラマが、アムロの動線という形で空間的に設計されているからだ。

 先述のとおりこのシーンは「奥のカウンター席」と「テーブル付近」と「入口」という3つの空間から構成されている。アムロの動線は、奥のカウンターからスタートし、テーブル付近を通って、入口から外へ出るという形で設定されている。しかし、アムロはスムーズに移動することができない。テーブル付近でラルとハモンに捕まってしまうからだ。動線に沿った動きが阻害されることで、そこにドラマが生まれているのである。

 さらにアムロがテーブル付近に留まっているところにフラウが登場したことで、アムロはさらに進退窮まることになる。このとき、入口方向にラルが立ち、アムロの動線を塞ぐ形で配置されることになる。

 

 動線を軸にした演出プランとそれによって伝えたいドラマ。それがこのように各カットのレイアウト(画面構成)にしっかりと反映されているからこそ、この食堂は物語の舞台となる「空間」として見事に成り立っているのである。

 ラルとハモンという男女に存在感が宿ったのは、演技や台詞が持つリアリティだけが理由ではない。食堂という舞台も、ドラマと絡み合って表現されたことにより、リアリティある空間として視聴者の中に存在するようになったのである。劇作家の別役実は「舞台空間は、登場人物がそこに入りこむことによってはじめて、息づき、単に物理的な空間ではないものになる」と指摘する。『ガンダム』の持つリアリティとは、まさにそういう登場人物の描き方と、舞台空間との相互作用から生まれていたことが、この食堂のシーンを見ると実感できる。
 

『ハイジ』で学んだもの

 富野は、どこでこのようなドラマと空間の相互関係を自らの手法としたのか。第4講で触れたように〔編集部注:本連載では割愛〕『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976)、『超電磁マシーン ボルテスV』(1977)で既に、空間を生かした演出が見られるので、ここより以前に、おそらくその萌芽があったと考えられる。

 考えられる要素として、『アルプスの少女ハイジ』(1974)、『母をたずねて三千里』(1976)に絵コンテマンとして参加した経験は無視することはできない。両作とも監督(クレジットは演出)は高畑勲。場面設定・レイアウト(画面構成)を宮崎駿が担当している。また富野はこの後の『赤毛のアン』(1979)にも絵コンテで参加している。

 場面設定とは、画面に登場する舞台などをデザインする役職で、美術設定とプロップデザインを兼ねたような役職だ。レイアウトは、絵コンテに描かれた演出家のプランをもとに、画面の構図を具体的な絵として決め込む役職。実写でいうならカメラマンに相当する役割といえる。

 『ハイジ』のレイアウト作業について、宮崎は自らが設定した山小屋の中に「カメラを持ち込んだつもりで絵を描いた」(※3)と回想している。当時のアニメの背景は、絵画的な魅力は別として、書割のような扱いが多く、空間を表現するという意識は薄かった。そこに対して、ちゃんと空間の中に登場人物がいるように描こうと取り組んだ極初期の作品が『ハイジ』であった。それは単に立体的な空間を描くというだけでなく、その空間の中を登場人物がどう動くか、という動線の設計も含んだ挑戦だった。

 富野が『ハイジ』などで描いた絵コンテが、どの程度採用され、どの程度画面に残っているかは具体的には不明だ。ただ『ハイジ』などに見られる、生活の細部をリアリティをもって描くことで登場人物像や世界を構築していくスタイルは、『機動戦士ガンダム』にも色濃く見られる。ここから考えても、なんらかの影響はあったと考えるほうが自然だろう。
 

ニュータイプという鍵

 ここで重要なのは、戯作者・富野はこのようなリアリティを感じさせる人物や空間描写を『ガンダム』という作品のゴールとして考えていなかった、という点だ。富野はそれを、ニュータイプという作品の鍵となる概念を浮かび上がらせるための、必要なプロセスとして考えていたのである。この姿勢こそ、富野のその後の作風を考えていく上で重要なポイントといえる。

 ニュータイプとは『ガンダム』の終盤に登場する、理解力と洞察力が高まった人間を指す言葉だ。「物事の本質を摑む力に優れる」という表現をされることからもわかるとおり、ニュータイプはある種の理想を込めた存在としてある。しかし同時にその能力は「勘の良さ」という形で発現するため、「戦闘力の高い人間」として強力なパイロットたりえる才能としても描かれている。

 初期設定書にはラストシーンについて「恐らく、主人公に近い女性が、主人公かそれに近い男に対して、『私は、あなたの子供を生みたかった。今になって、そう思えます。』という語りで、終わることになる」というイメージが書かれている。

 しかし「演出ノォト」(※2)では、これについて「局・代理店・スポンサーに対しての、基本的な作品イメージの説明」であって、「この科白そのまま使えるようなドラマ創りは無理だ」と感じていたと書いている。

 その第一の理由が、ガンダムがロボットものであり、第二にSF作品だったからだ。

 設定書に書いた科白そのままが使えるようなラスト・シーンは間違いなくメロ・ドラマか、そうでなければ実写といわれている実際の人物を使って撮影したフィルムでなければ、使えない科白と考えていた。

(略)

 設定書にあるような生身のキャラクターの気分を伝えながら、SF的表現は何なのか…と、これは一ヵ月近くも考えた。

 そして、思いついたのが、〈ニュータイプ〉。

 この単語を思いついた時の嬉しかったことは、まず、読者諸君にどこまで判って貰えるか?

 そして、ラルとハモンのエピソードも、このニュータイプへの助走として位置づけられているのである、

 (引用者注:クライマックスで)アムロの想像力を拡大させる前に、大切なことがあるんじゃないか? という作者の立場の想像力が、ランバ・ラル夫妻の登場ということになるわけだ。

 現実の中(オールドタイプ世界)での人の良き姿、悪しき姿をみて判っていかなければ、ニュータイプへの発生なぞありはしないんじゃないか、と考えたんだ。

 それが、ランバ・ラルの登場であり、ニュータイプへ至る伏線となっている。

 つまり、人生の全体像をちょっとでも知る機会がなければ、例えアムロというニュータイプの素養をもった少年があっても、人のゆく道の目指すべき処を洞察するなぞは、できはしないだろうと考えたのだ。

 第7回で触れた通り、第7話から第21話までは、脚本家陣と富野が「引っ張りあい」をしながら、多様なエピソードが生み出されていた。その経緯を踏まえつつ、改めて富野は、第22話以降のストーリー案を自ら執筆することになるわけだが、それはつまり『ガンダム』という物語のゴールがニュータイプであるというところを目指して、改めて物語を組み立て直そうとしたわけだ。

 この作業(引用者注:ランバ・ラルのエピソードを演出)をしながら、シリーズ全体のテーマと終着点を考えていった時に、誤解を恐れずにいえば、実写的な発想のライターの感覚だけではアニメにならないのではないか、と思った。それで僕は、第21話以降のストーリー構成というものを書くことになった。(※1)

 こうしてニュータイプの導入により、『ガンダム』は2つの顔をもつようになった。ひとつは、内向的な少年が戦争に巻き込まれた結果、様々な人々と出会い世界を知っていくという「教養小説」としての顔。もうひとつが、戦争という人類の愚かな行為に巻き込まれた少年が、その中で超感覚(ニュータイプ能力)を獲得し、人類がよりましに生きられる可能性を示唆するという「SF」としての顔である。(続く)

 

イラスト:jimao

【参考文献】
※1 富野由悠季「ファースト・ガンダムの構成案の欠落について」/付録「HISTORICAL MATERIALS of MOBILE SUIT GUNDAM」『機動戦士ガンダム Blu-ray メモリアルボックス』(2013年、バンダイビジュアル)に所収
※2 富野由悠季「演出ノォト」/『機動戦士ガンダム 記録全集2』(1980年、日本サンライズ)所収
※3 「アルプスの少女ハイジ展〜その作り手たちの仕事〜」パンフレット、2005年、三鷹の森ジブリ美術館

 

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