富野由悠季論

〈11〉「ニュータイプ」とはなんだったか――戯作としての『機動戦士ガンダム』

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の二つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回はシリーズ「戯作としての『機動戦士ガンダム』」の第2回。なぜニュータイプにこだわったのか。「戯作」とはどういうことかを解き明かします。(バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

前回「「ニュータイプ」が産んだ2つの顔」はこちら


「ニュータイプ」をゴールとして組み立てる

 ここで一度、初期設定書の段階から、ニュータイプの発明に至る足取りを確認してみよう。

 初期企画案には、ニュータイプという具体的な言葉は書かれていない。しかし設定などを固めている1978年11月3日付のメモに「ラスト・メッセージに至るドラマとしてエスパーの導入あり得る」と記されてもいる。7ブロックに分かれたストーリーメモを見ても、敵役としてアステロイド・ララという13歳のエスパーの少女が登場している。また執筆時期不明の人物相関図には「星印のついたキャラクターはエスパーかもしれない」と書かれ、テムロ・アムロ(本編におけるアムロ)とアリシア・マス(本編におけるセイラ)にその印がついている。

 こうしてみると作品構想の初期の段階から、「人間の能力を超えた存在を登場させる」という狙いが富野の中にあったことがうかがえる。1978年10月30日付のメモには、シャリア・ブルというアムロと最終的に対峙するキャラクターのラストメッセージが書かれている。本編にもシャリア・ブルというキャラクターは登場するが、名前が同じだけで構想段階のこちらのキャラクターとは別ものの存在だ。

 ラストメッセージには「人類には、未だ、戦いという遊戯が必要なのだ」「伝習の時代は終わった。もはや、人類は、己の力で高めねばならない。太陽の輝きが銀河を飲み込むまでに、成長せねばならぬ。宇宙は精神のモチーフを持っている。もはや、時はない。300億年もない……」とスケールの大きなフレーズが並んでいる。これは第41話「光る宇宙」におけるララァとアムロというふたりのニュータイプが精神的交歓の中で対話したシーンの原型と見えなくもない。

 富野にとっては、このラストメッセージのような方向へと進んでいくのが、想定された『ガンダム』だったということだ。アニメにしてはずいぶんと人間臭い、リアリティあふれる群像劇は、富野にとってはそこににじり寄っていくための過程であり、ゴールではなかったのだ。

ニュータイプをひとつの観念として、‟なるほど、あり得るな”と思わせるために、『ガンダム』という作品の全体を、リアルな質感(タッチ)で描く必要があると判断した。/なぜ?/観念が()ぶから、としか答えようがない。まずは作品世界をリアルっぽく描くことによって、ニュータイプの観念を本当らしく見せることができるだろう。(※1)

 この発言は奇しくもスタンリー・キューブリック監督が『2001年宇宙の旅』(1968)について語ったコメントとよく似ている。

 キューブリックは同作は「神の探求」を扱った映画だとして「リアリスティックなハードウェアや全体のドキュメンタリーのような雰囲気は、この詩的なコンセプトに対する観客の根強い抵抗を柔げるために必要なことだった」(※2)と語っているのだ。

 『2001年宇宙の旅』は、宇宙に進出した人類がさらに進化しスターチャイルドとなるという物語。『ガンダム』がニュータイプという‟人類の革新”をゴールに置いたことと重なって見える部分も少なからずある。ちなみに富野は『ガンダム』の当時、『2001年宇宙の旅』を意識していたとおぼしく、例えば劇場版『機動戦士ガンダム』(1981)の挿入歌「スターチルドレン」は、先述のスターチャイルドを踏まえた命名と思われる。

 第22話以降のストーリーライン(以下、富野メモ)がどの時期に書かれたかは、よくわからない。スケジュールから考えると1979年前半ごろだろうと思われる。第6話までのストーリー案よりも、プロットとしてまとまった形で書かれている。

 富野メモをみると、第37話「ハロムの罠」では「エスパーの研究者、フラナガン博士」という言葉があり、第38話「テキサスの攻防」では「‟ニュータイプ”の人間のリスト」となっている。

 富野はインタビュー(※3)で、ニュータイプの発想の原点を「(ガンダムを)どうして動かせたんだといった時に、特別な能力を持たせるしかない。だから‟ニュータイプ”にしたんです」と説明している。そして第5話、第6話の作業のあたりで‟ニュータイプ”という単語を思いついたので、第9話「翔べ!ガンダム」で、補給部隊の隊長であるマチルダがアムロに対して「あなたはエスパーかもしれない」という台詞をいわせて、‟ニュータイプ”という言葉を登場させるための土壌づくりをしたと、回想している。

 富野は、エスパーという言葉について、‟ニュータイプ”という言葉のあくまで露払いとしてだけ使い、それを作品の鍵となる概念として使わないように意識したとも語っている(※3)。それはエスパーという言葉が、1960年代から様々なSF作品で使われており、安易な使われ方も多かったからだ。そこで「エスパーとか超能力といった言葉を使わずに、特別な能力を持った子供ということを限定出来るような言葉を見つけたい」ということで、発明された単語が‟ニュータイプ”だった。

 しかし、脚本家陣や安彦にとって、この「ニュータイプ」の導入は、納得しづらいものだった。

 安彦はこのようにインタビューに答えている。

 表現も何も、‟ニュータイプ”というのは、僕はわからないというか、あれだけは納得できなかったから、表現もへったくれもないと思った。
(略)
「ニュータイプもオールドタイプもねぇや」、というのが僕の考えです、最後まで、人間は等身大でいて欲しいと思ったしね。ただそれじゃあ幕が引けない。それと、SFファンみたいな人たちがいっぱいついて来ましたのでね。その時に、ニュータイプのようなどうとでも取れるような概念を持ってきて幕引きに持っていくというのは、富野氏は上手いな、とは思ったんです。(※3)

 あるいはムック(※4)に掲載された脚本陣による座談会ではこのように振り返られている。

荒木 (略)さっき、富野さんは照れ屋だといったけど、ニュータイプ話になってはじめて臆面もなくモロ理想像をだしたなァというふうに感じたな。

山本 ハッキリいって未消化だと思うけど、ま、ぼく自身、ニュータイプって半分ぐらいしかわからないもん(笑)

(略)

星山 あのニュータイプ話がでてきたころからね……いいたかないけど、ライターと作品が遊離していった時期なんだ。私なんかはさ、ニュータイプって出すならまずオールドタイプって何なのかを規定したいのね。旧タイプもなしに、突然ニュータイプが出てきちゃとまどうばかりで……ちょっとわだかまりとして残ったね。

 このようにスタッフからもなかなか理解を得られなかったニュータイプという概念だが、富野はどうして「ニュータイプ」という大風呂敷を広げることにこだわったのか。
 

なぜ「ニュータイプ」が必要だったか?

 それは『ガンダム』を富野が考える‟映画”にしようとしたからではないだろうか。

 後年、富野は映画について「間口がひろくて、時空を飛躍できる自由度のある舞台設定ができて、それをつかって物語る機能を持っている道具」(※5)と定義し、「そんなところで、ふたりだけの恋愛ものなどやっているのはもったいない。それは、舞台でやればよい。小説でもじゅうぶんなのだ」「映画はまず大スペクタクルであってほしいのだ。アニメはとうぜん映画だから、それをめざしていい」(同)と記している。そして同時に「ロボットだけがいても、映画的ヴァーチャルワールドは描けない。物語がなければ、物語の時間は獲得できないし、そうしなければ観る人もおもしろくない」(同)とも指摘する。

 ここで富野がいう‟映画”は、映像メディアのひとつという範疇を超え、概念としてのそれとして使われている。映像で物語るもののある種の理想像を指す言葉が‟映画”であると考えるとわかりやすい。むしろ様々に考えながら制作した『ガンダム』の手応えが、‟映画”観をこのように言語化するきっかけとなった、と考えたほうが自然かもしれない。

 『ガンダム』という企画は、スタート地点から、これまでのロボットアニメよりも一歩踏み込んで「リアリズム」の世界を表現しようという形で始まっていた。それはスタッフ間の共通認識でもあり、それがアムロを中心とした登場人物たちの繊細な描写にもつながった。しかし、富野の‟映画”に対するスタンスからすると、それだけでは「もったいない」ということになる。リアリズムに基づくキャラクター描写だけでなく、もっと大きなスペクタクルを用意しなければ‟映画”にはならない。そのスペクタクルも、単に「ロボットの活躍」だけではつまらない。ロボットというスペクタクルに繫がる要素と、キャラクターという要素を包括する「物語」が必要なのだ。

 ただし「物語」が、単に展開のおもしろさを追求した「ストーリー主義」では、スペクタクルはあってもキャラクターの物語を包括することができない。「物語」には、作品全体を包含するためのある種の哲学あるいは理念が必要なのだ。それをテーマと呼んでもいいだろう。そしてこの哲学を哲学のまま提示するのではなく、映像的なスペクタクルを駆使してエンターテインメントとして展開する。これが富野のいう‟戯作”ということになる。もし哲学を欠いたままエンターテインメントに走れば「映画というものは、見てわかるものだから、好きにやっていいんだよな、という気楽すぎるノリでやると、すべからく素人ポルノになってしまう」(同)ということになる。ここでいう素人ポルノとは、「見たいもの見せたいものの羅列」ということである。富野にとって‟映画”と‟戯作”はこのように、表裏一体のものとしてある。

 『海のトリトン』や『無敵超人ザンボット3』で最終回に仕込まれた「敵の正体とそれにともなう価値観の転倒」は、まだこのような‟戯作”以前のものだった。本格的にストーリー作りにコミットした『ガンダム』で富野は、そこからさらに一歩踏み込もうとした。商業主義の代名詞ともいえるロボットアニメを‟映画”にするにはどうしたらいいか。そのためには‟戯作”が欠かせず、そのためにロボットとキャラクターを包括するアイデアとしてニュータイプという概念が必要となったのだ。

 「演出ノォト」の中で富野はニュータイプがなぜ必要だったのかを記している。

(略)たかがロボットものだろう、という評価をはねのけてゆくために、この作品の主題が何か、という概念づけを極度に高度(この表現はウソ・・に近い)な処に設定しなければ、作品のフィーリングがロボット物的になって終わってしまうのではないか?と考えて、そのことがアムロというキャラクターを、生かすも殺すものになると、やや大上段に構えたのである。

これについての賛否はあろうが、この一見高度にみえるかも知れぬテーマに〈ニュータイプ論〉を設定した、ということなのだ。

 この「たかがロボットものという評価をはねのけ」た先にあるゴールが、後年富野が語る‟映画”であると考えると、この文章は一層クリアに理解できる。(続く)

 

【参考文献】
※1 富野由悠季「演出ノォト」/『機動戦士ガンダム 記録全集2』(1980年、日本サンライズ)所収
※2 デイヴィッド・ヒューズ著、内山一樹・江口浩・荒尾信子訳『キューブリック全書』2001年、フィルムアート社
※3 富野由悠季監修『富野由悠季全仕事』1999年、キネマ旬報社
※4 『ロマンアルバム エクストラ42 機動戦士ガンダム』1980年、徳間書店
※5 富野由悠季『ターンエーの癒し』2000年、角川春樹事務所

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