雲にハサミを入れる po/e/t/ry

幽霊にふれる
「雲にハサミを入れる —po/e/t/ry—」④

いま注目の詩人である岡本啓さんによるエッセイの連載第四回です。詩を書き始めたころ、2011年東日本大震災が起こった3月の記憶。(タイトルデザイン:惣田紗希)

 自分について書くということは、幽霊にふれようとするようなことだ。薄らいでいく記憶を、だれだって自分のうちに感じている。ほんとうにそこにいたのか。とおい日の自分にたずねようと、ぼくはテレビを見てる。とうに処分した9インチ、ブラウン管のポータブルテレビ。もち運べるけど、えらく重たい。それはそのころからすでに遺物だった。サッカーの試合をよくつけた。選手はわからない。二つの色がチカチカ動いた。どこからか拝借してきたキャスターつきの事務スツールにそれはいつも載っていた。移動させるたび配線がローラーに絡まるのだ。

 過去というカバンに手をつっこんでみて、それからどうしてぼやけたものばかり、こう見つかるのだろう。フライパンのこころもとない軽さ、トースターの熱管の赤み、そういうものは、たしかにそこにあった。それに焦げたにおい。熱管にこぼれたチーズがこびりついて、朝はどの日も焦げくさくにおった。北向きで、暮らしの色彩は出涸らしだった。ぐしょ濡れのティーバッグ。比喩じゃない。なんどもお湯をそそぎ、うすい液体の熱を口にふくみ胃にながした。時間だけはあって、ぼくは本を読むようになっていた。ただ、古本屋の百円均一の棚から買ったから、いつまでたっても時代に追いつかなかった。そうだ、一度、詩について、バイトへむかう道すがらふと思いめぐらせたのを覚えている。詩人になったら楽しそうだ。街を歩くのも。一歩一歩が。だって詩人なんだ。恐いものなしじゃないか。

 ぼくが詩を書き始めたのは2011年。東日本大震災の年だ。震災がきっかけで詩を書くようになったんですか。なんどかたずねられたことがある。地震の日のことは、みなとおなじく覚えている。夕方、東京のこの瞬間のようすを見ようとおもてにでた。街は暗かったが、手をつないでいるカップルがたくさんいた。悲しみがおおきく空気の端々まで満ち、コンビニの光るサインまで美しくみえた。津波の映像を目にした絶望と混乱で、無法地帯になる。日本がそういう社会である可能性だって想像ではありえた。でもちがった。みなだれかと一緒にいたい。震災のあった日の東京が語っていた。生きものたちとは無関係に地球のプレートが動いた。そしてひとは感傷にあふれた。三月は過ぎた。ぼくは、詩を書こうとは思わなかった。

 「放射性物質が」という声が、飛び交った。風評なのか、現実なのか、判別できなかった。でもどこかほかの土地へ行くなんて思いはおよばなかった。お金はなく、技能がないひとには選択肢がない。未来はなかったから、自分を守るなんて考えもつかなかった。たくさんの人が津波にさらわれたことが伝わり、たくさんの人が自分の育んだ土地に立ちいれなくなった。そしてぼくは傷つかなかった。日本の出来事は海のむこうの国の出来事と変わりなかった。ここは自分の属する社会ではない。ぼくは不満分子だった。人間の関係性のなかに絡みとられていないやつ、ぼくのようなやつはなにをするかわからない。事件や戦争がおこったとき、こういうやつを最初に処分するのは、もっともなことだと思った。ニュースにそっぽをむきながら、四月、五月、六月がふつうに過ぎた。詩を書こうとは思わなかった。

 なぜだろう、詩を書きはじめた。ひとりで。だれにも話さず。ひとりであることは、絶対にふたしかであることなのだ。ひととの関わりあいの外ではじまることは、つねに説明がつかない。おおきな事態があって、突き動かされる、よく聞くのはそんな逸話だ。あるいは悲劇があり、雷に打たれたように詩を書きはじめる。そんな逸話も。だけどぼくは思う。説明がつかないから、そういうことにしているのではないか。震災はぼくの詩のはじまりとは関係ない。共通の物語があると、どんなひとにも話しやすい。で、話しているうちに本当になる。実際には、とある事件の一突きによって、ビリヤードの玉のように人間はきもちよく弾かれてはいかない。動機もない。出来事もない。思いたつ、という言葉でしかいいようのないなにか。ふとなにかに、顔をあげる動物なのだぼくらは。

 もっと前に、絵本を書きたいと思ったことが一度だけあった。絵は描けた。でも言葉はでてこなかった。そしてそれきりだった。ぼくはそれまで言葉を大事にしたことがなかったのだ。言葉は信用できない。詩はうさんくさい。ものごとを美しくも醜くも口先だけで変えてしまう。そう思っていた。物語もそう。達人ともなれば、ちょっと首をひねれば耳心地のよいものが仕立てあがる。ぼくはそれを信用しない。物語の筋というものがきらいだ。終わりに主人公がどうなったか、ハッピーエンドかどうか、小説であれば読者はそこに意味を見出す。教訓がある。だけど詩に近づけば近づくほど、要約は意味をなさなくなる。たしかに詩は、ものごとを言葉尻だけで美しくしてしまう。でも、そもそも言葉の背後には、真実のものごとなんてないのかもしれない。言葉はカーテンとはちがって、それをめくったさきに景色なんてないのだ。言葉の記された紙は、ただ風にひらひら揺れるだけ。そして、詩において、結末はなにも示唆しない。詩には結末がなく、単に文字の終わりがあるだけ。淡白なこういう部分は信じられた。だからぼくは詩にむかったのだろうか。

 はじめての詩をどこで書いたかは思い出せる。赤羽のスターバックス。つぎの詩は、新宿のタリーズ。神保町のサンマルクカフェ。チェーン店を点々としながら詩を書いてみて、ふしぎな時間がおとずれるのを感じた。白紙に、言葉を書いたらイメージがうまれた。目的なく文字を書くなんてはじめてだった。鳥と書いた。なんど見直しても鳥がうかんだ。言葉は消えなかった。

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