6月19日、「こども性暴力防止法」が国会で可決成立した。この法律には、仕事で子どもと接する人(教師や保育士など。採用希望者を含む)について、事業者に性犯罪歴の確認を義務づける新制度(日本版DBS)が盛り込まれている。
実効性に疑問がある(不起訴事案および塾やスポーツクラブなどの民間事業は対象外)、人権侵害のおそれがある(職業の自由を制限する、更生への意欲を削ぐ、前科情報が流出する危険性がある)など、問題点も多々指摘されている法律だが、社会全体で子どもを性犯罪から守るという主旨自体は頷ける。
しかしながら、犯罪を未然に防ぐには、加害者の摘発や更生だけでなく、被害者を出さないための防犯教育が欠かせない。そして日本はそっち方面の手当て(子どものための性教育)がおそろしく遅れているのだ。文科省も傍観しているわけではなく、内閣府と連携して2023年度から子どもを性暴力の加害者、被害者、傍観者にしないためにと称する「生命(いのち)の安全教育」をスタートさせたが、中身はお題目の羅列で、貧弱というほかない。
他方、世界に目を転じれば、性教育をめぐる状況は近年大きく進化し、それに呼応した書籍も多数出版されている。子どもを守るためにまず必要なのは大人の教育である。関連書籍を読んでみた。
国際標準とかけ離れた「はどめ規定」
フクチマミ+村瀬幸浩『おうち性教育はじめます』の副題は「一番やさしい! 防犯・SEX・命の伝え方」。親を対象にしたコミックエッセイで、もっか25万部超のベストセラーだ。
性教育は幼児期からはじめる必要があること。性教育には①性的トラブルを避けると同時に、②自己肯定感を養う機能もあるといった前提にはじまって、本書は子どもに伝えるべき最初の一歩を示す。それは「プライベートパーツ」である。
からだは全部その人のものだけど〈中でも特に「プライベートパーツ」と言って他人が(親であっても)勝手に触ったり触らせたり見ようとしたり見せたりしてはいけない部分があるんだ〉。それは口、胸、性器、お尻の四つ。〈そこはあなただけのものだから大切に扱わなくてはいけない〉〈勝手に触ったり見ようとしてきた人には「嫌だ‼」と言い逃げるように教えてほしい〉。
明快、かつ重要な教えである。スカートめくりやズボン下ろしはもちろんNGだけれども、ケアや看護が必要な場合以外、親がふざけて触るのもダメ。大人の側が線引きしないと、子どもがそうした行為を「好き」の表現と勘違いするからだ。
以上を踏まえた上での身を守るノウハウは三つ。不快なことをされたら、①「イヤ‼」「だめ‼」「やめろ‼」などハッキリと拒否する(NO)。②逃げる(GO)。③「秘密だよ」などといわれても信頼できる大人に話す(TELL)。
以上はほんのサワリにすぎないが、性教育という言葉からイメージする内容とはだいぶ違っていないだろうか。
前述したように、性教育をめぐる国際的な状況は近年大きく進化した。今日提唱されてるのは人権を基礎に、ジェンダー平等や性の多様性などを含めて性を幅広く学ぶ「包括的性教育」だ。2009年にユネスコなどが策定した「国際セクシュアリティ教育ガイダンス」(2018年改訂)がひとつの指針とされている。
「ガイダンス」改訂版のキーコンセプトは、①人間関係、②価値観、人権、文化、セクシュアリティ、③ジェンダーの理解、④暴力と安全確保、⑤健康とウェルビーイング(幸福)のためのスキル、⑥人間のからだと発達、⑦セクシュアリティと性的行動、⑧性と生殖に関する健康、の八つ。レベル1(5~8歳)、レベル2(9~12歳)、レベル3(12~15歳)、レベル4(15~18歳以上)と四つの発達段階ごとに学習目標が設定されている。
先にあげたプライベートパーツは、レベル1の段階で知っておきたいことに該当する。浅井春夫『包括的性教育』は「ガイダンス」の特徴として〈まず「人間関係」という具体的な生活レベルの身近な性に関わる問題から出発しており、そこから性・セクシュアリティに焦点を当てていきながら、「性的行動」「性と生殖に関する健康」へと具体的に展開されます〉と述べている。性に関することはなべて人間関係と関わる以上、当然といえるだろう。
しかるに日本の性教育はどうか。
日本で性教育の転機となったのは1992年。この年に改訂された学習指導要領で、小学五年生の理科と、五・六年生保健体育に、月経・射精、生命の誕生(生殖のプロセス)が盛り込まれたのだ。ゆえに92年は「官製性教育元年」とされている。
ところが、98年度に改訂された指導要領(2002年度から実施)で妙な倒錯が起きた。小中学校で生殖を学ぶ際にも「受精・妊娠までを取り扱うものとし、妊娠の経過は取り扱わないものとする」という「はどめ規定」が設けられたのだ。生殖はいいが性交については教えるな、というワケのわからぬお達しである。
このお達しは現在でも生きていて、小学五年生の理科では「人の受精に至る過程は取り扱わないものとする」、中学一年生の保健体育でも「妊娠の経過は取り扱わないものとする」とされている。中学生はすでに妊娠可能な年齢である。これでどうやって妊娠や性暴力について教えるのか、ふざけているとしか思えない。
戦後日本の性教育は一貫して道徳教育で青少年(特に女子)を管理する「純潔教育」の範囲で設計されてきた。その背後には「寝た子を起こすな」という根強い思い込みが横たわっている。だが国際社会に後れをとった理由はそれだけではない。この30年、性教育は激しい攻撃の標的にされてきたのである。
誰が性教育を妨害したのか
堀川修平『「日本に性教育はなかった」という前に』は「性教育元年」以降に起きた三度のバッシングを取り上げている。
まず、ジェンダー平等の意識が進み、男女混合名簿などが広がり、性教育が変化した90年代に起きたのが、ジェンダーフリー教育&性教育バッシングである(浅井春夫は1992年の「週刊文春」と「文藝春秋」に掲載された記事が皮切りだったと述べている)。これに連動したのが「新純潔教育」を掲げる旧統一教会で、産経・読売新聞などの保守系メディアがこの論調に乗った。
その延長線上で起きたのが都立七生養護学校(現七生特別支援学校)の事件である。同校には虐待などの困難な生育史を抱えた子どもも多く、教職員が試行錯誤しながら「こころとからだの学習」に取り組み、高く評価もされていた。ところが2003年、都議の質問に応じる形で、当時の石原慎太郎知事が不適切だと発言。都議や市議、区議と産経新聞の記者らが視察と称して学校に乗り込み、教材や教具を没収するなどの不当な介入がはじまった。
ことは他の学校にも波及し、100人以上の都立高の教職員に訓告や厳重注意などの処分が行われた結果、「触らぬ神に祟りなし」とばかり、性教育は教育現場で敬遠されるに至った(後に七生養護学校の元校長や教師が処分の取り消しを求めて都教委を提訴。裁判は原告側が勝訴し、13年に最高裁で判決が確定している)。この時期のバッシングで力を発揮したのが、安倍晋三を座長とする「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」(05年発足)であったことは特筆しておくべきだろう。
そして18年、今度は東京都足立区立の中学校で行われていた先駆的な性教育に横やりが入った。発端はまたもや都議の「不適切な性教育の指導がなされている」という発言で、都教委は「発達段階に合わない内容」なので「指導する」と応じ、産経新聞は「性交渉『高校生になればOK?』」と書き立てた。
政治家の圧力、保守系メディアの同調、裏で暗躍する旧統一教会や日本会議。こうしてみると一連の性教育バッシングは歴史教科書に難癖をつける歴史修正主義者のやり口と酷似する。
問題はしかし、大人がゴタゴタしている間にも、子どもたちは必要な情報から遠ざけられ、無防備な状態に置かれてきたことだろう。寝た子を起こすなというけれど、性に関する情報は身近にあふれており〈子どもたちは揺り動かされ、性情報があふれる中でたたき起こされているのが実際です〉と浅井はいう。
浅井によれば、性関係の12の設問に対する高校生の平均正答率はわずか三割。排卵はいつも月経中に起こる(正解は×)は18%、精液がたまりすぎると体に悪影響がある(×)は24%、膣外射精は有効な避妊方法である(×)は35%、月経中や安全日の性交なら妊娠しない(×)は38%にとどまった(2016年調査)。半面、高校生のキス経験者は男子32%、女子41%、性交経験者は男子14%、女子19%である(2017年調査)。
『おうち性教育はじめます』は、性行為には①子どもを作るため(生殖の性)、②共に楽しく生きるため(快楽・共生の性)、③支配するため(支配の性)の三種類があると述べ、③については〈愛しているつもりでも関係が対等でなくなればこれに変わってしまう〉と付け加えている。こういう視点が従来の性意識や性教育には欠落していたのだと改めて思い知らされる。
この本がベストセラーになり、一種の性教育ブームが起きたのは一八年の性教育バッシングが関係するのではないかと堀川修平は考察している。皮肉にも、この件で性教育への関心が高まり〈「焼野原」状態に危機感を覚える人びとが、じぶんごととして声をあげた〉。〈「学校教育でだめなら、家でやらなきゃ」と〉。
家庭任せの教育はしかし、子ども間の情報格差を生む。世界標準の包括的性教育を学校で行うことは、やはり喫緊の課題なのだ。
【この記事で紹介された本】
『おうち性教育はじめます――一番やさしい! 防犯・SEX・命の伝え方』
フクチマミ+村瀬幸浩、KADOKAWA、2020年、1430円(税込)
〈“一生子どもを守る”言葉かけがマンガでわかる!〉(帯より)。フクチマミはマンガイラストレーター。村瀬幸浩は1941年生まれの性教育の先駆的な研究者で“人間と性”教育研究協議会(性教協)会員。3〜10歳の子どもに教えることを前提にした親向けのコミックだが、大人でも知らなかったことが多く、性に対する認識が変わること必至。続編「思春期と家族編」もおもしろい。
『包括的性教育――人権、性の多様性、ジェンダー平等を柱に』
浅井春夫、大月書店、2020年、2200円(税込)
〈日本の立ち遅れのボトルネックは何か、いかに打開し実践を切り拓くか、理論的に論じる〉(版元HPより)。著者は1951年生まれ。立教大名誉教授で性教協代表幹事。「国際セクシュアリティ教育ガイダンス」を軸に包括的性教育の概要を総合的に解説した本で、このまま実践に生かせるわけではないが、「寝た子を起こすな」論や純潔教育に偏った日本の性教育の問題点がよくわかる。
『「日本に性教育はなかった」という前に――ブームとバッシングのあいだで考える』
堀川修平、柏書房、2023年、1980円(税込)
〈今度こそ、あらゆる子どもに性教育を〉(帯より)。著者は1990年生まれ。専門は日本の性教育実践と実践者の歴史・性的マイノリティー運動の歴史で、性教協幹事。90年代、2000年代、2010年代に起こった性教育バッシングをひもときながら、性教育の未来を展望する。従来の性教育からこぼれ落ちていた性の多様性(同性愛やトランスジェンダーなど)に関する議論も充実。