子どもの頃、ぼくはマンガが大好きだった。はじめは黄金時代を謳歌していた『週刊少年ジャンプ』に掲載された『キン肉マン』や『聖闘士星矢』を偏愛していたものの、手塚治虫が亡くなって、関連する書籍が多く出るようになったのを機に、石森章太郎(石ノ森章太郎に改名して5年ほどが経っていた)や藤子不二雄(藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐに別れて2年ほどが経っていた)といった巨匠たちがかつて描いていたレトロなマンガに開眼した。線質がシンプルで、同時代のマンガよりかっこいいと思ったのだ。そのうちに絵本というジャンルは、マンガよりシンプルなだけに、いっそうかっこいい表現形式だと感じるようになった。成長するにつれ、パブロ・ピカソなどの抽象絵画やミニマル・ミュージックに熱中するようになった。
高校を卒業したあと、いわゆる大学浪人として暗鬱な日々を送りながら大江健三郎の小説に衝撃を受け、大江が霊感源としていた西洋文学の領域を全体として理解したいと願うようになった。入学した先は、京都府立大学文学部文学科西洋文学専攻。在学中、授業と読書によって新しい知識をたくさん仕入れていくのは、悦楽的だった。文学に対するぼくの理解はぐいぐい深まった。卒業論文は、審査してくれた4名の教員全員から「これまでに見てきた卒論で、もっとも良い」と誉めていただけた。
しかし、そのあと進学した先の京都大学大学院人間・環境学研究科に通ううち、ぼくの心の内には文学研究に対する失望が首をもたげるようになった。年上の文学研究の専門家と話をしていると、「ほんとうは小説家になりたかったんだけどね」と漏らされるのを何度も耳にした。「詩人としては生活できないから、研究者をしている」とため息を吐く人もいた。それらは鈍痛のような衝撃を鈍く放っていた。ぼくに関しては、小さい頃から研究者になるということが最大の夢だった。はじめは自然科学者を夢見て、のちに歴史学者を志すようになり、物語というものの魅力に知的好奇心をくすぐられるようになって、文学研究者をめざすようになったという過程がある。マンガ家、絵本作家、画家などに憧れたことはあるにせよ、小説家や詩人になりたいと憧れたことは一度もない。だから、詩人や小説家として生きられないことにルサンチマンを感じている人たちと話をしていて、話が合うと感じることができなかった。
世界文学を広く学ぶにつれて、その失望は現代文学全般に広げられていった。ぼくだって初めの頃は、いろいろな現代文学を読みあさっていた。しかし古典文学の世界を知るにつれて、現代文学がものたりなくなってしまった。かつては文学というジャンルが混沌としていて、どうしようもなく形成途上で、卵としてさまざまな可能性を孕んでいた。小説に関して言えば、18世紀のヨーロッパのものが未熟ゆえになまなましく、非常にワクワクさせられた。19世紀の小説になると、このジャンルの全盛期が訪れた時代ということで、傑作だらけなわけだけれども、小説というジャンルから初期衝動が失われた感じもあって、すでに退屈に感じるところがあった。20世紀の前半になると、映画という表現形式の出現などに刺激されて、多様な前衛文学が花盛りとなったが、この頃に文学──とりわけ小説──はすでに爛熟しきっているというのがぼくの見通しだった。20世紀以降の時代は、映画の発達もあって、総じて小説よりも映画のほうがはるかに充実した表現形式だと感じられた。
ぼくの文学的感性は、以上のとおりだ。文学研究者がこんなことを書くのは、文学に対する裏切りだろうか。ぼくにとっては、文学の可能性を多くの創作者たちが裏切ってきたという面もあるように思うのだけれど。
もっともそうとはいえ、あるいはだからこそか、ぼくは新しいスタイルの文学に接したと感じたときに、ものすごい興奮に誘拐されてしまう。初めてハン・ガンの本を読んだときに、「この人は新しい」と感じた。ぼくは新人作家のほとんどの作品を「新しい」とは感じられないのに、ハン・ガンは新しいと思った。なぜなら、ハン・ガンの作品は現代という時代に古典が復活してきたかのように感じられたからだ。小説として書かれたものが、小説の枠組みに収まらない形状をしていた。そして『すべての、白いものたちの』(河出書房新社)を読むに至って、ぼくの感動はクライマックスに達した。この本では小説と詩が高度な次元で融合されている。まるで19世紀のエドガー・アラン・ポーの短編小説のように。あるいは20世紀の金子光晴の紀行文のようにだ。「輝き」と題するエッセイのような、箴言のような、小説のような、詩のような文章を引用してみよう。
人間はなぜ、銀や金、ダイヤモンドのような、きらきらする鉱物を貴いと感じるのだろう? 一説には、水のきらめきが古代の人々にとって生命を意味したからだという。輝く水はきれいな水だ。飲める水──生命を与えてくれる水だけが透明なのだ。沙漠を、ブッシュを、汚い沼沢地帯を大勢でさまよったはてに、白く輝く水面を遠くに見出したときに彼らが感じたのは、刺すような喜びであったはずだ。生命であり、美であったはずだ。
どうということもないような文章に見えるだろうか。もしかしたら、そうかもしれない。しかしこのような純度をぼくは心から愛してきた。そのようにじぶんの趣味通りの文章が、ありきたりの文学的フォーマットを超えたものとして迫ってきた。訳者の斎藤真理子さんが操る日本語のセンスにも息を呑んだ。
そうして、ぼくの最初の単著単行本『みんな水の中──「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院)を書いているとき、ぼくはこの本を大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』を下敷きとして書いたつもりで、ぼくなりの『存在と時間』(マルティン・ハイデガー)たらしめんとも思っていたのだけれど、同時にぼくは少しでもハン・ガンに接近したいという野心を抱いていた。
最後に、ぼくが斎藤環さん、小川公代さん、頭木弘樹さん、村上靖彦さんと送りだした対談・鼎談集『ケアする対話──この世界を自由にするポリフォニック・ダイアローグ』(金剛出版)について言及しておこう。ぼくはこの本で、「私のことは日本のハン・ガンと呼んでいただきたい」などという笑止千万な発言をしているのだ。ほんとうに啞然とするような発言だが、ぼく自身があちこちで「あれは我ながら笑止千万だった」と自嘲している以外に、まだ誰からもクレームを入れられたことがない。おそらく、ぼくの発言があまりにも噴飯物すぎるから、みんな半笑いをしながら「スルー」してくれているのだろう。