富野由悠季論

〈12〉人間の未来への希望――戯作としての『機動戦士ガンダム』

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の2つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回はシリーズ「戯作としての『機動戦士ガンダム』」最終回。「ニュータイプ」という仕掛けに託されたある願いとは。(バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

前回「「ニュータイプ」とはなんだったか」はこちら

ララァとの出会い

 では本編の中で、ニュータイプはどのように描写されたのか。先述の通り、富野はラルとアムロの出会いも、ニュータイプへと至る道筋であると説明をしている。しかし、本格的にニュータイプが描かれるのは第34話「宿命の出会い」におけるララァ・スンの登場以降になる。ララァ以外にも、第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」に登場するシャリア・ブルがニュータイプだが、アムロとの関係性は薄い。ここでは、アムロとララァの出会いと別れがどう演出されたのかに絞って見ていく。

 第34話の脚本は星山博之、絵コンテ・演出は藤原良二である。ただし『機動戦士ガンダム 台本全記録』(※1)に転載された絵コンテ(部分)を見ると、出会いの瞬間のコマは、富野が描いていることがわかる。その前のシーンでアムロがエレカ(電気自動車)に乗っているカットも富野の絵なので、ふたりの出会いのシーン全体を富野が描き直している可能性は高い。

 宇宙に出たホワイトベースは、中立の立場のコロニー・サイド6に立ち寄る。そこで町に出たアムロは、サイド7で生き別れになった父テムと再会をする。酸素欠乏症で精神に異常をきたしている父の姿にショックを受けるアムロだったが、その翌日もまた、父の住むアパートへとエレカで向かうのだった。

 途中雨が降り出したため、アムロは湖畔に立つ小屋で雨宿りをしようとする。未舗装の道路に面した玄関前に車をとめ、軒下に駆け込むアムロ。ドアのガラス部分から、「この建物はなんだろう」といったふうに中を覗き込むアムロ。キャラクターのこの細かい芝居は、いかにも富野コンテである。

 一向に雨は止まない。そのとき、アムロは湖の上を低く飛ぶ白鳥を見つける。このとき、アムロの眉間に稲妻のような光が走る。この後、ニュータイプの超感覚を表現する手段として、フレクサトーンの効果音とともによく使われることになる手法だが、この時点ではただ無音で光のみが描かれている。そしてゆっくりとアムロは左を向く。この振り向きの様子は、動く過程で残像が残るというストロボという処理がほどこされている。要するに、第六感(つまりニュータイプの力)で建物の左側に、誰かがいるということを感じた、ということを、眉間のスパークとストロボ処理の動きで伝えようとしているのだ。

 アムロがゆっくり建物に沿って歩いていくと、テラスに、やはり湖の白鳥を見つめている少女が座っていた。「かわいそうに」という彼女のつぶやきの後、白鳥の飛ぶ姿、湖側から小屋をとらえたロングショット、アムロのバストショットと、長い間をとってゆったりカットが積み重ねられる。このとき、ずっとカメラはゆっくりPAN(横移動)しており、静かな中になにかが起こりそうな緊張感が漂う。

 そして白鳥はついに力尽きて湖面に落下する。「あっ」と声をあげたアムロは、改めてテラスの少女の姿をまじまじと見つめる。浅黒い肌に額の印。インド系のように見える。アムロはテラスに足を踏み入れる。驚く少女。

 「あの鳥のこと好きだったのかい?」と尋ねるアムロ。そうすると「美しいものが嫌いな人がいて?」という台詞が、何度もエコーのように繰り返される。このとき、カメラは屋根の上からテラスのふたりを俯瞰でとらえている。アムロが完全にテラスにあがっていることがわかるカットだ。そしてカメラが少女をアップでとらえると「美しいものが嫌いな人がいるのかしら?」と、彼女が話す。

 つまり、実際の台詞に先行して繰り返し聞こえた「美しいものが嫌いな人がいて?」という台詞は、アムロがララァの心情を感じ取ったことをあらわしているのだろう。

 続けて「それが年老いて死んでいくのを見るのは悲しいことじゃなくて?」という少女に、そういうことを聞きたいのではなくて、というアムロ。しかし少女はその言葉を聞いてか聞かずか、雨が止んだのを見ると、すれ違いざまにアムロに「きれいな目をしているのね」という言葉を残して、外へと駆け出していく。アムロはテラスから降りて、走り去る少女の背中を見送る。

 このシーンの動線の設計は非常にシンプルだ。アムロは、雨宿りした玄関から移動して、玄関から見えない角度にあったテラスへと上がることになる。しかし、アムロと少女が同じテラスの空間を共有したのは一瞬だけで、少女=ララァはそのままどこへともなく去ってしまう。
 

演出される別れの予感

 このシーンの演出としては、第一に、ララァのエリアであるテラスに、アムロが「境界線」を越えて入り込むという組み立てに、ふたりの出会いの象徴的な意味合いを読むことができる。第41話の互いの精神が共鳴するシーンで、ララァは「なぜ今になって現れたの?」とアムロに問う。彼女にとって、この邂逅は予期されない、突然すぎるものだったのだ。だからこそアムロ側から、彼女の領域へ入り込む、という描写でなくてはいけないのである。

 ただテレビシリーズでは、境界線を‟越える”という部分の表現が少し曖昧だった。画面の中に境界線が明確に視覚化されていないのである。これが劇場版『めぐりあい宇宙編』の時には、このシーンは新規作画になっており、テラスの柱を境界線に見立てて、アムロがララァと同じ空間に入ってきたという意味合いを強調する演出になっている。

 第二に、ふたりが同じ白鳥を見ている、という点も重要だ。同じものを見るという演技は、その後対照的なリアクションを描かない限りは、「なんらかの同じエモーションを共有した」という意味合いが生じる。しかもそれが、老いて死んでいく白鳥の姿で、「最後の作品」を意味する「スワンソング」という単語も思い起こさせる。そこからは命の儚さと、命の純粋さが感じ取られ、これがやがてくるララァの最期を予期させるものとなっている。このため『ガンダム』のその後の物語に相当する『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』ではララァと白鳥のイメージが重ねられて語られることになる。

 第三に、アムロとララァは一瞬、同じ空間、同じ視線を共有し合うが、それはすぐに終わってしまい、ララァはその場を去ってしまうという展開だ。これはまずララァという少女が、摑みどころのない、神秘的な存在であるという印象を生み出す。と同時にこちらも、やがて来るララァの最期の予感と結びついている。ララァは「去っていってしまうキャラクター」でアムロは「残されてしまうキャラクター」なのである。

 脚本や藤原の絵コンテの段階でどれぐらいこの展開が構成されていたかは不明だが、完成した映像からは、ふたりの印象的な出会いが、既に別れの予感を孕んでいることが感じられる。

 なお『台本全記録』を見ると、白鳥が力尽きるあたりから、挿入歌をかけるプランがあったようで、台詞部分に「M」(音楽の意)と書かれ、歌詞のようなものが書かれている。これは内容からして挿入歌『きらめきのララァ』の歌詞の原型と思われる。「かわいそうに」というララァの台詞の後の長い間は、挿入歌をかける想定でとられた間でもあったのだろう。ただしテレビシリーズでは、挿入歌はかけずに終わった。『きらめきのララァ』も本編では未使用のままである。

 ちなみに劇場版『めぐりあい宇宙編』の時には、ここで挿入歌『ビギニング』が流れる。ララァとの邂逅のフィーリングを表現するのに、富野が「歌」が重要な要素であると考えていたことがうかがえる。
 

シャアとララァ

 一方、ララァというキャラクターの描き方についてはアムロだけでなく、シャアとの関係性も同じように重要である。

 ふたりがどのように出会ったかは作中では明言されていない。ただ、ララァはやはり第34話で「私のような女を大佐は拾ってくださった」と語っている。この言い回しから、世間からはあまり尊敬されないような立場あるいは職業にあったことが想像される。

 この台詞は、ガンダムの戦闘が中継されているテレビを見ながら、シャアと交わす会話の中に出てくる。富野はこのシーンの演出の狙いを次のように話す。

 この時は、すでに安彦君が倒れていたので画の表現としてはやや不十分だが、二人の関係を描く上で重要なニュアンスを加えているということだ。

 これは声優の池田さんと藩さんにも注意して演じていただいた点でもある。

 二人は昨夜一緒に寝ている。という気分をどう出すか?という点だ。かなり上手くいっていると自負している。

 ララァの甘えた気分と、それを許しているシャアの関係は、ひどく甘いのだ。ざれ合っている・・・・・・・、気分。

 

 ニュータイプの感応・・・・・・・・・は、絶対プラトニック的な理解の仕方だと考えると、もしシャアとの肉体関係のないララァなら、まずシャアに対する()(れん)なぞ一瞬のうちに消滅して、アムロの同士となってしまうだろう。

 これでは41話のようなシーンは、生まれようがないのだ。ララァのシャアへのこだわりが、アムロと同化できない自分を発見して、彼女が()(めつ)していかざるを得ないのだ。(※2)

 映像をみると、シャアは立って、ララァはソファに座ってテレビを見ているだけなので、画面構成的にはそれほど凝ったものではない。ただ、富野が書いたように、池田と藩の演技――特に「白いモビルスーツが勝つわ」とララァが‟予言”した後の、シャアの「ララァは賢いな」という台詞のニュアンス――には、言葉の奥に二人の関係性が感じられるものになっている。

 『めぐりあい宇宙編』になると、このシーンはシチュエーションは同じものの、絵コンテ段階から画面の設計を大幅に変更している。『めぐりあい宇宙編』では、シャアとララァは、ソファに並んで座っており、カメラは基本的にララァしか映さない。カメラの中のララァはリラックスして楽しげだ。逆にシャアはララァの姿に隠れて見えないか、フレームの外に置かれている。「演出ノォト」の解説を踏まえていうなら、こちらは「ララァがシャアに甘えている」という要素をもっと前面にだした形で演出しなおされている。逆にシャアは、マスクをはずし素顔でいることはわかるが、表情を一切見せないことで、「声は優しげだが、本当はなにを考えているのかわからない」といった雰囲気を醸し出している。テレビよりもより具体的に、ふたりの非対称な関係を演出しているといえる。

 こうしてアムロとララァの関係、シャアとララァの関係を見せた後、第41話「光る宇宙」で、ララァとアムロの別れが描かれることになる。
 

「人間って、きっと素敵なんだろう」――ニュータイプという希望

 第41話は、地球連邦軍の宇宙艦隊が、ジオン公国の宇宙要塞ア・バオア・クーへ向かって進軍する過程で起きる戦闘を描く。ララァはモビルアーマー(非人型大型兵器)のエルメスに搭乗。エルメスは、ニュータイプの能力を生かすサイコミュという装置を搭載し、ビット(小型の移動砲台)を遠隔操作してあらゆる方向から攻撃できるという機体である。そして、ララァとアムロは戦場で(第40話に続き)相まみえることになる。

 ふたりは戦いの中、ニュータイプ同士でしかありえない、互いの魂に触れ合うような体験をする。最初は何故戦うのかをお互いに問い合うが、やがてふたりは、この出会いが「運命」であると悟る。

ララァ「人は変わってゆくのね。あたしたちと同じように」

アムロ「そ、そうだよ。ララァの言うとおりだ」

ララァ「アムロは本当に信じて?」

アムロ「し、信じるさ、き、君ともこうして解り合えたんだから。人はいつか時間さえ支配することができるさ」

ララァ「ああ、アムロ、刻が見える……」

 ふたりの会話の内容が抽象的になっていくとともに、映像もスペクタクルの実践ともいえる、壮大なイメージを中心に展開していくことになる。第41話の絵コンテ・演出を担当したのは貞光紳也。ただ『記録全集2』に掲載された、このイメージシーンの絵コンテ(一部)を見ると、貞光の絵コンテに富野がかなり加筆修正を加えている様子がうかがえる。富野はこのシーンの発想について「演出ノォト」にこう記す。

 人同士の()()が、直結する手段が発見されれば、人と人のコミュニケーション(意志の伝達)の中に誤解の発生することがない。さらに、誤解が発生しなければ、その通じ合った意志とか考え方が重なりあって、相乗効果が増幅されるのではないか?と、考えたということだ。

 思考の相乗効果!これは、すごいと思う。

 オールドタイプの個人の二倍も十倍も想像力とか洞察力が拡大するんじゃないか、と想像したんだ。

 それが、アムロとララァの会話だ。(※2)

 このイメージ映像の連続も、『2001年宇宙の旅』の終盤に登場する、スターゲート・シークエンスと通ずるムードがある。スターゲート・シークエンスは台詞が一切ないが、一般的にこのシーンは、木星近くにいるモノリスに触れた宇宙飛行士ボーマンが、スターゲートをくぐって空間転移し、宇宙の誕生、地球外知的生命体と接触する様子を特殊撮影を駆使して描いたといわれている。リアルに宇宙時代の人の生活を描いてきた同作だが、ここで大きく内容が跳躍する。そしてボーマンは最終的にスターチャイルドという新たな存在に変化する。

 それと相似した形で『ガンダム』も第41話のこのシーンで大きくジャンプするのである。そのジャンプで語られるのは、人間の未来への希望なのだ。このニュータイプという概念の核にあるのは、この希望なのだ。

 この僕がニュータイプへのルートを語ろうと思ったのは、なぜだろう?

 けっして利口な僕じゃないんだけれど、願い・・なんだよね。その願い・・を出さなければ、物語なぞ何もならん。(訴えかける力なぞない!)と、かすかに判断したんだ。

 その判断と、ある部分での勘が、‟人間、我われオールドタイプが思っているほど、悲観したものじゃないかもしれない……”と考えたんだな。そう。人間って、きっと素敵なんだろうって考えた時に、ニュータイプっていう言葉を思いついたんだ。(※2)

 戦いの中で出会ってしまったアムロとララァ。戦争がなければふたりは出会うことはなかった。そして視覚的なスペクタクルとして描かれるアムロとララァの精神の交歓。この展開の中でニュータイプが内包する「希望」が示されたことで、等身大の若者像として描かれてきたアムロの物語と、未来戦争ものとして表現されたロボットアニメとしての『ガンダム』のふたつが、見事に包含されることになった。これによって『ガンダム』は、富野の考える‟映画”にぐっと接近することになったのだ。
 

仕掛けとしてのニュータイプ

 ではもう一度、改めて最初の問いに立ち返りたい。富野はなぜ『ガンダム』において「ニュータイプ」を作品のゴールとし、そこにこだわったのだろうか。興味深いことに、富野は「ニュータイプ」を『ガンダム』の‟テーマ”であると語ることは多くない。むしろ否定的なニュアンスで語るほうが目立つ。

 その最たるものが『めぐりあい宇宙編』のプレスシートに掲載された文章だ。プレスシートには富野の「ファンへの感謝をこめて」という一文に続き、補足のように〈ニュータイプはどこへ〉という文章が付け加えられている。

 「テレビ版以来、『機動戦士ガンダム』が大上段にふりかぶってみせたテーマにニュータイプ論があります」と書き始められた、この文章では、しかし映画版にあってもそれは具体的に語られることなく「所詮、ニュータイプ論は、『ガンダム』のポーズでしかなく、SFっぽくみせようとする作者の擬態でしかなかったのでしょう」と記されている。

 ファンが熱狂したポイントのひとつであるニュータイプを、作品終了のタイミングで改めて否定するという点でこれは特異な原稿であるといえる。しかし、この「SFっぽくみせるための擬態」という答えは、決して唐突なものではない。富野が、様々なインタビューで答えている「ニュータイプは、少年がロボットを操縦できるということに説得力を持たせるための方便である」という説明と、大枠では同じだからだ。

 しかし脚本家陣や安彦などから批判されつつも、作品の「ゴール」としてこだわったニュータイプが、「方便」「擬態」でしかない、というのは矛盾した姿勢ではないだろうか。既に見たように、ニュータイプというアイデアは、『ガンダム』という作品を‟映画”にするためには必要な要素だったはずだ。

 ここで思い出すのが、富野の『来るべき世界』(手塚治虫著)についての評価である。富野は、同作に強い影響を与えられたと語っている。

 『来るべき世界』は、超大国スター国とウラン連邦の対立を背景に、立場の異なる日本と両国の少年少女が様々な運命を歩んでいく群像劇だ。これと併せて、日本の科学者・山田野博士が発見した、未知の知的生命体・フウムーンたちが、地球の危機に際してある計画を実行しようとする様が描かれる。もともと1000ページほどもある長編だったが、出版社から「そんなに長い漫画は誰も読まない」と修正を求められ300ページまで削ったというエピソードでも知られる作品で、『ロストワールド』『メトロポリス』と並んで、手塚治虫の「初期SF三部作」と呼ばれ、1951年に大阪の不二書房より上下2巻で刊行された。

 富野はこの『来るべき世界』を貸本で借りて読んだのが、小学校5年か6年のころだという。

 これは‟鉄腕アトム”以上に衝撃的だった。ことに‟来るべき世界”。オリジナル・ストーリーでありながら、日本と二大強国の背景のとり方、フゥムーンという宇宙人の狂言回しのうまさ、ポポーニャの色っぽさ、そのキャラクター設定のからめ手・・・・のしたたかさ……。

(略)

 そう、こうして書いていくと、あの‟来るべき世界”のストーリー・テリングこそ、僕が‟機動戦士ガンダム”でやろうとしたことなのかも知れない。

 幼児期の憧れ。(※2)

 同作は富野にとって、群像を通じて、ひとつの世界を描き出すという作劇スタイルに触れた原点なのだ。一方近年のインタビューでは、作品の評価自体は変わらないものの、作中で最もSF的な設定であるフウムーンの存在について、このようにも語っている。

 新人類のフウムーンという要素は「子供向けのマンガにするために必要な設定」という印象で、いらないんじゃないかとも思ったりもしたんだけれど。(※3)

 二大国の戦争を背景に描かれる群像劇が前景とするなら、核実験によるムタチオン(突然変異)で生まれた、新たな知的生命体フウムーンをめぐる物語は後景として展開する。そこではフウムーンは、旧来の人類を相対化する役割を担っている、超越的な存在として描かれている。

 フウムーンに対する「狂言回しのうまさ」「子供向けにするために必要な設定」というふたつの評言は、評価として逆方向ではある。しかしこれは、富野がニュータイプを語る時の「人間てそう捨てたものじゃない」という思いを込めて設定しつつも、同時に「方便です」と説明する姿勢と重なって見えないだろうか。ここに富野の、テーマに対する姿勢がみえる。

 テーマは、作り手が作品に込めたメッセージと同じものとして誤解されがちだ。しかしメッセージとテーマは全く異なる。メッセージは完成した作品から浮かび上がるものだが、テーマは作品を制作する過程で、全体をコントロールする基準となるものだ。二つは重なる部分もありながら、根本的に違う機能を持っている。全体をコントロールする根拠となる以上、テーマは自動的に作品をまとめるための「仕掛け」という側面を自動的に含まざるを得ないといえる。

 富野の場合は既にみたように、キャラクターとスペクタクルを包含するために‟テーマ”を必要としており、『ガンダム』のニュータイプはそうしたアプローチの第一歩であった。その点で、ニュータイプが「方便」であったのは間違いがないことである。

 しかし方便が方便、仕掛けが仕掛けとしてわかってしまってはうまい戯作とはいえない。それは手品のタネが最初から明かされているようなもので、エンターテインメントとはとても呼べない。うまい仕掛けとは、それが仕掛けとわからないよう、ドラマにとって不可欠な形で組み込まれていなくてはならない。そこが重要なポイントだ。

 その点で富野から見たフウムーンは、巧みに扱われてはいるものの、あくまで「狂言回し」の域に留まってしまっており、ドラマの一部を構成しているようには見えなかったのだろう。それに対しニュータイプは「方便」だからこそ、「人間ってそう悲観したものじゃない」――作中では「人の革新」という言葉で語られる――という希望を本気でそこに込める必要があったのだ。「エスパー」のような既に手垢のついたSF用語をあえて採用しなかったのも、「エスパーですね。新人類ですね」と短絡的に読解され、「希望」に思い至らないことを避けるためには必然だった。

 だから富野は、〈ニュータイプはどこへ〉を次のように締めくくる。

 では最後の外道を犯しましょう。ニュータイプとは、誤解することなく理解しあえる人たち、ではないのか?

 この締めの文章は、ニュータイプという言葉を「方便」と否定して、いわば熱狂するファンのはしごをはずした上で、ニュータイプという言葉に込めた「メッセージ」の側面を浮かび上がらせようとしている。ニュータイプという発想のもとになった「人間ってそう悲観したものでもない」という思い。それを「ニュータイプという言葉の本質を理解しているあなたがたなら、それぐらいわかりますよね」という形で投げかけているのだ。

 これは当然ながら劇場版第三作目の『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』のラストに流れた、"And now... in anticipation of your insight into the future."(そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期侍します)というテロップの内容とも呼応している。

 ‟映画”を目指すための‟仕掛け”としてのテーマ。しかし‟仕掛け”だからこそ、徹底に思考を深め、物語の中心として設定する必要がある。そしてそのテーマに対する思考の深まりが、メッセージとなって観客に発信される。このような一連の考え方は、『ガンダム』のニュータイプを通じて富野の中で確立したと考えられる。これを‟戯作”の一歩として、富野はこのアプローチを使ってさまざまな作品を作り出していくことになる。

 

 

【参考文献】
※1『機動戦士ガンダム 台本全記録』(1980年、日本サンライズ)
※2 富野由悠季「演出ノォト」/『機動戦士ガンダム 記録全集2』(1980年、日本サンライズ)所収
※3 藤津亮太(取材・文)「鉄腕アトム《オリジナル版》 富野由悠季インタビュー」/https://natalie.mu/comic/pp/atom_original
 

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