雲にハサミを入れる po/e/t/ry

時間の穴ぼこ
「雲にハサミを入れる —po/e/t/ry—」⑤

いま注目の詩人である岡本啓さんによるエッセイの連載第5回です。今回は、異国のバス旅の話。ぜひお読みください!(タイトルデザイン:惣田紗希)

 緑と土埃がつづく道を乗合バスは揺れている。ところどころで人を拾う。車内は膝がぶつかるほど狭い。八人乗ればいっぱいのミニバンなのだ。

 南へとしだいに緯度が下がるにつれて、早朝の氷雨にちぎれそうだったぼくの足先は、ぬくみをとりもどしてきた。サンダルに二枚重ねの靴下、不恰好を脱ぎ捨てる。血がめぐるにつれて瞼の重みを感じながら、閉じかけた目の奥で、一昨日の峠の事故を思いかえしていた。

 それは正面衝突だった。ガードレールのない曲がりくねった山道、その日乗っていたのはミニバンでなく大型の韓国製のバス。猫の額ほどの細道を乗り物酔いで酸っぱくなりながら、この払い下げの老バスが崖から転落しやしないか、はらはらしていた。いきなり前方に衝突を感じた。バスは急停止して、みんなと外にでた。

 相手の乗用車は前方が大破していた。運転していた若い夫婦と子供の三人家族は無事だった。こちらが乗っていた大型バスは、ウィンカーが砕けちぎれとんでいた。

 大型バスがいつ動き出すかは見当もつかない。乗客たちはみな降りて、眺めのいい峠から谷間を見おろしている。羽虫がとんでいる。空高く鳥のさえずりが聞こえる。やまびこで数人が遊んでいる。言葉はわからない。この先どうなるのだろうか。乗用車の若いシャツの男が、バスの運転手と口論している。七、八歳くらいの彼の息子がやるせなく崖下へ石を投げている。陽射しにぼくは片目を細めて、重たく登っていくトラックやバスの側面にときおり描かれている日本語を、ハヤシグミ、トウカイウンソウと読みあげていた。

 まだバスは動こうとはしない。いつのまにかまわりのみんなは岩場や草地に座りこんでいる。首筋と耳の裏を太陽にさらしてみんな動画をみていた。とほうもなくのどかな時間だった。辺境の山岳地帯、二〇一六年の一月のある日のことだ。とつぜん世界はまるごと動画の時代になったとおもった。

 はじめておとずれたこの国で、なつかしい落ち着きがこころにあった。褪せた青いペプシコーラのパラソルばかりが色づいたこの国。国境を越えたとたん、小さな食堂にも、町角にも、静寂があったからかもしれない。ステレオからポップミュージックはきこえない。笑顔のはりついた広告もない。かわりに、虫の声と、托鉢僧のオレンジ色があった。

 大型バスは車の大破した三人家族ものせて再び動きだした。夜遅くに山岳地帯の町に到着した。氷点下の商店では、瓶ビールのケースを並べ、それを台にして火を焚いている。天井近くにはいくつも写真が並んでいる。親族か、それとも社会主義政府の役職につくひとなのか。ふきさらしの店内で若い娘がラオ茶をそそいでくれた。ぼくがサンドイッチを買うと、一枚の平らなフィルムをライターであぶり簡単な包みをつくる。空気にふっとただよう黒い煙のにおい。

 まどろみから目をこするとミニバンは土煙をあげて走っている。衝突事故のあった一昨日と昨日のぼくの記憶は、あっというまに土埃にまきあげられ背後へ去っていく。湿度のなか腕をおもいっきり伸ばす濃い緑。ときおり汚れた窓ガラスが緑へふれては、またはじきかえしていく。痩せた十代の青年が背中をかがめてミニバンへ乗り込んできた。帰郷の途中だろうか。ぼくの軽い会釈に挨拶をかえす。瞳には輝きがある。また少しして、大荷物の小柄なおばさんが乗ってきた。ただでさえ狭い車内、床に重たいズタ袋を投げ置いて座席にちいさくすわる。それにしてもみな、バス停もないのに、どんな手続きをしてこのミニバンの乗合バスに乗っているのだろう。

 道端では緑がまきちらされたかのように繁殖している。すれちがっていった無数の野良犬が、水たまりに映った緑を全身につけてさらに身震したみたいだ。トイレ休憩があった。ミニバンから降り、ぬかるんだ裏庭のようなところをよこぎる。簡易トイレから戻るとき、さっきの青年が、手元をくいいるようにみつめ、持ち金のお札を何度も数え直している。

 時間には穴ぼこがあいている。ラオスのこの道路のように。日々の平坦さからこうして離れ、穴ぼこに足を取られ跳ねあがって、はじめてぼくらはたしかに地上にいたと気がつく。ときおり低い天井にあたまがぶつかりそうになりながら。揺れて狭くて詩作ノートはあけていられない。降参してじっと座っていた。

 また一眠りしようかと目をふせると、おや、なにか動いた。さっきのおばさんが置いたズタ袋だ。袋は古い白黒アニメのように四方八方へ出っぱってかたちをかえる。見つめていたら、やがてやぶれめに鮮やかなクチバシがのぞいた。すばやく動く目も。若鶏が顔をのぞかせた。もがき、つきやぶろうとそいつは必死だ。自由はもうすぐ。まるで押し込められたぼくらみたい。ふしぎな期待がわく。狭い車内、羽をばたつかせる大混乱。そんなにぎやかな想像をふくらませる。若鶏はとうとう全身をくぐらせた。力一杯跳ね回ろうとしたとき、はっとだれかに抱きかかえられた。

 おばさんは若鶏の首すじにぎって力をこめた。からだは萎え、しずかになった。バスはどこまでも緑の道を土煙をまきあげて走っていく。

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