筑摩選書

中国訟師ドラマ「天地に問う」を観る

伝統中国で人びとの訴訟を助けた「訟師」。最近DVD化された中国歴史ドラマ「天地に問う~Under the Microscope~」でもその活躍が描かれています。今年4月に刊行した『訟師の中国史』の著者・夫馬進さんに、ドラマと史実の違いに関する解説を寄せていただきました。

むかしの中国語論文がテレビドラマに
 私は今年4月、『訟師(しょうし)の中国史』(筑摩選書)を出した。訟師とは人びとの訴訟を助けたものたちであり、宋代以降の中国社会では訴訟が多発していたことをそこで描いた。この本をむかし大学で同僚だった社会学専攻のかたに贈ったところ、自分は中国歴史ドラマのファンで、最近「顕微鏡下の大明の絲絹(しけん)案」というテレビドラマをWOWOWで観た(邦題「天地に問う~Under the Microscope~」https://www.wowow.co.jp/detail/194490)、そこではやや怪しげな訟師が活躍していた、との返信をいただいた。
 私はおおいに驚いた。というのは「絲絹案」といえば、20年以上も前に私が研究し、「試論明末徽州(きしゅう)絲絹分担紛争」(『中国史研究』2000年第2期)と題し中国語で論文を公表したものだったからである。また「顕微鏡下の大明」といえば、その後、作家である馬伯庸(ばはくよう)か、絲絹案についての考察をも含めて公表した『顕微鏡下的大明』(2019年)にちなむことは明らかだからである。この明末に起こった事件が最近中国でドラマ化され、しかもそこでは訟師が登場するというのである。
 早速調べたところ、「天地に問う」はWOWOWでの放映後、DVDになっているのを知った(https://www.tc-ent.co.jp/products/detail/KEDV-0896)。7月上旬、かつての学生が訪ねてきたので、私は面白がってこれを話した。すると彼女は帰って私の論文を読み、これはよい機会だから、絲絹分担紛争についての実際のところを簡単でもいいから日本でも紹介すべきではないか、と勧めてくれた。
 同じく7月上旬、DVDが公開されたので、早速全7巻を借りてきて観た。おもしろい! 私は原則、韓国歴史ドラマや中国歴史ドラマを観ない。なぜなら、映像という強烈な媒体をもって「歴史」が語られてしまうと、そのあまりの虚像、史実とかけ離れたフィクションが私の脳みそで増殖してしまい、逆に自分自身による歴史認識をゆがめてしまうのではないかと恐れるからである。これでは研究者として失格である。「天地に問う」を観た第一の印象も、史実とあまりにかけ離れているというものであった。絲絹分担紛争は史実を映像化するだけで面白い事件なのに、こんなに途方もなく変形する必要があるのか、とも思った。
 勧めてくれた元学生は、ドラマを観てから『訟師の中国史』を読んだという人のブログを教えてくれた。そこでは「実は本書を読みながら、ずっと脳内で訟師には程仁清(を演じた王陽)のイメージを当てていた」とあった。まったくその通り、程仁清が史実では程任卿(中国音ではともにチェンレンチン)であることを知っている私自身でさえ、このドラマを観たあとは、訟師のイメージとして著書で紹介したあごひげを生やしメガネを掛けた中高年の男性というものに加えて、王陽のようなハンサムで瀟洒な若者というものが、頭脳にすっかり定着してしまっている。
 私は以下で、史実としての徽州絲絹分担紛争を簡単に紹介しようと思う。実際に中国史で何があったのか、知ってほしいからである。また「天地に問う」をご覧になったかた、これから観ようとされるかたに、『訟師の中国史』に加えてこれを提供することによって、ドラマと史実のどこが違うのか考え推理していただき、数倍も楽しんでほしいからである。

徽州絲絹分担紛争のあらまし
 徽州絲絹分担紛争とは、ほぼ明末の1570年(隆慶四年)から1577年(万暦五年)にかけて、人丁(じんてい)絲絹(絹織物)とよぶ人頭税を南直隷徽州府下の全6県で各県の人丁数に応じて平等に負担すべきか、それとも二百年来の慣例に従い歙(しょう)県が単独で負担すべきかをめぐって、歙県と婺源(ぶげん)県などほかの5県とのあいだで激しい論争がなされ、婺源県、休寧(きゅうねい)県では数千人、数万人が参加する暴動が起こった事件である(『訟師の中国史』p.24地図、p.131図13参照)。これは中央政界と多くの徽州出身官僚を巻き込む大事件であった。ちょうど鉄拳宰相の張居正(ちょうきょせい)が一条鞭法(いちじょうべんぽう)を全国に実施しようとしていたとき、たまたま内閣戸部尚書(こぶしょうしょ:財務大臣)であったのは歙県出身の殷正茂(いんせいも)であった。このため、中央で歙県に有利な決定がなされたのは彼のえこひいきによると5県の人びとに非難され、暴動に火がついたのである。
 論争は、歙県の帥嘉謨(すいかぼ)が南京に駐在する応天巡撫(おうてんじゅんぶ)〔海瑞(かいずい)〕と応天巡按(じゅんあん)に対して、200年来にわたり歙県の単独負担であった絲絹税を6県による分担にしてほしいと申請したことに始まる。彼は数多くの根拠をあげてその正しさを主張したが、最も大きなものは、国家行政の最高法典『大明会典(だいみんかいてん)』では、歙県一県の負担とするとはどこにも記されていないというものであった。応天巡按はこの問題について、徽州府に対して調査議論して報告してくるよう指示を出し、徽州府は6県に対して同じく問い合わせをおこなった。
 このとき徽州衙門からの問い合わせに応じて回答したのは、帥嘉謨の主張に反対する1県だけであった。問題はウヤムヤになった。これを不満とした帥嘉謨は、さらに北京へ行って上奏した。この上奏文は財務を担当する戸部へ回され、戸部からはこの案件については応天巡撫と応天巡按からの提案と上奏を待って実施するとの命令が下された。帥嘉謨にとっては大勝利である。
 しかし彼は大勝利に酔っていられない。このまま徽州へ帰っては危険と感じたらしい彼は、彼の原籍地に妻とともに逃亡し、身を隠した。徽州府で案件が1570年の段階と打って変わって大問題となったのは、1575年(万暦三年)のことである。この年、徽州府衙門は騒ぎを起こした元凶として帥嘉謨を逮捕する命令を出し、また府下の6県に対して絲絹負担をどうすべきか、ふたたび問い合わせをおこなった。問題が大きくなったのは、この段階になると絲絹分担紛争には一般庶民だけでなく、全国的に有名な徽州府出身官僚も多数参加するに至ったからである。
 絲絹税は歙県の単独負担とすべきである、それが200年来の慣例であると主張する5県にとって、その大きな根拠は200年来継続して編纂されてきた『賦役黄冊(ふえきこうさつ)』にずっとそう記されている、というものであった。そこで1576年(万暦四年)、歙県、休寧県、婺源県の官僚を南京玄武湖(げんぶこ)の黄冊庫に派遣して、合同調査がなされた。これには帥嘉謨も加わった。玄武湖の黄冊庫には明の建国者洪武帝(朱元璋)以来、税と徭役負課の台帳である全国の黄冊が保管され、そこには各州県による改ざんはありえない、と考えられたためである。ところがこの合同調査によっても、残存する黄冊によるかぎり、そこには微細な数字が並ぶだけで、人丁絲絹がいつから、またなぜ歙県の単独負担となったのかにつては、まったく記されていなかった。
 5県の郷紳たちが歙県出身の戸部尚書、殷正茂に対して激しい攻撃を始めたのも、この頃からである。しかし戸部あるいは中央政府は強硬であった。1577年(万暦五年)4月、戸部は税と徭役改革のためには「均平」(平等化、一律化)を原則とするという方針にもとづき、これまで歙県が単独負担してきた人丁絲絹税6145両のうち、6県の人丁数に応じて計算すれば毎年過剰徴収されてきた3300両を「すべて5県に加えて徴収する」と決定し、これを上奏し皇帝の命令(聖旨)としたのである。
 これはもちろん、歙県と帥嘉謨に取ってみれば完全勝訴である。北京でさまざまに工作していた帥嘉謨が帰郷したとき、彼は歙県の城門で花を持った人びとに出迎えられ、さながら凱旋将軍であった。
 一方おさまらないのは5県の側である。この年6月、まず婺源県人数千人が税金加徴に反対し、「幟を立てドラを打って」暴動を起こし、ついで休寧県でも数万人が「ドラを鳴らし一致した行動を取ることを約束し」、暴動を起こした。
 騒動と暴動の首謀者として重い処罰を受けたのは、「豪右宦族」と呼ばれる各県の最有力クラスのものではなく、かといって暴徒となった庶民でもなく、多くはその中間にありながらやはり身分ある知識人の部類(衣冠の類)と見なされた、生員クラスのものであった。このうち婺源県の首謀者と見なされた生員程任卿には、監候処決という死刑判決が下された。それは牢獄に監禁しておき、毎年処刑すべきかどうかを審議しなおし、判定が下るのを候(ま)ってのち処刑する刑である。帥嘉謨には充軍(じゅうぐん)という死刑一歩手前の流刑、つまり遠方の軍隊に配流(はいりゅう)し労役に当てる刑が科せられた。
 『絲絹全書』は、微細にまでわたる原文書を配列するという手法で編纂されたもので、絲絹分担紛争の中心史料である。それは1579年(万暦七年)9月の序文を持ち、監候処決の判決を受けて徽州府衙門の牢獄にあった程任卿が編纂したものである。
 以上が、徽州絲絹分担紛争のあらましである。

ドラマに出てこない重要なポイント
 さて以下では、ドラマを観るだけではまったく出てこないし、以上の説明を読んでも出てこない重要なところをいくつか指摘しておこう。
 第一にドラマでは、帥家黙(帥嘉謨)は生まれつき脳に障害を持つ算術バカとして出てくる。これはまったく史実と異なる。史料によれば、帥嘉謨は一分野では誰にも負けない第一人者となることを目指し、あえて算術の専門家になろうとしたのである。そこで彼は全国から帳簿類を取り寄せて計算しているうちに、地元徽州の税負担がいかに不公正であるか発見したという。ここには、彼がいかにも徽州商人を生み出す地ならではの人物であったことを見るべきである。また『絲絹全書』で出てくる彼は、算術にしか興味を持たないような世間知らずではない。彼の主張はつねに理路整然とし、その行動も理性的である。
 第二にドラマでは、程仁清ははじめから金にしか目のない訟師として登場する。しかし史料上では程任卿が訟師であったとは一度も出てこない。帥嘉謨は彼を非難する文書のなかで、一度だけ「訟師帥嘉謨」と出てくるが、これも当時出版されていた訟師秘本(ひほん)で、敵方を訴訟好きな悪党であると非難するとき、訴状では「訟師」という罵倒語を用いよと教えているほどだから、この表現があるからといって彼を訟師であったとは断定できない。しかし私は、程任卿は生員であると同時に、訟師を稼業としていた可能性がきわめて高いと考える。暴動の首謀者として問罪されたとき、彼は『大明律』の一条をはっきりと引用して、自分の行為はこの一条に当たらないとし、この法律を適用することによっては自分に死刑判決を下すことはできないと主張しているからである。その論理と証明ははなはだ鋭利である。
 第三に、紛争が進む過程で、婺源県では県衙門に隣接する紫陽書院(学校)に「議事局」が置かれた。これは闘争対策本部であって、程任卿がこれを主管した。そこでの仕事のうち、最も重要なものの一つは情報収集であったから、議事局とは情報収集本部でもあった。そこでは婺源県と反歙県のほかの4県の文書が収集されただけではなく、敵方歙県の文書についても微細なものまで収集された。程任卿が牢獄にありながら短期間のうちに『絲絹全書』を編纂することができたのは、彼が婺源県では「義行」の人とされていたというほかに、議事局で大量に集積されてきた文書がごっそり牢獄に持ち込まれ、編纂にあたってこれを基礎資料とすることができたからである。
 なお、徽州絲絹分担紛争について私は、「明末反地方官士変」(『東方学報』第52册、1980)で初めて簡単に論じた。『絲絹全書』が現存することを知らない段階で書いたものであるが、これはインターネットでも簡単に読むことができる(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/66576)。この事件や明末の社会をもっと深く知ってみたいと思われるかたは、是非ともこれにアクセスしていただきたい。

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