「恥の多い生涯を送って来ました」
太宰治のその言葉に共感を覚えてから二十九年、私は未だに恥の多い人生を送っている。こんなはずではなかった。恥の多い生涯は、二十二歳で幕を閉じる予定だった。私は1999年7の月に地球は滅亡するという、例のノストラダムスの予言を完全に信じきっていた。
1999年7月末日。私はその日、友達の運転するおしぼり配達のトラックの助手席でその時を待っていた。たまにこっそり乗せてもらいドライブを楽しむことがあった。カーラジオからは郷ひろみの『ゴールドフィンガー99』が流れていて、その能天気な歌声は地球最後の日にまるで相応しくなく、ラジオDJもその話題をまったく口にすることはなかった。
十四時過ぎ、配達が終わる頃になってもその時は訪れなかった。駅まで送ってもらい、そこから住まいのある松戸に帰った。電車内も駅構内もいつもと同じ風景で、家に帰りテレビをつけてもそこに映し出される様子は普段と変わりなく、そうしてご飯を食べ風呂に入り、二十三時頃布団に入った。両手を組み、最後まで諦めずに祈っていたものの、何事もなく日付が変わった瞬間、目の前が真っ暗になった。これからどうやって生きて行こうと思った。
子供の頃から死にたかったうえ、どうせ二十二歳で人生終わるんだからと何の努力もしてこなかった。学歴も資格も定職も対人能力も、生きる上でプラスになるものが私にはひとつもなかった。それどころか人見知り、赤面症、ネガティブ思考、被害妄想に悩まされてさえいた。唯一あるのは小説だけだった。十八の頃に初めて『人間失格』を読んでから、自分も自分の恥を晒すことで、自分と似た苦しみを抱える人の役に立てるようになりたいと、見よう見まねで下手な文章を書いていた。この先も人生が続くのなら、自分は小説家にならなくてはならないと思った。そうしなければとても生きては行けないと。その予測は正しかった。それから二十数年、私は死ぬギリギリのところでようやく小説家になることができた。
若い頃は小説家になれたらそれだけで胸を張って生きて行けると思っていたけど、そんなことはなかった。むしろますます生きているのが恥ずかしくなった。自分をモデルに自分の恥を書いているのだから無理もなかった。もっと若かったら違っていたのかもしれない。気付けば四十代も半ばを過ぎ、私は恥を重ね過ぎていた。
そんなに恥ずかしいのなら書かなければいいじゃないか、と思われるかもしれないが、一人で書いてる時は平気なのでつい書いてしまう。それを提出したり、ゲラで読み返すと途端に恥ずかしくなる。だからといって恥ずかしくない形に書き換えようとは思わない。その方が自分にとってはよほど恥ずかしいことだから。長い間嘘をつき、自分を誤魔化して生きて来たから、書くことに対してだけは誠実でありたい。自分にとっての誠実は、自分の本当の思いをカッコつけずに書くということだから、恥ずかしければ恥ずかしいだけ、それが出来ている証拠だと自分を励ましつつ、「わぁ!」と叫びながらゲラに赤を入れる。
とはいえそれは苦しいことばかりではない。自分の黒歴史を書くことは、キリスト教の懺悔のようなカタルシスがあるし、恥ずかしさが臨界点を超えた時に訪れる開き直り、「煮るなり焼くなり好きにしやがれ」というきっぷのいい江戸っ子にも似た清々しい感覚は、いつも小さなことでうじうじ悩みながら生きている自分に大きな解放感を与えてもくれる。「旅の恥はかき捨て」という言葉があるけれど、その瞬間、私はこの世で羽目を外してるんだと思う。普段は「人生は苦である」というブッダの言葉をテーマに掲げながら生きているけど、その瞬間、私は確かにこの世を楽しんでいる。生きるのも悪くないと思っている。そう思えている。困ったことに。だからきっと、またつい書いてしまうのだろう。
『自分以外全員他人』で太宰治賞を受賞した西村亨さんの第二作『孤独への道は愛で敷き詰められている』が刊行されました。『自分以外全員他人』の前日譚とも呼ぶべき本作は、アラフォーの柳田譲の恋愛模様、人生模様を赤裸々に描き出します。そこまで赤裸々に書く/書ける理由を西村さんが明かしてくれました。