ちくま新書

生活を書く――エスノグラフィの核心

9月11日発売の石岡丈昇さん『エスノグラフィ入門』(ちくま新書)から、「はじめに」をまるまる先行公開します。

はじめに

 からだを動かしながら社会を調べる。それが私の仕事です。

 これまでマニラのボクシングジムで一緒に練習に参加し、その場を拠点にスラム生活と貧困について調べてきました。

 ボクシングの練習空間でもっとも欲したもの、それが空気です。

「ワラン・ハンギン(walang hangin)」、直訳すると「空気不足」というフィリピン語は、ジムで頻繁に使われます。スタミナ不足で息の上がったボクサーを揶揄する言葉です。私はいつも「ワラン・ハンギン」で、ミットやサンドバッグを打ちました。

 日常生活で、空気や呼吸を意識することはほとんどありません。私にとってボクシングは、人間が空気を吸う存在であることを、あらためて教えてくれる実践でした。

 この経験は別の場面にも接続されました。私はCOPD(慢性閉塞性肺疾患)という肺の病いを患った父と一緒に、東京を地下鉄で移動したことがあります。東京は縦移動が日常に組み込まれた都市です。公共交通を利用すると、階段を使うアップダウンの移動がたくさんあります。

 普段生活する岡山から東京に出てきた父にとって、地下鉄構内の階段は壁でした。不用意に改札を出ると、地上階までエレベーターがありません。口を大きく開き、肩で息をし、階段を数段上がっては休む姿を見て、自分が父の向き合う困難を何もわかっていなかったことを思い知らされました。

 空気と肺はつながっています。父は定年まで町の小さな自動車修理工場で働いてきました。油と埃とタバコに長年まみれて肺を患いました。きれいな空気は、世の中に平等に配分されているわけではありません。在宅酸素療法で酸素を常時吸入するようになった彼は、私を含めて多くが気にも留めない空気のことを、つねに考えながら晩年の生を過ごしました。

 空気というあまりにも自明なものを思考の対象にすること。自明なものに目を向けることは、社会を別の仕方で考えることにつながります。

 たとえば、空気を考えることは、経済格差(マニラでも東京でも居住地によって空気の不平等が顕著であること)、病い(世界と身体の境界は皮膚だけでなく肺にもあること)、さらには戦争や暴力(ガス室や催涙剤は空気をターゲットにしていること)まで考えることにつながっています。

 エスノグラフィとは、こうした自明なものに立ち還かえることで、社会や世界をこれまでとは別のかたちで問うこと、さらには描くことを探究する実践です。人びとが実際に生きる場面を丁寧に記録し、その現実感から飛翔しないで社会や世界の成り立ちを見つめてみる。

 そんなエスノグラフィについて、本書では考えていきます。

†エスノグラフィとは
 マニラのスラムを考察するならば、統計資料を駆使して、その総世帯数を捉えるような作業が思い浮かぶかもしれません。もちろん社会調査において、そうした作業は不可欠です。

 しかし数字を使った把握のみでは、スラムに生きる人びとの具体的な姿は捨象されがちです。その姿に向き合い、人びとが現に生きている場から離れないで人びとの生活を描き出すのが、エスノグラフィです。

 エスノグラフィとは、ある対象世界――フィールドと呼ばれます――に分け入り、そこで長期にわたって過ごしながら、人びとの生活について記述する研究方法です。また、こうして生み出された作品そのものをエスノグラフィということもあります。

 たとえば大学の授業で私と学生たちはこんなやりとりをします。

教員:どんな方法で調査研究しますか? アンケート、それともインタビュー?
学生:いや、エスノグラフィです。
教員: 授業で取り上げたエスノグラフィの中で、一番関心を持った作品はどれでしたか?
学生:ウィリアム・ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサエティ』です。

 前者の会話では「研究方法」を、後者では「作品」を指す言葉として、エスノグラフィという言葉が使われています。

 エスノグラフィは、もともと、人類学の分野で発展してきたものです。第2章で取り上げるブロニスワフ・マリノフスキ(1884〜1942)の『西太平洋の遠洋航海者』という名高い著作がそうであるように、調査者が遠く離れた地に赴き、現地での生活のありようを記述してきたのです。

 人類学者は、西洋近代とは異なる世界に生きる人びとを記しながら、「人間とは何か」について考えてきました。近代的市民だけに注目するのではなく、世界各地でもっと多様な生き方を送っている人びとの現実を記録することから、この問いに迫ろうとしたのです。

 こうした探究においては、あらかじめ作った質問票を持参してその空欄を埋めていくような調査――サーベイと言います――では、限界がありました。もっと生活をまるごと理解する方法が必要とされたからです。『西太平洋の遠洋航海者』の有名な一節を引いておきましょう。

エスノグラファーは、ときには、カメラとノートと鉛筆を置いて、自ら、目の前で起こっていることに身を置いてみるのがよい。現地の人びとのゲームに加わったり、訪問や散歩に一緒に付いて行ったり、座って会話を聞いたりするのがよいのだ。(『西太平洋の遠洋航海者』61頁)

 カメラとノートと鉛筆を片手に観察に徹するのではなく、「散歩に一緒に付いて行ったり、座って会話を聞いたりする」こと。一緒になって活動しながら、その内容を記していく方法がエスノグラフィです。なお、エスノグラフィの方法を用いる調査者のことをエスノグラファーと呼びます。

 人類学で鍛え上げられたエスノグラフィは、その後、社会学でも活用されていきました。第3章で紹介しますが、シカゴ大学の社会学者や学生たちが、シカゴの都市問題の研究のためにエスノグラフィを採用したのです。夜のダンスホール、スラム街、ホームレス生活者などをめぐって、濃密なエスノグラフィを執筆していきました。

「シカゴ学派」と呼ばれるこの潮流の影響を受けて、その後、ウィリアム・ホワイトによる『ストリート・コーナー・ソサエティ』という、エスノグラフィの世界的な名作が生み出されます(この本については本書でたびたび言及します)。ボストンの街角に生きるギャング団や政治家をめぐる記録でした。

                              フィールドに分け入る

†本書の著者について
 私について自己紹介をしておきましょう。

 私は社会学者で、これまでフィリピンのボクシングジムやスラムをめぐるエスノグラフィを書いてきました。『ローカルボクサーと貧困世界』『タイミングの社会学』といった本を出しています。

 私は「貧困」や「身体」といった主題に関心を持っています。貧しさが人にどのように惨めさを植えつけるのか。長年の肉体労働がいかなるダメージを体に残すのか。エスノグラフィを通じて、こうした主題を考察してきました。

 私は大学に入ってから、たまたま履修した授業で、社会学そしてエスノグラフィに出会いました。シカゴ学派についてもその授業で知りました。同時代に生きている人びとの生活の実際に触れながら、そこから離れないで社会について考えること。エスノグラフィとそれに基づく社会学的考察は、とても興味深く思えたのです。

 社会学の主たる調査方法は、統計など数値化されたデータを扱うものです。数字を使った社会調査は、わたしたちの通俗的な社会イメージを刷新してくれます。

 誰もが自分は社会階層の中流に属しているとイメージしている。でも、数字を分析すれば、日本には格差が存在している。数字を使って認識を刷新することに、社会学の鋭さがあることも学びました。数字は現実から距離を取ることで認識をつくりかえるものです。

 一方でエスノグラフィは距離を縮めることで認識を刷新するものでした。荒れ果てた無法地帯と思われているボストンのスラムにおいて、実際にはさまざまなルールやしきたりが生み出されていること。先に取り上げた『ストリート・コーナー・ソサエティ』には、礼儀正しい市民たちの世界の秩序とは異なっているけれども、そこにはそこの秩序があることが描かれています。なにより、人びとの息づかいや汗のにおいから飛翔しないで、社会を考察するというスタイルに、私はすっかり惹かれました。

 私は、人類学が強みとするような民俗社会の探究というよりは、近代化を遂げた産業都市の現実に関心があったので、社会学を専門に勉強することにしました(現在では人類学も産業都市社会をめぐる重要な成果をたくさん出しています。この点については第3章で触れます)。

 ですが、社会学を勉強したいという以上に、エスノグラフィで研究をしたいという気持ちのほうが、昔も今も強いです。エスノグラフィを私はやりたい。その思いで、25年ほど調査研究をしてきました。

 こうした思いをもって、数々のエスノグラフィを読んできました。社会学のものはもちろんですが、本家である人類学のもの、さらには心理学や教育学分野のエスノグラフィも読みました。本書では社会学のエスノグラフィが多く取り上げられますが、あわせて人類学ほかの成果についても言及するのは、こうした姿勢によるものです。

 私を虜にしたエスノグラフィについて、ひとりの虜の立場を大事にして、その可能性の中心を考えていきます。

†エスノグラフィの核心
 ではエスノグラフィの核心とは何でしょうか。

 取材にもとづく記録であれば、新聞やインターネットの記事、あるいはジャーナリストによるルポも同様でしょう。保育や看護などの実践者も実践記録を書いているし、国際NGOのスタッフも調査レポートを刊行しています。

 そのうえでなおエスノグラフィを特徴づけるなら、生活を書くことにあると言えるでしょう。これはあくまで私の主張であり、人類学者や社会学者のエスノグラファーが全員一致で提唱しているものではありません。ですが本書では、この主張を軸にして各章の記述を進めます。

 生活を書く、と耳にすると、とても平凡なことに思えます。人びとは、どんな日々を送っているのか。いかなる秩序が形成されていて、何に希望を感じているのか。生活の実際上の困難はどこにあるのか。こうした平凡とも思えることを丁寧に書くのです。目に留まりやすい「劇的な事件」を書くのとはきわめて対照的なアプローチです。

 だから、多くのエスノグラフィでは、猟奇的な殺人事件が起きることもなければ、世にも不思議なミステリーの謎解きがおこなわれるわけでもありません。

 私はボクシングのエスノグラフィを書いてきたのでその例を出すなら、劇的なKO試合を書くのではなく、普段の地味な練習風景を分厚く書いていく。練習だけでなく、食事や洗濯といった平凡なことを丁寧に記録する。

 それは簡単そうに見えて、ものすごく難しいことでもあります。劇的な事件は誰もが目を奪われるし、世間的な注目度も高い。でも、そうした事件は一過性という特徴をもつことがあります。にわかに注目されて、すぐに忘れ去られていく。そうではなく、ごくありふれた生活を(社会学的あるいは人類学的に)訓練された確かな眼できちんと捉える。

 エスノグラファーにとって、ミステリーは誰もが注目するような劇的な事件の中に見出されるのではありません。そうではなく、ありふれた生活が実のところ精巧にできあがっているということにこそ、ミステリーはあるのです。

 それは、「まひるのほし」を発見し、そのほしに驚くような態度と言えます。満天の夜空に輝くほしは、誰の目にも明らかです。私は長年北海道に住んでいたのですが、ある夜、十勝地方の大平原から眺めた星空の様子は、その夜の静けさと空気のありようを含めて、しっかりと記憶されています。

 でも、そうした夜空のほしに美しさのためいきをこぼすことは、ほぼ誰もがおこなえることです。難しいのは、同じほしが、昼のあいだも輝き続けていることを想像することにあるでしょう。

 まひるのほしを発見し、それをきちんと書くこと。たとえるなら、それがエスノグラフィの基本的な態度であると、私は考えています。

†本書のスタイル
 ありふれた生活をきちんと捉えるには、練習が必要になります。私自身の実体験を織り込みながら、そのレッスンを開示していきます。

 本書ではすぐれたエスノグラフィの中身を引用しながら、重要な箇所を例示するスタイルを採用します(一部の文献については、翻訳を参考に私が訳しています)。エスノグラフィとは何かを解説するのではなく、それがいかなるものかを具体例で示すやり方です。

 ものを習うとき、それがどういった原理に基づいているのかを解説してもらうことは不可欠でしょう。でも同じくらい、それがどのようにおこなわれているのかを見て盗むことも必要であるはずです。私も学生時代には、指導教員や先輩の調査地に同行させてもらい、どのようにエスノグラフィの調査研究をやるのかを見て学びました。

 はじめて訪れる調査地なら、まず高いところに上る。なぜそんなことをするのか?

 そうやって疑問をもちながら、見て盗むことで、エスノグラフィのやり方を学んでいきました(高いところに上る理由は第1章に記しています)。本書では、体感するという点を意識して論述を進めます。

 読み進めるうえで、予備知識は必要ありません。私が大学でエスノグラフィについて話す際、受講生の中には社会学専攻だけでなく、哲学や地球科学や物理学(!)を専攻する学生もいます。聴講生もいます。職場を定年退職された年配の方や、子育てが一段落して
もう一度学問に触れたいという方もいます。モグリで座っている方もいるかもしれません。

 また私はこれまで、短大や職業訓練校でも教えてきました。夜間開講の社会人大学院でも授業をおこない、高校を訪問しての模擬講義、さらには市民講座も担当してきました。

 よって「社会学専攻の若い大学生」だけを対象にしてはいません。多様な受講生たちの前で、エスノグラフィについて話をしてきました。

 そこでのヴォイスを、本書でも再現しようと努めました。東京都世田谷区桜上水にある日本大学文理学部、その3号館4階の3407教室で私は話している。「わかりづらいな」「つまらなくて眠いな」と思われる箇所が本書にあれば、それはおそらく受講生も同じように感じている箇所でしょう。実況式とまではいきませんが、私の前にはいろんな専攻の学生や聴講生の方々が座っています。その人たちに届くように、私は本書を話し書きします。

 エスノグラフィの古典には、さまざまなポテンシャルがあります。私には力がなくても、作品には力があります。私にできることは、その作品の力を伝えることです。

 たとえばこんな一節を読んでみましょう。

とはいえ、不平等な社会では、平等な扱いもまた差別を助長しかねない。たとえば、黒人男性たちは過剰に投獄され、黒人女性たちは過剰に強制退去させられる現実のなかで、犯罪歴や強制退去歴がある希望者の入居を平等に拒否すれば、アフリカ系アメリカ人は断然不利な状況に追いこまれる。クリスタルとバネッタも、逮捕歴と強制退去歴のせいで審査に落ちた。 (『家を失う人々』383頁)

 現代アメリカを代表する社会学者であるマシュー・デスモンドの『家を失う人々』からの一節です。この本は、自宅を追われる貧困層の人びとを描いたエスノグラフィです。

 今日では住宅を借りるにも、クレジットカードの申請と同じように信用スコアが必要になります。その信用審査でクリスタルとバネッタというふたりは落ちて、正規には家を借りられなかったのです。

 黒人であるというだけで圧倒的に不利益を被る社会においては、平等性原理はすでにある不平等を助長します。クリスタルとバネッタの身に降りかかった出来事から、ここまで社会的な仕組みを見通すことができるのです。

 こうした重要な一節を、講義やゼミでは印刷して配布し(教科書指定の場合は教科書を使って)、適当に受講生を当てて、読み上げてもらうようにしています。不思議なことに、ひとりの受講生が読み上げると、他の受講生にもその箇所は心に残るようです。暗誦できると、もっとよいかもしれません。

 同じように本書でも、エスノグラフィの古典から重要箇所を抜き出しています。ぜひそうした箇所に注目して読んでください。

 抜き出し箇所は、小説で言えば、会話のようなものです。会話だけを拾ってみるとその小説をまた違ったふうに読めるように、本書も抜き出し箇所だけを拾い読みすると違った容貌を現すことでしょう。

†あるひとつの入門書
 最後に本書の構成に触れておきます。

 各章の末尾には、その章のポイントがまとめられています。そのポイントは、章が進むごとに積み重なっていく構成になっています。重要なポイントたちが積み上がっていく様子を体感してください。最終的には次のように記載されます。

エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうしてできあがった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。

 なんだかピンときませんね。著者である私自身がピンときていません。ですが、このピンとこない感覚をいまは忘れないでください。

 本書の終盤に、もう一度、同じ文章を載せています。そこまで読み進めた際に、内容がいまよりもピンときていたら、学習が大きく前進したことを表しています。学習の到達度を知るには、むしろ、いまはピンとこないほうがよいかもしれません。

 さしあたり現時点では、太字部分の用語だけを意識してください。①不可量のもの、②生活を書く、③時間に参与する、④対比的に読む、⑤事例の記述を通した説明。これら5つの用語が、順に第2章から第6章までのキーワードになります。

 これらを押さえていけば、エスノグラフィについて一通り理解できるはずです。そして、キーワード説明に入る前の第1章では、準備体操として、エスノグラフィを体感するための実例を示します。

 また、各章のあいだには「幕間」のコラムとして、私のもとで書かれてきた卒論を紹介します。学部生たちはプロの研究者の書いた本よりも、先輩の書いた卒論のほうに影響を受けることがよく見られます。身近なロールモデルを必要とするのでしょう。各コラムから、卒論と向き合った学生たちの奮闘を感じ取ってください。

 本書の位置づけについても補足しておきましょう。

 本書は、すでに記したように、エスノグラフィ全般を網羅する本ではなく、エスノグラフィの虜になった私なりの立場から、それがいかなるものかを示すものです。私からのみなさんへのエスノグラフィの指南書です。

 本書で何度も引用するフランスの社会学者、ピエール・ブルデュー(1930〜2002)は、研究キャリアの初期にアルジェリアでエスノグラフィ研究をおこないました。

 彼は『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』というみずからの社会学をめぐる入門書を、弟子のロイック・ヴァカンと共に書きました。「リフレクシヴ・ソシオロジー」とは、社会学のひとつの立場で、社会的事象を認識するためには、そうして認識する主体をも認識する必要があることを主張するものです。

 私にとって印象的だったのは、その英語版のAn Invitation to Refl exive Sociology というタイトルでした。 Invitation ではなく“An” Invitation であることが、なぜか私には強く印象に残ったのです。

「あるひとつの」というニュアンスです。ブルデューはあるひとつの招待状を読者に送ったのであって、それ以外のリフレクシヴ・ソシオロジーのありようを否定していません。

 同じことは、本書にも言えます。あるひとつのエスノグラフィ入門、それが本書です。網羅的な入門書ではなく、本書をきっかけにして、エスノグラフィや質的研究をめぐる他の本や論文へと進む糸口を提供することを目指しています。

 路上での客引きのようなものです。この店にはこんなに腕のいい職人がいますよ、という呼びかけです。すでに入店してくれたお客さん(たとえるなら社会学専攻に進んだ大学生)への説明ではなく、どの店に入ろうかと歩いている人たちに、入店するきっかけをつかんでもらう。入店後には、リピーターになってもらう努力が必要ですが、それらは「あとがき」にあげた文献群に奮闘してもらいましょう。

 思ったより、長くなってしまいました。

 では、さっそく第1章から、エスノグラフィの世界を体感していってください。

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エスノグラフィ入門 (ちくま新書, 1817)

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