世の中ラボ

【第172回】
24年・米大統領選の登場人物について知る

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2024年9月号より転載。

「ほぼトラ」だの「確トラ」だのといわれ、共和党候補ドナルド・トランプ前大統領の勝利がほぼ確実視されていた米大統領選の風向きが、7月後半を境に大きく変わった。
 発端はバイデン大統領とトランプが登壇した6月27日の討論会だった。この日のバイデンは生彩を欠き、八一歳という年齢の危うさを露呈させた。トランプ陣営は彼の年齢を攻撃の材料にし、ニューヨーク・タイムズ紙は「バイデン氏は大統領選から撤退すべきだ」と社説に書き、民主党内でも撤退を求める声が相次いだ。
 さらに7月13日、ペンシルベニア州での選挙集会中にトランプが銃撃される事件が起きた。トランプは右耳を負傷するも大事に至らず、銃撃直後の右手を高く突き上げた写真が彼の「強さ」を示す一枚として流布。支持率はますます上がった。
 ところが21日、バイデンは突然撤退を表明、カマラ・ハリス副大統領を後継の候補者に指名したのだ。
 トランプは嫌だがバイデンもなあ……だった米国内(あるいは世界中?)の停滞ムードはこれを境に一変した。カマラ・ハリスは五九歳。母はインド出身、父はジャマイカ出身。彼女が当選したら、女性初、黒人初、アジア系初の大統領が誕生することになる。日本では当初「指導力に不安」「何の実績も残していない」など冷めた報道が目立ったが、本国での人気はみるみる上昇。支持率でもトランプに迫り、8月上旬には民主党の正式な大統領候補に指名される見通しだ。さあ、どうなる大統領選。そしてカマラ・ハリスとは?

政治の素人と政治のプロ
 その前にまず、トランプとバイデンである。
 2016年の大統領選でトランプがヒラリー・クリントンに勝った際、世界中に走った衝撃は大きかった。ほとんど誰も彼が勝つとは予想していなかったからだ。その点は本人たちも例外ではなく、マイケル・ウォルフ『炎と怒り ―― トランプ政権の内幕』は、政権発足直後のようすを次のように記している。
〈いよいよトランプ陣営に加わろうとしていた専門家たちのほとんどは、トランプがどうやら何も知らないらしいと気づきはじめた。(略)すべてはにわか仕込みだ。彼が知っていることは何であれ、ほんの一時間前に聞かされたものばかり、それもいいかげんな知識でしかなかった。それでも、トランプ陣営の新メンバーはこぞって自分を納得させようとした ―― とにもかくにも、彼が大統領に選出されたことは間違いないのだ、と〉。
 トランプ政権の性格は、結局のところ4年間の任期を通じてずっとこうだったように思われる。トランプ以外の本書の主要な登場人物は、側近のスティーヴ・バノン(大統領首席戦略官および上級顧問。7か月後に辞任)や、娘イヴァンカ(大統領補佐官)の夫ジャレッド・クシュナー(大統領上級顧問)だが、彼らは政治の素人で、何のビジョンも持っていなかった。
 トランプは、文字を読まず人の話も聞かない〈たいした知識もないのに、自分自身の直感ところころ変わる反射的な意見に絶対の自信を持つ男〉だった。そんなトランプが、ではなぜ支持を集めたのか。背景にはラストベルトの白人労働者の不満があるといわれているが、〈トランプ支持者たちは、ほとんど何も知らないトランプなら、既成のシステムに変人ならではの新しい希望をもたらすことになるかもしれないと信じようとしていた〉というウォルフの評価が存外当たっているように思われる(維新の躍進や7月の都知事選などを考えれば日本の政治も似たようなものである)。
 だが政権の終盤、ホワイトハウスは難題に直面した。新型コロナウィルス(20年1月〜)と、ジョージ・フロイド殺害事件に端を発する「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」である。このへんの話はボブ・ウッドワード『RAGE(レイジ)怒り』(伏見威蕃訳・日本経済新聞出版・2020)に詳しい。
 トランプは感染症を軽視、7月の時点で14万人(20年末で35万人)の死者を出し、失業者は4000万人に上った。だがトランプは〈私の過失ではない――中国がろくでもないウイルスをばら撒いた〉といい、BLMについては「左派の文化革命」と断じた上で〈私たちは急進左派、マルキスト、アナーキスト、煽動者、略奪者を打ち負かす過程にある〉と述べた。話の噛み合わなさに呆れたウッドワードは書いている。〈トランプは大統領に就任してから3年弱だったが、国のための戦略もしくは計画を明確に述べられないようだった。(略)自分の意図をはっきり伝えられないのに、再選されるのを願っていることに私は驚いた〉。
 それもあってか、バイデンVSトランプの構図となった20年の大統領選で、激戦の末、トランプは敗れた。
 トランプとは逆に、バイデンは政治家としてはプロ中のプロである。パッとしない印象があるが、政治的な経歴は長く、上院議員選で初当選したのは1972年、憲法規定の最年少である三〇歳になったばかりの時だった。以後09年まで36年間上院議員として働き、オバマ政権(09〜17年)では二期8年副大統領を務めた。七八歳での大統領就任は米大統領史上最高齢だった。
 エヴァン・オスノス『バイデンの光と影』は、そんなバイデンの半生を追った評伝で、意外な苦労人ぶりがうかがえる。
 ジョー・バイデンは1942年、ペンシルベニア州(後にデラウェア州に移転)の労働者の家庭に、四人きょうだいの長兄として生まれた。子どもの頃は吃音に悩まされ、アルバイトしながら学校に通った。成績はそうよくなかったが、シラキュース大学のロースクールを卒業し、官選弁護人などを経て72年、突如上院議員選に出馬して当選した。ところがそんな矢先、妻と幼い娘を事故で失うのだ。それからのバイデンは、77年に再婚するまでシングルファーザーとして自宅とワシントンを列車で往復した。
 政治家としてのバイデンは中道で保守的、急激な変化を好まなかったが、いくつかの癖があった。周囲をハラハラさせる失言癖と、時として見せる「左ぶれ」だ。12年、オバマ大統領が同性婚承認の判断に迷っていた際、背中を押したのはバイデンだった。〈「左派の中心がどこであるかに関して、バイデンは非常に風見鶏的だ。『オーケー、社会はこっちに向かって動いているな』という感じだな。民主党の進んでいる方向はこっちだ、だからわたしもそっちに行こう、というわけだ」〉とは、あるホワイトハウス高官の証言。情報を集め、交渉の余地を探り、時には妥協を迫る。20年の選挙戦で副大統領候補に上院議員一期目のハリスを抜擢したのも、共和党との差を鮮明にする政治家らしい戦略だったかもしれない。

意思決定の場で変革を起こしたい
 では、そのカマラ・ハリスとはどんな人物か。
 トランプが定見のない政治の素人、バイデンが調整能力に長けた政治のプロだとしたら、ハリスは活動家マインドの持ち主に思われる。『私たちの真実 ―― アメリカン・ジャーニー』は、副大統領就任直後に邦訳が出た彼女の自伝だ(原著は2019年)。
 カマラ・ハリスは1964年、カリフォルニア州のオークランドで生まれた。父はジャマイカ生まれで、スタンフォード大学の教授になった経済学者。母はインドで生まれ、カマラが生まれた年に博士号をとって乳がん研究者になった科学者だ。留学先のカリフォルニア大学バークレー校で出会い、公民権運動を通じて結婚した両親は、娘をベビーカーに乗せてデモに参加したという。政治に近しい環境は、両親の離婚後も変わらなかった。
 86年にハワード大学を卒業し、ロースクールに進学した時にはもう地方検事局で働くと決めていた。〈制度の欠陥がそのまま放置される必然性はない。私はそこに変革を起こしたかった〉というのが志望の動機だった。〈変化を起こすとはどういうことか、その一例を私は幼いころからこの目で見てきた。外側から声をあげ、デモ行進し、正義を要求する大人たちに囲まれていたからだ。だが私は、内側、つまり意思決定がなされる場にいることが重要であることにも気づいていた。活動家たちがやってきてドアを叩いたら、彼らを招き入れる側になりたかったのである〉。
 この後の彼女の人生は、司法試験に一度落ちはしたものの、概して順風満帆。検察官になった後は、経験を積んで公選で選ばれるサンフランシスコ地方検事(04年。日本でいえば各地方検察庁のトップである検事正)、カリフォルニア州司法長官(10年)、上院議員(16年)と、めざましいキャリアを積み上げていく。
 そこだけとれば、挫折知らずのスーパーウーマンに見えぬでもない。しかし彼女の美点は成功した女性にありがちな「名誉男性」でも「名誉白人」でもなく、女性、黒人、アジア系という自らの特性をアイデンティティの一部にしている点だろう。
 トランプについて〈女性への性的暴力を自慢し、障がい者を笑い者にし、人種攻撃をし、移民を悪者扱いし、戦争の英雄や戦没者遺族を侮辱し、メディアに対する反感、ひいては憎しみをあおった人物〉と評したカマラは17年、トランプの大統領就任式と並行して行われたウィメンズ・マーチ(トランプ新大統領に抗議する女性たちの大規模デモ)で次のように述べた。〈あなたが移民の女性で、家族を引き裂かれたくないと思うなら、移民法改革は女性の問題だ。あなたが学生ローンを返済している女性なら、学生の借金の負担を減らすことは女性の問題だ。息子を育てている黒人女性なら、ブラック・ライブズ・マターは女性の問題だ〉。
 ハリスがどんな選挙戦を繰り広げるかは未知数だが、ともあれ彼女の出馬で大統領選はかなりおもしろくなった。ヒラリー・クリントンが敗れた8年前の雪辱なるか。期待を込めて見守りたい。

【この記事で紹介された本】

『炎と怒り ―― トランプ政権の内幕』
マイケル・ウォルフ/関根光宏、藤田美菜子ほか訳、早川書房、2018年、1980円(税込)

 

〈アメリカは、こういう人間を大統領に選んだのだ〉(帯より)。トランプ政権発足後の1年半を戯画的に描き、全米で170万部を売ったベストセラー。悪意が前面に出ているのに加え、ディテールの積み重ねであるため、読みやすい本とはいえないが、トランプ政権の4年間を総括したボブ・ウッドワード『RAGE(レイジ)怒り』と併読すると、そのデタラメぶりがよくわかる。

『バイデンの光と影』
エヴァン・オスノス/矢口誠訳、扶桑社、2021年、1870円(税込)

 

〈もっとも不幸で、もっとも幸運な男〉(帯より)。大統領就任直後に出版された評伝。二〇歳すぎで将来の夢を聞かれ「大統領です」と答えた日から「あいつはもう終わりだ」といわれながら何度も復活、50年後に野望を叶えた人の粘り強い人生を描く。話題の中心は副大統領時代とコロナ禍で行われた大統領選だが、三〇代で妻と娘を、七〇代で息子を亡くした失意の人としての側面も。

『私たちの真実 ―― アメリカン・ジャーニー』
カマラ・ハリス/藤田美菜子、安藤貴子訳、光文社、2021年、2200円(税込)

 

〈女性初、黒人初、アジア系初のアメリカ副大統領〉(帯より)。少女時代から上院議員当選後までを語った自伝。「努力家で完璧主義者」を自称、なるべくして今日の地位があると思わせる半生だが、死刑廃止、銃規制、同性婚支持、人工中絶の権利保護、移民保護など思想的にはバイデンよりリベラル。私生活では14年、ユダヤ系の弁護士ダグ・エムホフと結婚。二児の継母となった。

PR誌ちくま2024年9月号

 

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