「朴沙羅は天才だ」。知り合いから噂は聞かされていたが、実際に会ったらすごかった。恐ろしく頭の回転が速く、弁が立ち、物おじしない。SNSで読む日々の文章も明晰で力強く、偏りがない――自分の確固たる立場はあってもおよそ党派性というものがない。本書に登場するお連れ合いのモッチンは常日頃から彼女を「世紀末覇王」と呼んで畏れ敬っている。もちろんケンシロウではなく、黒馬に乗ったあのお方のことです。
おまけに彼女は家庭人であり、二人の子の母である。モッチンと二人、まだ身分が不安定な任期付講師の時代から、小さなユキを抱えて東奔西走、毎日ご飯を作りながら国際学術雑誌に論文を投稿し、という日々の果て、ようやく定職に就いたモッチンの最初の任地は彼女のホーム京都を遠く離れた首都圏で、ご実家の母君の助けはあったとはいえユキ、そして新しく生まれたクマを抱えて、実質ワンオペで家を回していたのだ。ところがモッチンが関西に戻ったと思ったら、入れ替わるように彼女は更なる新天地を白夜の国フィンランドに求め、ようやく大きくなったユキと、まだ赤ちゃんも同然のクマを抱えて、暗くて寒くて飯のマズい異国で名実ともにワンオペ生活へと突っ込みながら、その有様を面白おかしいエッセイにまとめて物書きとしても評判をとって、おまけに家まで買っている――。
こう書いてみれば大谷翔平ほどではないが、彼女もまた一種マンガ的な、常人ならざる怪物だ。実際個人的な交流を通じて、私は彼女がよくもわるくも常人離れした精神の持ち主だと思うようになった。またしてもマンガを引き合いに出せば、平野耕太『ドリフターズ』が描く「第六天魔王」織田信長。「信 ぬしゃ人ん頭ん内を読むのは何でも見抜く じゃっどん 人ん心ん中で思っちょる事を見抜けん」。図太くまっすぐで徒党を組まない彼女には、人の弱さ浅ましさ恨みつらみがわからないのではないか……と。とすれば一見ヌーボーと頼りないモッチンも、潰されず捻くれずに飄々と彼女の側に居続けることができる傑物なのであり、この二人はまさに「破れ鍋に綴じ蓋」である。
――というわけで本書はそんな朴沙羅の面白おかしいヘルシンキ生活エッセイ第二弾、なのだが、今回の読みどころは何といっても、上で散々「超人」「怪物」呼ばわりした朴沙羅が、同時にまったく平凡な一個人であることが活写されていることだ。とはいえここでは、自らの攻撃性が子どもらを傷つけているのではないかと気に病み、カウンセラーに救いを求める彼女の話をしたいわけではない。そもそも彼女はフィンランド一の名門とはいえ世界的に見れば隅っこの一大学の平の一講師に過ぎない。そして彼女がはたらく国も、「フィンランド化」の名とともに半ば神話化された東西の狭間を縫う外交の果てに、結局今や対ロシアハイブリッド戦争の最前線に追いやられてNATOに入らざるをえなくなった普通の国、「PISA(国際学力調査)世界一!」も今は昔、高福祉の影の部分も喧伝され、排外主義政党も伸長している、理想国家ならぬ平凡な国である。ローンにあえぎ重税にあえぎ、学校と行政と、そして何より日に日にたくましくなる子どもたち自身の成長に助けられつつ、日々をどうにかやりすごしていく平凡な一個人の目線から、西欧、そして休みともなれば帰省する日本の平凡なしかし抜き差しならないありさまが活写される――それが本書の何よりの魅力だ。
もちろんそれは前作『ヘル練』にも共通するが、本書の白眉はウクライナ戦争下での彼の国の日常の一断面が垣間見られることだ。憲法九条のある国の市民というより、あらゆる国家から見捨てられた在日韓国・朝鮮人の末裔として「戦争になったら迷わず子どもたちを連れて逃げる」と言い切る一方で、国を挙げてNATO加入を支持し国旗を振るフィンランド人の論理と気持も否定できない、そんな彼女の当惑と、当惑しながら止まらない日々の歩みを前に、我々読者もそれぞれに当惑することとしよう。
「朴沙羅は天才だ」
PR誌『ちくま』より、『ヘルシンキ 生活の練習はつづく』の書評を転載します。稲葉さんの、朴沙羅さんへの愛があふれる書評です。