上野千鶴子が中国で大ブーム、中国農村に鎖で繋がれた母親……最近こんなニュースを目にされた方も少なくないだろう。著者の北京特派員時代、とくに2022年には、次々と女性にかかわる出来事が起きた。本書はそれらを追い続け、データを提示し経過を詳述し、関係者や現地での取材も敢行して、丹念に紹介している。中国が舞台となると、これは生易しいことではない。なぜなら、フェミニズムがかかわる事案は「外国スパイの手先」の活動として取締対象であり、中国政府は活動を抑える「強い意志」を持ち「抑え込む技術、テクノロジー、人員もすべて潤沢」だからだ。ジェンダー観の確かな取材対象との信頼関係なくしては、このような取材は不可能なのだ。私の属する中国女性史研究会(日本)もこれらの事案に関心は向けながら、コロナ禍もあり常に隔靴掻痒だった。だが、本書によって相当なところまで納得のいく理解が得られた。
日本で中国女性というと、「前近代的な抑圧下にある」とか「中国女性はコワモテ」とか、あるいは毛沢東時代の「平等幻想」を脱しきれないイメージが主ではなかろうか。本書も結納金など前近代的事案も紹介するが、何よりの特色は米国発のMeToo運動に触発された若い女性たちのセクハラ告発だ。政界や社会の重要人物が相手だけに、司法も共産党もメディアも秘匿し男性を防衛し、被害者側への統制と監視に終始した。しかし告発は続発し、著者はこれがゼロコロナ政策を撤回させた「白紙運動」のパワーにも繋がったと考察している。そしてこの中国版MeToo運動の背景には、都会の知識階層にも蔓延する女性差別があり、現在の日本のジェンダー課題とも共通だと分析している。近頃では日本以上となったミソジニーやマンスプレーニングに辟易し、中国の若い女性と接するたび鬱屈・怒り・失望を感受していた私には、まったく共感できる分析だ。本書も指摘する日本より急速な非婚化・少子化のいっそうの加速を警告したり、現在のジェンダー構造における男性の苦痛を訴えて女性と連帯をと勧めたりしても、中国男性の耳には届きにくい。
私には著者への――そして中国フェミニストへのさらなる期待が二点ある。一点は、本書が何度も引く「正しい結婚恋愛観、出産観、家庭観を」という習近平の提唱への切り込みだ。党のこの提唱は、「恋愛による近代家族」という百年前の五四運動期の理念を金科玉条とし、毛沢東の延安整風を経て人民共和国の国是とされた女性解放原則――階級闘争と切り離さず、生産労働参加を鍵とし、家事育児の責任を担う――を強要するものだ。フェミニストの宋少鵬は、上野ブームの要因として、新自由主義経済の抑圧とともに、中国のフェミニズム理論の停滞を挙げている。1980年代には李小江が人民共和国の女性解放について、「マルクス主義が壁」となり「西側フェミニズムを敵視」しているため「性としての女は未解放だ」と批判し、女性の二重役割負担も指摘した。このときは、思いもよらぬ数の知識階層女性ばかりか男性研究者や官製の婦女連合会の幹部までこれに呼応し、多分野で女性学が進み、各地大学にジェンダー学科やセンターが創設された。そもそも近代家族の提起当初から、中国の女性はその内包する性別役割分業に反発し、1930年代上海では分業意識打破の声がピークに達した。しかし女性の声は近代当初、30年代、延安時代、80年代とも、ときに暴力的に抑圧された。
もう一点は、80年代の民主化運動と現在のフェミニズムとの「世代交代」という考察についてだ。中国版MeToo運動が男社会の「日常の中の差別」や「正義の欠如」を果敢に告発していることは、私も著者同様きわめて高く評価する。ただ、80年代の中国社会で急進展した思想解放は、人間の力を再認識させるものだった。「交代」でなく世代間の「継承」により社会を動かす力が生まれることに、私は期待したい。
MeToo運動の最中に現地取材をした中国特派員が、中国の女権主義(フェミニズム)をめぐる状況を伝える『中国共産党 vs フェミニズム』。この100年の中国女性運動史を研究してきた江上幸子さんによる、本書の書評を公開します。著者へ、そして中国のフェミニストへのエールがここに!