『プラダを着た悪魔』の主人公はどんな話し方をする?
あなたが翻訳家だったとしたら、このせりふをどう翻訳しますか?
That’s amazing, Lil.
これは『The Devil Wears Prada』(Weisberger 2003 [2008]: 185)という小説の中で、主人公のアンドレアが親友のリルに言ったせりふです。日本語訳『プラダを着た悪魔』(佐竹訳、2006)も出版されていますし、この小説をもとにアン・ハサウェイ主演のハリウッド映画も作られたので、知っている人もいるかもしれませんね。アンドレアは大学を卒業したばかりの女性です。ニューヨークの出版社でファッション誌の編集長アシスタントとして働くことになり、鬼のような編集長に鍛えられていく物語です。リルは、アンドレアと一緒に住むアパートメントを、マンハッタン中を探し回ってやっと見つけました。このせりふは、リルがそのことを電話でアンドレアに伝えたときの返事です。
さて、あなたならこのせりふをどう翻訳したいですか? 形容詞のamazing は、『ランダムハウス英和大辞典』では「⦅通例、褒めて⦆(人を)びっくりさせるような/驚くべき、驚嘆すべき、見事な」などと説明されています。直訳すると次のようになるでしょうか。
「それは見事だね、リル。」
この訳だと、小説のせりふとしては少し硬い気がします。他にもっといい訳がありそうです。ここで、みなさんがアンドレアになったと想像してみてください。どんな日本語でこのせりふを言いますか?
わたしがこの本を執筆している2024年なら、こんな言い方がありそうです。
①「めっちゃすごい、リル。」
他にも、こんな言い方をするかもしれません。
②「マジでやったね、リル。」
③「やるじゃん、リル。」
わたしは大学で教える仕事をしていますが、アンドレアと同世代の学生たちは、教室ではこんな話し方で友だちとおしゃべりをしているように思います。
では、日本語訳の中のアンドレアは何と言ったのでしょうか?
「すばらしいわ、リル。」(下巻、20頁)
アンドレアは、①〜③よりもずっと上品な言葉で、親友のリルに語りかけています。みなさんは、日常生活で友だちに「すばらしいわ」と言った経験があるでしょうか? このせりふは身近ではあまり聞かないような、きちんとしていて、美しい表現です。
さらに、①〜③にはない要素が「すばらしいわ、リル。」には加えられています。それは「女らしさ」です。①〜③を耳で聞いたり、文字で読んだりしたとき、話している人の性別ははっきりとは分かりません。英語のせりふも、性別はどちらでも良さそうです。でも、「すばらしいわ、リル。」というせりふを聞いたり読んだりすれば、それを言った人は女性だと分かります。そして、親友に向かって「すばらしいわ、リル。」と言うアンドレアのイメージは、とても女らしくて、上品で、かしこまっています。
「ハリー・ポッター」のハーマイオニーには友だちがいない?
みなさんはJ・K・ローリングの小説、「ハリー・ポッター」シリーズを読んだことがあるでしょうか? または、ダニエル・ラドクリフやエマ・ワトソンが出演した映画版を観たことはありますか? 主人公の親友ハーマイオニーの話し方について、言語学者の中村桃子は、アメリカのウェスタン・ミシガン大学での講演でこう語りました。映画版では、エマ・ワトソンがハーマイオニーを演じています。
もし、少女がハーマイオニー・グレンジャーのような話し方をすれば、友達をなくすでしょう(笑)。彼女の話し方はとてもお高くとまっていて、まるで「私はあなたたちとは違うのよ」、または「私ってこんなに女らしい良い子なの」と言っているかのようです。これは、日本のハーマイオニー・グレンジャー世代の少女が使うような言葉ではありません。(Nakamura 2015 : 4、*1引用者による翻訳)
ハーマイオニーは、一体どんな話し方をしているのでしょうか? シリーズ第一巻の『ハリー・ポッターと賢者の石』(松岡訳、1999)の中では、11歳の彼女がこんなことを言っています。
「あら、魔法をかけるの? それじゃ、見せてもらうわ」(157頁)
11歳というと小学5年生ぐらいです。こんな話し方をする小学生は、確かにお高くとまっているように見えます。それに、感嘆詞の「あら」を使う小学生は相当に珍しいでしょう。さらに、「見せてもらうわ」などと聞くと、小学生というよりもどこかの高級デパートでお買い物をしているマダムのようです。もし、身近にこういう話し方をする小学5年生がいたら、わたしならちょっと距離を置きたい気がします。自分とは違い過ぎて、友だちにはなれそうにありません。
では、ハーマイオニーは英語ではどう言ったでしょうか?
Oh, are you doing magic ? Let’s see it, then. (J. K. Rowling 1997 : 105)
このせりふには、女らしさを表す要素はとくに見当たりません。もし、主人公の少年ハリーがこれを言ったとしても、それほど違和感はなさそうです。英語には話している人の性差がないのに、この日本語訳にはハーマイオニーの「女らしさ」がはっきりと表れていますね。
小説はフィクション、わたしたちはリアルな存在
そうは言っても、『プラダを着た悪魔』も「ハリー・ポッター」シリーズも小説です。現実の世界ではなく架空の世界、フィクションです。小説の中の登場人物は架空の人物であり、わたしたちのようにリアルに生きている人間とは違います。ですから、「架空の登場人物の言葉をリアルな人間の言葉と同じように描く必要はない」という意見もあるかもしれません。
こういった意見にも一理あります。フィクションは現実を完全に再現する必要はないのですから。それに、「めっちゃすごい」や「マジでやったね」といったはやりの言葉を使った場合、10年後にこの作品を読む人は「せりふが古臭いな」と感じてしまうかもしれません。
しかし、たとえそうであっても、『プラダを着た悪魔』のアンドレアや「ハリー・ポッター」シリーズのハーマイオニーが現実には存在しえないほど女らしくて、上品で、理想的な女性を体現しているように見えるのも、また事実でしょう。彼女たちの話し方は、わたしたちのリアルな話し方とはかけ離れています。
翻訳小説の中にいる少女や女性は、驚くほど「女らしい」話し方をしています。このことを不思議に思ったことはありますか? または、自分の話し方とのあまりの違いに、「何か変だな」と感じた経験はあるでしょうか? 翻訳の中の「女らしい」言葉は、わたしたちの生活にすっかりなじんでいます。あまりにも当たり前すぎて、疑問に思うことも、違和感を覚えることもありません。
実はわたしも、大学院で翻訳学を学び、翻訳されたものを分析しながら読むということを始めるまで、翻訳の中の「女らしい」言葉に違和感を持ったことはありませんでした。幼少期から読書が好きで、小学生のころには小説のようなものを書いたこともあります。そして、大学院に行く前は出版社で雑誌や書籍の編集者をしていました。ずっと活字が好きで、活字に触れながら生きてきました。それでも、「翻訳小説の中の女性たちが自分とは違う話し方をしているのは、なぜだろう?」などとは考えたこともなかったのです。
わたしたちは物心もつかない小さいうちから、小説や映画、マンガやアニメなどを通して、こういった「女らしい」言葉に触れてきました。赤ちゃんのときからピンクや赤色の洋服やおもちゃを与えられてきた人は、物心がついて自分で欲しいものを選ぶようになっても、無意識に「女の子ならピンクや赤色のものを選ぶのが良い」と思ってしまうかもしれません。それと同じように、「女らしい」言葉に触れてきた人は、「女の子はこういう話し方をするのが良い」、「女性の話し方はこうでなければならない」という考えを頭に染み込ませ、場面に応じて使っているかもしれません。
たとえば、インフルエンサーがSNS上で日本の政治や社会について何かを書いたり言ったりすれば、その言葉は瞬時に広まりますし、そのインフルエンサーの考えを信じる人も多いでしょう。有名な人が何かを書いたり言ったりすれば、その内容を信じたくなるものです。政治家や有名人の発信がわたしたちの考え方に影響を与えるのは、よくあることです。でも、言語学者のフェアクラフ(Fairclough 1989 [2001])は、こういった考えがもっとも効果的に広まるのは、わたしたちが自覚していないうちに発信されたときだと指摘しています。
こういった「考え」のことを「イデオロギー」と呼びますが、わたしたちが気づかない間にじわじわと広がっていくイデオロギーは、わたしたちの意識の及ばないところでとても大きな影響を与えているのです。日本語への翻訳では、「女らしい話し方ってこういうもの」というイデオロギーが小説や映画、マンガやアニメ、ドラマや雑誌、さらには広告など、様々なものに表れています。そして、わたしたちは不思議に思ったり疑問を抱いたりすることもなく、そのことを受け入れ、「女らしい話し方ってこういうもの」と無意識に考えるようになっていくのです。
フェミニスト翻訳とは女性を「見える化」「聞こえる化」すること
本書では翻訳をジェンダーの視点から考えていきます。
書名『翻訳をジェンダーする』の「ジェンダーする」は、「ジェンダーの視点から考える/見る」ことを意味する造語です。ジェンダーに関する有名な論文「DoingGender」(West and Zimmerman 1987)では、「ジェンダーする」ことは社会の中で考えられている女らしさや男らしさにあった振る舞いや言葉づかいをすることを指しますが、本書では新たな意味で使っています。
ここで紹介する「翻訳学」という学問には、あまりなじみがない人が多いかもしれませんね。翻訳学とは、とても簡潔にまとめると「翻訳されたもの、翻訳する人、そして、翻訳するということについて考える学問」です。
この翻訳学の中で、1990年代後半から「フェミニスト翻訳」というものが議論されるようになってきました。きっかけは、2冊の本『Gender in Translation』(Simon1996)と『Translation and Gender』(von Flotow 1997)が出版されたことです。二冊ともカナダの研究者が書いたものです。カナダの公用語は英語とフランス語の二言語であるため、翻訳が身近にあり、翻訳についての議論が盛んに行われていました。そんな環境にあって、フェミニズムへの関心が高まってきたことがきっかけとなり、翻訳をジェンダーの視点から考える本が出版されたのです。そして、翻訳とジェンダーを結びつけて考えたり、研究をしたりする人が増えてきました。
翻訳は、「どう訳すか」という技術的なことだけが問題なのではありません。翻訳されたものは、それを読む読者がいる社会を映し出します。そして、翻訳されたものに使われる言葉は、社会にある考えを映し出すものです。言い換えると、翻訳の中で使われる言葉は、社会の中にあるイデオロギーを伝えているともいえます。一方で、翻訳の中で使われる言葉を変えることで、社会の中にあるイデオロギーに異議を唱えることもできます。
フェミニスト翻訳家のド・ロトビニエール= ハーウッドは、こう書いています。
言語の中で女性という性を「見える化」することは、社会の中で女性を目に見え、声を持つ存在にすることを意味する。フェミニズムとは、つまりそういうことだ。(de Lotbinière-Harwood in von Flotow 1997 : 29、*2引用者による翻訳)
フェミニスト翻訳の目的の一つは、翻訳されたものに使われる言葉の中で、女性の存在を「見える化」することです。言葉の中で女性の存在を「見える化」することは、社会の中でも女性を「見える化」し、女性の声を「聞こえる化」することにつながります。
たとえば、男性の陰に隠れるような存在だった女性を言葉の中で「見える化」すれば、社会の中でないがしろにされてきた女性の存在を認めることができます。そして、翻訳されたものの中で性差別的な表現はおかしいと主張できれば、そのメッセージは読者にも伝わります。女性の声を読者に「聞こえる化」できれば、性差別的な表現をなくすこともできます。
これから紹介する内容
では、日本語への翻訳をフェミニスト翻訳の視点から考えてみたら、どうなるだろう? この問いに対する答えを探そうとしたのが本書です。
第一章では、日本語への翻訳とジェンダーとのかかわりについて、特に、翻訳小説に登場する女性たちの話し方に「女ことば」がどう表れているかを考えてみます。
考える材料として、いくつかの翻訳小説の事例を紹介します。先ほど「翻訳の中の女性が女らしい話し方をしている」と書きました。では、翻訳された女性たちの話し方は、現実の女性の話し方とどう違うのだろうか、日本語で書かれた小説と比較したときに何か違いがあるのだろうか、翻訳者の性別は翻訳に影響するのだろうか、などの疑問について、『プラダを着た悪魔』や「ハリー・ポッター」シリーズなどの翻訳を対象にした研究を紹介しながら一緒に見ていきます。この章がめざすのは、社会が考える「女らしさ」が翻訳にどう映し出されているかを探ることです。
第二章では、社会が考える「女らしさ」に翻訳がどう抗ってきたかを紹介します。具体的には、1970年代と1980年代のフェミニスト翻訳の事例を2つ紹介します。これらの翻訳は、「女性の健康のバイブル」と呼ばれる本、『Our Bodies, Ourselves』の日本語訳です。
1970年代にアメリカで出版された『Our Bodies, Ourselves』は、中絶や同性愛、セルフプレジャー(自慰行為)などについて積極的に取り上げており、当時の読者は衝撃を受けたそうです。現在では通算約450万部のロングセラーとなり、世界で30言語以上に翻訳されています。日本の女性たちがこの本をどう訳したのかを見ていきます。
1970年代と1980年代は、今よりもずっと、女性が自分のからだを自分のものとしてとらえることができなかった時代でした。翻訳した女性たちは、「わたしのからだはわたしのもの。自分のからだについて知ることは、自分自身について知ること。わたし自身のことは、他人ではなく自分が決める」という強いメッセージを、日本の読者に伝えようとしました。女性が目に見え、声を上げ、自立するための翻訳を行ったのです。この翻訳では、ネガティブな印象を変えるために女性の生殖器に対して新しい名称を作ったり、職業名を提案したりする試みも行われました。
第三章では、これからわたしたちは翻訳とどう付き合っていくか、そして、翻訳に何ができるのかについて考えてみたいと思います。ここでは、これから必要になってくると考えられる三つの変化を取り上げています。
一つ目は、翻訳の中の女ことばを減らし、一律の「女らしさ」から、それぞれの個性を大切にすることをめざす必要があるのではないかということです。二つ目は、ネガティブなイメージのない新しい性器の名称が求められているということです。そして最後は、ノンバイナリーの代名詞が日本語にも必要ではないかということです。ノンバイナリーとは、「男性か女性か」という二つの分類に縛られないということです。
スウェーデン語には、2012年ごろから一般に使われ始め、2015年には辞書に収録されるほど定着したノンバイナリーの代名詞があります。日本語でいうと、「彼」や「彼女」に代わる新しい代名詞です。翻訳語についての研究を行った柳父章によると、日本語の三人称代名詞の「彼」と「彼女」は、実は翻訳から生まれた言葉でした。この歴史から、わたしは翻訳には新しい価値観を持った言葉を作る可能性があるのではないかと考えています。
ここで、例を一つ紹介しましょう。柳父の指摘によれば、「社会」という言葉も翻訳によって生まれ、今では日常生活に欠かせないものになりました。この「はじめに」の中でも、わたしはすでに「社会」を11回も使っているほどです。
かつて、日本には「社会」という言葉が示す概念そのものがありませんでした。そこに、西洋語(英語のsociety など)の翻訳から、試行錯誤の末に「社会」という言葉が生まれました。「社会」は古い漢語ですが、society の意味で使われることは非常にまれで、新語と呼べる言葉でした。この「社会」が、明治10年代ごろ(1880年代ごろ)からよく使われるようになりました。そして、明治20年代を過ぎたころ(1890年代ごろ)には日本語に定着していきました。その結果、「社会」が示す概念も日本語を使う人たちに定着していったのです。
「社会」という言葉が生まれてから約140年後に生きるわたしたちは、「社会」を使わずに日本語を書くことは不可能ではないかと思うほど、この言葉は身近にあります。そして、「社会」が指し示すものが身近にあると感じながら、日々、生活をしています。
翻訳には、それまでにあった古い考えにとらわれない、新しい言葉を生み出す可能性があります。そして、社会の中に存在しなかったり、埋もれたりしている概念を言葉によって「見える化」したり、それまでの偏った見方を変えたりする力があります。
本書は、ジェンダーやフェミニズム、翻訳に興味のある人や、ジェンダーや翻訳について学びたいと考えている人、言葉と社会とのかかわりに関心を持っている人、言葉を変えることで社会を変えたいと願っている人、自分自身のままでいたいと思っている人、そして、自分のことや自分のからだのことを好きになりたいと思っている人に贈りたいと思います。どうぞお付き合いください。
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*1:If a young girl like Hermione Granger speaks like this, she will lose her friends [laughter 笑]. Shesounds so snobbish or seems to say “I’m diff erent from you guys” or “I’m such a feminine nice girl.”This is not women’s language you would hear in Japan from a young girl like Hermione Granger.(Nakamura 2015:4)
*2:[…]making the feminine visible in language means making women seen and heard in the real world.Which is what feminism is all about. (de Lotbinière-Harwood in von Flotow 1997:29)
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