ふきこんでくる雨、音はまだなく、湿りはじめる地面のかすかなにおい。
数歩、濡れない位置までさがって、地下から吹き上がってくる空気の流れをズボンに感じている。
ひんやりしたタイル壁にからだをあずけながら、地下鉄A出口にて、しばらくじっと。靴先に斑点がうまれ、またいくつかひろがっていく。雨粒は花粉や埃のかすみをけちらして、朝は緑の空気をとりもどしている。
かけこんでくるひとたち。そこにはまだ傘からしずくをふりはらう仕草はない。先週あたりから、もうみんなマフラーをはずして、コートの前を大きくあけている。東京は服を着て、速度をもってなにかに向かっている。やわらかな雷鳴。とおく。言葉を考えていると、どうしたことか、なかなか動かなかった時間が回りだす。いい言葉がおとずれなくとも、こうやって聞こえるものや、あたりまえに視界にあるものを言葉にしていられるから、ぼくは退屈しなくなった。だけどいつからだろう、こんな毎日になったのは。
言葉で見えるかぎりの世界と遊ぶ。あるいはそこにないものと遊ぶ。言葉で世界にふれなおす。詩を書いてみるわけでなくとも、この小さな遊びを通りかかるひとにすすめたい。ただどの顔もみんな、なにか確かなものへ向いている。その表情たちは、必要ない言葉に気をかける余裕がないようにも、他にもっと楽しいことをしっているようにも見える。あ、すみません。肩ごしに急に声をかけてみたら、いぶかしがられるだろう。
詩をほんとうにうけいれるのに、ぼくはずいぶん時間がかかった。詩を書きだすまえは、ためらいがあった。詩を書きながらも迷っていた。詩のまんなかにある比喩というものについて。あることがらを違うことがらでたとえる。たとえていうならと切りだすとき、そこにはひとを納得させる力がはたらく。言葉にむやみに力をもたせることは、真実をねじまげるように感じていた。比喩のきもちよさによって、ほんとうでないことも、さも意味ありげに届いてしまう。言葉はまやかしであふれている。言葉をつかう学問はあやしい。文学はとくに。哲学の一部でさえそうだ。わかりやすく説明するふりをして、もとの話とずれていないか。間違いをおかしたままつっぱしる。混乱に混乱を重ねる。文学に近づけば近づくほどその傾向は高まる。詩はその総本山。それって、聞き心地のよいだけの嘘じゃないか。
ただ、長い時間をかけて、異なるおもいが湧いてきた。京都に住んでいたころだ。しずけさとはほどとおくなった片づかない部屋で、こどもが遊ぶのをみながら、手が電車になる、キツネになったとおもえばオオカミになる、鴨川のほとり、ひろった石が菓子パンになる。ことばもほとんど獲得していないこどもが、手や石、身のまわりの物体をほかのなにかに喩えながら、この世のひだにふれていく。
この世の幼き者が備える、世にあらわれたばかりの不安が身近になって、こだわりが消えていった。ひとが言葉を獲得していくにつれ、喩えの基点にあった物体がいつのまにか消えて、言葉だけになった。比喩とはそれだけのことではないか。幼いころは、実際の石を、想像のパンが覆っていた。やがて、あのころ手のひらに重みをたたえていた石は、言葉のうえだけの石となった。それでも石という言葉は、変わらず想像のパンを指し示しつづける。もとのなにかも、示されたなにかも、どちらも言葉。言葉でせかいをつくる。詩はそれを、大人になっても続けているというだけなのだ。詩はこども心からくるなんてことない遊び、そうおもったら、ぼくは詩を嘘ばかりのなにかとは、もうおもえなくなった。
ひとは比喩を駆使することで知性をふかめていった。詩によってせかいを知ろうとして。そして、ここにいることのよろこびとして。
詩を書いていることが、ぼくはほこらしいわけではない。だけど、書きだすまえからは遠いところにきた。
ほらむこう、道路予定地の囲まれた緑のフェンスに、痩せたビルたちの隙間隙間に、波のようによわいひかりがかぶさっていく。雨上がりの街をあたためる日射しを見つめながらおもう。このさきぼくは、詩と生きることをためらうことはないだろう。