詩にふれるのが楽しくてしかたがない。そんな日は一度もぼくになかった。ただ、すきな詩があって、きらいな詩があった。すきな詩はおおくない。でもすごくすき。せかいは単純だった。それで十分だった。
ところが、やがて好悪を越えて、ひろく詩を見渡さなくてはならない日がきた。詩の時評を新聞に書いたり、あるいは、見しらぬ書き手の作品を雑誌へ選ぶとき。自分をおしつけてはならない。どうしようもなく備えた言葉への好みをおさえる。印象だけをあてにしない。たしかに書かれていることから考える。とても大事なことだ。虫眼鏡を握りしめる探偵になって一字一句を追っていく。できるかぎり。できるかぎり。そう言い聞かせる。読む自分がひらかれていないと、その作品固有のまなざしと向き合うことはできない。詩にたいする凝りかたまった態度を忘れようとする。この世への凝りかたまった態度を忘れようとする。自分の好きなものを、忘れよう、できるかぎり。難しいけど。できるかぎり、できるかぎり、がんばった。すると、ほんとうにぼくは忘れてしまったようなのだ。わからない。詩の面白さが。こんな心理状態がこのところずっと続いている。数週間、あるいは半年、いや数年かもしれない。
どうしてこんな袋小路に入りこんでしまったのだろう。ぼくは考えながら散歩をしている。一月だからか、神社には、絵馬がたくさん吊りさがっている。神社はいい。ひとを不審者にしない。ふらつく者の立ちいりを許してくれる。お寺だとそうもいかない。住職さんがいて、そこは檀家さんのための敷地という感覚がある。公園はしあわせな親子でいっぱい。街にはオープンスペースは少ない。大地があって、こうやって地面があるのに、ひとが分けいれるのは路地まで。以前は、知らない街にいくと、ひときわ高いマンションを見つけて屋上に登っていた。そこから見下ろすと、壁や塀で覆われていた道も、そのつど輝くくぼみになった。文明の突端に駆けのぼって、それでもいつまでもひとは小さく、丘や川に暮らしがいだかれていることがよくわかった。でも今度の場合は、ひとり高みから見渡そうとして、自分を見失ってしまったようだ。
ぼくは、ぼくの詩のよころびになにができるだろう。絵馬が、風に回転して、カラコラ跳ねている。よく神社にはよりみちする。でも信仰は、ひとつもない。どんな宗教へもおなじだ。お参りも、お祈りもしない。二十歳くらいのころ、なんとなくだけどかたく決めた。ただ、神さまが暮らしにあるひとのすがたには胸をうたれる。祈りというはるかな営みが、自分で途切れてしまったことを申し訳なくおもう。信仰の動作には、歴史に記されることなく生きてきた人間の原形が垣間見える気がする。
あれは、そう、ジョージアのムツヘタで、美しかった。僧侶のささやくお経の響きのなかで、おばさんやおばあさんが讃歌をつなげる。スカーフで髪を隠した素朴な地元のひとたち。錆びた歌を織っていくみたいに、黄金色の合唱を何分も何十分も紡いでいく。ぼくはずっと聴いていた。言葉は、意味は、もちろんわからない。修道院は、六世紀のもの。でも戦争の絶えない土地だ。楽しいことも耐えがたく辛いこともあるこの世を、人々がこれまでどう過ごしてきたかよくわかった。なにを言っているのか、わからなくとも。
絵馬も祈りをかたちにしたものだ。板切れに、文字を書き、願いごとをとどめて吊りさげる。一枚一枚に言葉がある。マジックで記した不恰好な文字、達筆。ひとりひとりの願いがある。でもそんな言葉からとおくはなれて、一月の空に、ここちよいなにかが鳴っていた。絵馬がぶつかりあって短く響く。
言葉の集積が、風の楽器になっていた。あ、詩も、こうやって読めばいい。絵馬の鳴らす音がヒントをそっとおいていった気がした。音のように消えながら届くものを、ひろがりのままに楽しむ。文字の感触とその残り香のようなイメージと遊ぶ。だれかに説明する必要はない。書かれていることとかけ離れてもいい。元のありかたにこだわらなくていい。
雲は伸びをして、うすく空にたなびいている。詩をよむよろこびよ。首筋を風がふきぬける。意味はとどかない。かわいた音が鳴っている。