昨日、なに読んだ?

File 128. 二十億光年の孤独がしみじみと身に染みる夜に読む本
ボリス・グロイス編『ロシア宇宙主義』(乗松亨平監訳、上田洋子、平松潤奈、小俣智史訳)

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー……かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、ロシア現代文学の鬼才ソローキンの翻訳者にして、著書『ロシア文学の怪物たち』も好評のロシア文学研究者、松下隆志さんです!

 ずっと、どこか遠くへ行きたいと思って生きてきた。様々なしがらみや束縛から逃れようと、高校を卒業した私は、思い切って地元大阪から遠く離れた北海道大学に進学した。とくに雄大な北の大地への憧れがあったわけでもない。高校の頃にキルケゴールの『死に至る病』を読んですっかり打ちのめされた私は、まるで時代錯誤の求道者のように、孤独の中でしか見いだせない確固たる何かがあるはずだと、ただ頑なに信じていたのだ。

 私が自らに課した精神の探究という課題にとって、北大はまさに理想的な環境だった。およそ200万の人口を擁する札幌は世界でもっとも積雪の多い大都市として有名だが、実際、一年の3分の1は深い雪に閉ざされ、スキーにもスノーボードにも興味のない私のような人間は、それこそ屋内にこもって読書でもしているしかない。私は大学の広大なキャンパスに二つある付属図書館を根城と定め、授業時間以外はたいていそこで哲学書の類いに読み耽っていた。「物自体」「永劫回帰」「世界内存在」……こうした西洋哲学の抽象的で難解な概念を理解することは、二十歳前後の自分にとって恋愛や就活よりもはるかに切実な意味を持っていた。

 そんな冬のある日、図書館で閉館時間までフッサールの現象学に関する本を読んでいた私は、その帰り道で、ふと、人間が一個の宇宙にほかならないことを発見した。世界は決して私から独立して存在しているのではない。客観性の概念はまやかしだ。暗い夜道にぼうっと浮かび上がる積もった雪の白さ、肌を刺す空気の冷たさ、そして雪国特有の、ものみな停止したかのようなしんとした静けさ。私が私の五感を通じて把握するこの世界と、あなたがあなたの五感を通じて把握する世界は、きっと根本的に違っている。言うなれば、次元が異なっている。仮に精神のマルチバース(多元宇宙)というものがあるとすれば、私たち一人ひとりは、そこにぷかぷか浮かぶ無数の泡宇宙の一つなのだ。

 とくに根拠はないが、たぶん宇宙人はいないという気がしている。20億光年だか、138億光年だか、はたまた464億光年だかの広がりを持つこの宇宙で、人類は果てしない孤独を味わうよう運命づけられている。それと同じように、私たちの精神の宇宙のどこにも他者など存在せず、他者と思えたものは、実はどこまでいっても私の意識の延長にすぎないのかもしれない。アパートに帰った私は、窓のカーテンを閉め切って明かりを消し、空間を闇に沈めた。するとたちまち、七畳ワンルームの狭苦しい部屋は四囲の壁を失って無限の広がりを獲得し、私は硬い床に仰向けに寝そべりながら、先ほどまで天井だったところの闇にじっと目を凝らしはじめた。その奧に、何かの拍子にひょっこりと、別の宇宙へと通じるブラックホールのようなものが見えてこないものかと……。

 孤立する宇宙同士を結びつけられるものがあるとすれば、それは、決して交わることのない平行線をも交わらせることのできる非ユークリッド的な想像力だけだろう。この新しい幾何学の提唱者の一人であるロバチェフスキーは19世紀ロシアの数学者だが、私たちはドストエフスキーの畢生の大作『カラマーゾフの兄弟』にその反響を見いだすことができる。神の創った世界を断じて認めようとしないイワンは、弟のアリョーシャに次のように告げる。「神はユークリッド幾何学によって地球を創り、三次元の空間しか理解できない人間の頭脳を創った。その一方で、全宇宙が、あるいはより広範に言うなら、全存在がユークリッド幾何学によってのみ創られたということを疑う幾何学者や哲学者は、もっとも非凡な学者たちの中にだっていたし、今だっているんだ」

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