富野由悠季論

〈13〉イデと人間のあいだにあるもの――『イデオン』で獲得したテーマ

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の2つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回からはシリーズ「『イデオン』で獲得したテーマ」。その後の作品にも通底するものはなにか。全3回です。(バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

『ガンダム』との違い

 『伝説巨神イデオン』は『ガンダム』放送終了直後の、1980年5月から放送が始まった。富野はこの『イデオン』で『ガンダム』以上に作劇に踏み込んでいく。また現時点から振り返ると、富野は『イデオン』を通じて、戯作者として追いかけていく‟テーマ”とでもいうべきものを掘り当てたと考えられる。

 まず富野が、『イデオン』の物語をどのように構築したかを確認しよう。

 『イデオン』のメインスポンサーはトミー(現・タカラトミー)。「戦車」「タンクローリー」「幼稚園バス」が変形合体して巨大ロボットになるというコンセプトの玩具をメイン商材とした企画である。富野は『ガンダム』のときと同様、こうした玩具メーカーの要望に応えつつ、世界設定の基本的な要素を定め、物語の概要を執筆した。富野が執筆したメモは、『イデオン』の場合、総じて「ライナーノート」と呼ばれている。

 最初に書かれたライナーノートのタイトルは「スペース・ランナウェイ ガンドロワ(仮)」。ガンドロワは、メインとなるロボットの名称で、この段階で基本的な設定案と、第13話までのストーリー案がまとめられている。(※1)

 人類が外宇宙に進出し、外宇宙移民計画‟種の拡散作戦”を開始して50年が経過していた。アンドロメダ星雲のある太陽系にあるソロ星でも、移民が始まって3年余りが過ぎていた。このソロ星に、バッフ・クランと名乗る異星人が来訪する。彼らは、‟イデ”と呼ばれる無限力(むげんちから)の探索にやってきたのだ。このバッフ・クランとソロ星の人々との間で武力衝突が起きてしまう。ソロ星の人々は、遺跡から出てきたロボット(ガンドロワ、本編ではイデオン)と宇宙船(メイフラワ、本編ではソロシップ)でソロ星を脱出。バッフ・クランはそれを追撃することになる。

 この「ライナーノート」をもとに1980年1月20日に「企画書改訂稿」がまとめられる(※1)。これと前後して、メインのロボットの名前が正式にイデオンと決定、富野はその後も、最初のライナーノートの続きという形でストーリー案を書き継いでいく。

 『伝説巨神イデオン 記録全集5』(※2)には、最終回近くのストーリー案が掲載され「おおむねのストーリーは1980年6月23日に組まれたものであり、このシノプシス(引用者注:劇場版『発動篇』に相当する最終4話分)は同年9月6日に完成」と書かれている。つまり『イデオン』のストーリー概要は、1980年年初から同年9月にかけて固まったといえる。

 このように『イデオン』では原則、富野がライナーノートとして各話のストーリー案を執筆している(※3)。『ガンダム』は序盤に、富野メモが存在せず脚本チームの色合いが前面に出てくるブロックが存在し、それが作品を豊かにしていた。そういうブロックが実質的に存在しないのは『イデオン』の特徴といえる。例外的にライナーノートが存在しないのは、総集編である第22話「甦る伝説」と渡邉由自によるオリジナルストーリーの第31話「故郷は燃えて」だけである。

 もちろんライナーノートはあくまでメモなので、そのままプロットとして使えるわけではない。本編と比べれば、脚本家の手を経ることで、キャラクターのニュアンスが豊かになり、物語展開上の論理も整理されていることはすぐにわかる。

 また『記録全集1』に採録されたライナーノートの第9話から第13話については「改」と記されており、第9話のところ「注=山浦氏稿をベースに トミノ」と附記がある。おそらく第1話「復活のイデオン」脚本の山浦弘靖からなんらかの提案などがあり、それをどこかのタイミングで反映してライナーノートも改稿されたのではないかと考えられる。ここについては脚本家の渡邉も、最初の打ち合わせの段階でいろいろ意見を交わし「カララを好奇心だけで行動させるのではなく、平和主義者にして、人類の接着剤的な役割とし、物語のキーワードとする」などの提案を行ったと証言している(※4)。

 このライナーノートの段階で重要なのは、最初から「イデ」を主題とした物語を展開しているところにある。『ガンダム』におけるニュータイプが、企画書には存在せず、「SFっぽく見せるための擬態」などと称しながらも、作品の終盤を牽引する大きな要素となったこととは対照的である。しかし、ストーリー主義に陥らずに戯作を行うためには、主題は不可欠である。また「イデ」というのは非常に抽象的な存在で、極論すると富野の中にしか‟正解”のないものである。それは、富野がライナーノートでなにかイデというものをめぐる手がかりを書かないと、作品が成立しないということでもある。

 脚本家の渡邉は

 (引用者注:シリーズの)後半になって開き直って(と、私は富野氏に冗談を言いましたが、たぶんイデオンの先が見えたのではないかと思います。後日、現在に至るまでの富野氏の『イデオン論』が確立したのは、このころではないでしょうかね。最初からあったのなら言ってくれれば、シナリオを書くものとしてもっと違った表現方法が取れましたものを)からは、比較的難解さが消えましたし、面白さもでて来てたと思います。でも途中で打ち切りになってしまったのは皮肉でしたけれど。(※5)

と当時を回想している、「このころ」とは、前後の文脈から、1980年の秋ごろと思われ、ラストまでライナーノートが書き上がった時期の少し後であろうと推察される。この渡邉の文章からも『イデオン』は富野がまずライナーノートを書くことが前提となっていたことがわかる。そして、そこで富野がシリーズの行き着く先を見極めたことで、脚本家陣も脚本を書きやすくなったということがうかがえる。このように『イデオン』は、『ガンダム』以上に戯作者・富野が作劇をリードする形で成立した。それはそのまま両作の作風が大きく異なった理由のひとつだろう。
 

イデが人々を照らし出す

 富野は『イデオン』でなにを描こうとしたのか。それは異星人とのファーストコンタクトをきっかけに、‟イデ”という無限力に触れてしまった人々の群像劇である。物語のポイントは、イデという存在によって照射される各キャラクターの存在にあって、決して主人公の成長を描くというドラマ面での軸が明確な作品ではないということだ。

 企画書改訂稿の「制作主旨」には

主題 異星人と接触した人類はどのように‟種”を守るか? 無限のエネルギーを得た時、‟種”としていかに成長せねばならぬのか?

 この現象と観念をつき合わせた時我々はたえず、現実を切り開いてゆかねばならない、ということを視聴者に訴えたい。(※1)

とある。

 『ガンダム』の設定書・原案には「シリーズキャプション 君は何に命をかけられるか」「演出テーマ 少年から青春を見上げる」とある。「物語に描かれる世界」の項目にも、戦場という極限状態の中、新たな時代へと向かって立たなくてはならないということを、「少年たちは、本能的にかぎわけて突破しようとする」と、少年たちという「個人」のフィールドに立脚点があることがわかる。これが次第にニュータイプという「人の革新」と重ね合っていくところに作品の個性があった。

 これに対して、『イデオン』の制作主旨は、最初からキャラクター全体を俯瞰した、‟人類”‟種”というところに視点が置かれている。そこからも特定の主人公を追いかけていく物語を目指していないことがわかる。『ガンダム』では「生活感を感じさせる細部を描くことで各キャラクターを生々しく浮かび上がらせる」ということも、作品の目標であった。しかし『イデオン』ではこうしたアプローチはすでに前提となり、演出手法のひとつになっている。これはキャラクターの生活感の出し方や、画面の方向性を意識した演出などが、『ガンダム』同様に採用されていることからわかる。
 

自我のぶつかり――第13話を読む

 『イデオン』を代表する序盤のエピソードのひとつの例として、第13話「異星人を撃て」を取り上げよう。

 植民先であるソロ星を宇宙船ソロシップで脱出した地球の人々。そのまま地球に帰還すれば、地球の場所が異星人に発覚し、地球を危険にさらすことになってしまう。そのためソロシップはバッフ・クランの追撃をイデオンでかわしながら逃亡を続ける。ソロシップの中には、バッフ・クランの女性カララ・アジバが紛れ込み、ソロシップの指揮をとるジョーダン・ベスと惹かれ合うようになっていた。

 第12話「白刃の敵中突破」で、カララはソロシップを追撃する軍人の姉ハルルと接触。そこで裏切り者として、服を引き裂かれ辱めを受ける。そこを救ったのはベスだった。

 第13話のライナーノートは、その展開を受けてスタートする。(※1)

 バッフ・クランにも居場所のなくなったカララ。そんな彼女がソロシップ内で暗殺されそうになる。そもそもバッフ・クランとの戦闘は、カララがソロ星にお忍びで降りたことがきっかけとなって始まったもの。カララのせいで身内が死んだという恨みを胸に、銃を握ったのはひとりの少女だった。ライナーノートは「最も家庭的、主婦的な女の子バンダ・ロッタの殺意!」と書く。

 ロッタがカララを殺害するのを止めたのは主人公のコスモ。しかし、殺害に失敗し半狂乱になったロッタの姿に、ロッタを信じていた少女リンはおびえ、コスモは自分のやった行為に自信が持てなくなる。

 ライナーノートでは、以上のような内容を記したうえで、イデオンとバッフ・クランの戦闘をいれなくてはならない、というメモが併せて記されている。当時のロボットアニメは、毎回戦闘シーンがあることが必須条件なのだ。そのほかのエピソードのライナーノートでも、ドラマとは別に戦闘の推移が書かれていることが多い。

 これをもとに脚本を執筆したのが富田祐弘。そこから富野が絵コンテを起こした(斧谷稔名義)。

 完成した本編は、働くクルーにカララがコーヒーを差し入れるという様子から始まる。それを見てイデオンのパイロットのひとり、イムホム・カーシャが「人殺しの手先でしょ」ときつい言葉を放つ。続く、コスモと、イデの研究を行うフォルモッサ・シェリルがベスと会話するシーンでも、カララがソロシップ内で当たり前に振る舞っていることについて「話にならないわね」「ちゃんとしてくれよ」とベスに対してきついひとことを投げかけている。特にシェリルは、キツい性格で、本作では周囲の人間に否定的な言葉を投げかけることが多いキャラクターとして描かれている。

 こうした辛辣な会話が『イデオン』序盤の独特の生々しさを生んでいる。富野は第1話のアフレコの時にキャストに対して「(今回のキャラクターは我が強い人間なので)キャラクターを嫌いになってください」と話したという。当初からこうしたギスギスした会話が作品の狙いのひとつであったとわかる。

 その後、カララがなにものかに狙撃される様子が描かれるが、そこにバッフ・クランが襲撃をかけてきて、物語はしばらくそちらを中心に展開する。戦闘は、小天体(スターダスト)が密集するニンバスゾーンという危険な宙域で展開される。思わぬトラブルなども発生して、ロボットアニメらしく危機感を盛り上げる。

 ちなみに『イデオン』の戦闘は、「モビルスーツ」と呼称される同じカテゴリーのロボット同士で戦った『ガンダム』とはかなり毛色が異なる。人型の巨人であるイデオンに対して、バッフ・クランは戦闘機、宇宙船、三本足などシルエットが特殊なロボット(重機動メカと呼ばれる)などで挑んでくる。この一種の異種格闘技戦による戦闘のバラエティ感も本作の特徴だ。

 ようやく戦闘が終わりコスモたちがソロシップに帰還すると、そこではロッタがカララと対峙していた。

 本編はここからライナーノートと展開が異なっている。富田はこの展開について、富野との打ち合わせの中で、中途半端はよくないということで、コスモが止めるのではなく、ロッタが全弾をカララに向けて撃つという展開になったと記している(※6)。その上で、弾丸はカララの頬をかすめただけで、すべてそれてしまうという結末をつけた。そしてコスモは、死を覚悟してロッタの前に立ったカララ、泣き崩れるロッタを見て「みんな立派に見える。哀しいぐらいに立派に」とつぶやく。
 

傍観者としての主人公コスモ

 我の強い人物たちの点描から始まり、おとなしそうな人間の中に宿る殺意に迫っていくドラマは、その結末のつけかたも含めて見ごたえがある。ここで注目したいのは、主人公であるコスモが、ロッタとカララの対決の見届け役にとどまっている点だ。

 そもそもコスモ(に相当する主人公格の登場人物)は、最初のライナーノートの時点では、人物紹介の項目に存在していない。この時点では人物紹介の筆頭はベスが書かれている。これが企画書改訂稿でユウキ・シンという名前で主人公として立項されることになる。主人公になったのはイデオンのメインパイロットだからというところも大きいだろう。

 性格設定に関しては、メカに強い熱血漢で「欠点は、自閉症か?」と記述されている。ここでいう「自閉症」とは医学的に正しい使われ方ではなく、1980年当時の「内向的」を表す言い回しである。『ガンダム』のアムロも当時のアニメ雑誌などで、‟自閉症”という言い回しを使ってその内向的な様子が説明されている。

 ここで記された「熱血漢で内向的」という人物像からもわかるとおり、コスモの人物造形には手間取った節がみられる。アムロという画期的なキャラクターを造形した後、どんな人物を主人公にすればいいか迷っていたことの証だろう。最終的にコスモは、内向的なキャラクターではなくなっている。しかし一方でコスモは、『イデオン』という物語のストーリーラインを主体的に背負うこともなかった。

 例えば、コスモと比べると、異星人カララと恋に落ちるベスのほうが、むしろ主人公的ドラマを担っているともいえる。またドラマを進展させるという意味では、博愛主義者でありその結果として、バッフ・クランを裏切ることになったカララそのものが大きな役割を果たしている。しかし、このふたりにフォーカスすると今度は、ロミオとジュリエット的な要素が強調され過ぎてしまう。それでは、人間とイデという巨大なコントラストへと視聴者の目が向かない。コスモという、中心にいながらも傍観者の度合いが高いコスモが主人公だったからこそ、人間とイデの関係性という物語が見えやすくなったということはいえるだろう。そして、最終的にコスモは、「イデの思惑に最後まで抗おうとする人間」という役回りを担うことになる。(続く)

 

 

【参考文献】
※1 日本サンライズ編『伝説巨神イデオン 記録全集1』1981年、日本サンライズ
※2 日本サンライズ編『伝説巨神イデオン 記録全集5』1982年、日本サンライズ
※3 ただし第14話から第19話までは、富野が多忙のため、文章が短めのメモ形式になっている。
※4 中島紳介・斎藤良一・永島收『イデオンという伝説』(オタク学叢書VOL.2)1998年、太田出版
※5 富野由悠季監修『富野由悠季全仕事』1999年、キネマ旬報社
※6 日本サンライズ編『伝説巨神イデオン 記録全集4』1981年、日本サンライズ